02
※
川の水は透明だった。
ひどく冷たかった。
ハヤミがゆっくりとブーツを川に入れると、コツンという冷めた川底のガラスが世界に響き、同時に冷たい水がボロボロのブーツに染みこんで、火照ったハヤミの足を鋭く浸食していった。
「うっく……」
徐々に足先まで水が浸透していく。
気持ちよかった。
「……ふぅい。あ、あった……」
小川の中に、ハヤミの目は小さな歪みを見つけた。
拾うとそれは、青い滴を垂らしながら静かにハヤミの掌に納まる。
小さくて、青いサイコロ。
先程投げた時はひどく生温かったのに、今は小川の水と同じ、鋭い冷気が鋭くハヤミの手を突き刺してきた。
「あいつ、俺のサイコロを持ってっちゃったのかな?」
ハヤミはサイコロをポケットにしまうと、改めて周囲を見回してみた。
見えるのは、川を取り囲むように群生している緑色の植物たちの根と、枝と、葉と蔓。
その緑色たちも、よく見れば様々な、土や、見慣れない形の遺棄された兵器の残骸、木の実、枝、他あらゆるものが混ざった色なのが分かる。
穴だらけの、黒く焦げた戦車。
半分に割れた、風化したコンクリートトーチカ。
遠くには、太い蔓の上に巨大な花を咲かせた真っ赤な植物。
「明らかに……」
ハヤミの知る地下世界とは、別の世界だった。
明るくてキラキラしているガラスの世界に、巨大な蔓性の植物たちが川沿いに根を生やしている。
小川は、知らない森の中をゆっくり蛇行していた。
「この川はどこに繋がってるんだろう?」
水が染みて重くなったブーツを半ば投げるようにしてハヤミが歩いていると、よく見れば森には小川から脇へと逸れる獣道があちこちに見えた。
「……うーん?」
歩けど歩けど、行けども行けども、前を行っているはずの少女の姿は見えてこない。
「……もしかしてどっかから脇に入っちゃったかな?」
考えながらハヤミは小川を歩いていると、ハヤミは自分が歩いている川の水が、森の中で軽く木霊しているのに気がついた。
足を止めると、足元を流れる小川のせせらぎと、空から照りつけて来る太陽の光の、何とも言いようのない「音」が周囲に広がる。
風もない。
生物の気配もない。
空に浮かぶ太陽の光で、川とガラス状の川底で何かがキラキラと光っている。
見ればそれは川底には埋まっている、ハヤミが持つサイコロと同じそれが、いくつもいくつも青い光を輝かせているものだった。
この世界がガラスに覆われる前に、ここら辺にはサイコロが既に存在していたのだろうか。
川底のサイコロは、もう誰もその賽の目を振る事はできそうにない。
たぶん、永遠にこのまま誰も賽を振れないのだろう。
不思議な空間だった。
「……?」
ふと、どこかで音がした。
茂みの音で、何かが動く音。
少女だろうか。
ハヤミは後ろを振り返ってみた。
「……おん?」
だが茂みには、何もいなかった。
あるのは、いつもの静かな森だけ。
ハヤミはしばらくその場に留まってみたが、特に何も新しい出来事もおこらなかった。
小さく首を傾けて、ふたたび小川を前に歩き始める。
今度は先程とは違う方向から、比較的大きな音で、同じような音が聞こえた。
「!?」
前だった。
ハヤミが歩いている小川の、すぐ脇。
同じ「何か」が鳴らしたにしては、ちょっと距離がありすぎる気がする。
ハヤミはふたたび足を止めて、今度はよく耳をすましながらあるべき気配を探ってみた。
「……」
確かに、なにかがいる。
少女ではないらしい。
ハヤミは耳に手を添えてみた。
「……」
しばらくじっと耳をすましていると、今度は音のした場所からそれほど遠くない茂みから、緑っぽい小さな球体が姿を現わしてきた。
実は、ニョキニョキとハヤミの目に見える形で動いている。
「……あ? なんだこりゃ?」
近づいてみると、実は楕円形の巨大な植物の実だった。
森の中から蔓のようなものが繋がっていて、蔓に押されながら、実に生えている大量の刺で器用に地面を進んでいるようだ。
そんな動く楕円形……スイカのような実がズリズリと川辺まで降りて来ると、実が川の水に触れた瞬間音を立てて蔓を萎縮させる。
萎縮させた瞬間実が激しく動き、同時に茂みがスイカに触れて大きく音を鳴らした。
この世界特有の種だろうか。
音の正体は、どうやらこの“動く奇妙なスイカ”のようだった。
「なーんだ、ただの動く実かよ。変な世界だな。んー……アイツが持ってきてた木の実じゃないようだけど?」
スイカのような実が引っ込んだ場所をハヤミが覗いてみると、茂みの向こうに同じような形の植物の実が大量に存在するのを見つけた。
木の上から蔓が伸びていて、ぶら下げられる形で実が小さく揺れていたり、もしくは同じように地上を転がっていたり。
実と実がぶつかり合って、互いが互いを押し合っているものもある。
スイカのような実は、どれも爆発しそうなほどに大きく膨らんでいた。
「……変なの。こいつら、食えるのかな?」
実はどれも大きく膨らみすぎていて、どの実にも三筋の大きな亀裂が入っていた。
中には既に赤い果肉が覗いているものもある。
暑いわけではないが、湿気のある森の空気にフゥとため息をついて、ハヤミは額に浮かぶ汗をぬぐった。
「ふーむ……」
世界は、得体のしれない存在だらけだ。
見ると手頃な所に、ちょうどいい感じに熟れている実も転がっていた。
「……ここは一つ、新開地開拓の記念として毒味をしてみようかな」
言うとハヤミは動く実の一つに近づき、皮をむくべく腕まくりをして……
「おおっ?」
してみようとハヤミが実に手を伸ばすと、実はまだ触れていないのに、ハヤミの目の前で自らパリパリと皮を剥き始めた。
「な、なんだこれ、この世界じゃスイカは向こうから皮を剥いてくれるものな……」
皮を剥きながら、実はゴロンと転がって、剥けた中身をハヤミに向ける。
三枚に割れた厚い皮の内側には、赤くて薄い果肉層が小さくこびりついていた。
水っ気は見当たらず、あまり美味しそうではない。
代わりに果肉のさらに内側には、ビッシリと、鋭角を揃わせた大量の種が、ニードル弾よろしく周囲に向かって生えていて。
正確には、ハヤミとその周辺一帯を狙って、生えていて。
「……げっ!?」
ハヤミは声を出すと共に、その場に急いで伏した。
次いでスイカが激しく破裂する。
果肉が皮とともに周囲に飛び散って、一緒に大量の種状ニードル弾が、風を切ってハヤミの頭上を飛んでいく。
「…………ッ!?」
声を出したくても、何も言葉が出てこない。
しばらくたって周囲が静かになってからハヤミが頭を上げてみると、今までそこにあった緑の茂みたちは、今あった爆発で派手に裂けた木立や木の地肌が目立つようになっていた。
近くには大量の飛びきれなかったニードル弾が落ちており、目の前には爆発して真っ黒に焦げたスイカが、ゴロリと転がっている。
見れば倒れた木々の隙間に、すでに新しい木の芽が生えていた。
「な、なんだったんだ今の……!?」
スイカの爆発で、近くの地面は所々くぼんでいるのも分かった。
ただの自然爆発にしては威力がありすぎる。
でももし、今の爆発に人間が巻き込まれていたら……
ハヤミは、すでに擦り傷のできている自分の腕を見てゾッとした。
「俺まだ生きてるよな……?」
顔や腕を拭うと、場所は特定できないがどうやらどこかに傷があるらしい。
今までただ肌色だった手に、真っ赤なハヤミの血が筋となって媚びりついている。
ここから逃げる前に、ハヤミは森に殺されてしまうのだろうか。
ということは、安堵するのはまだまだ早いようだ。
見ると近くに転がっていた別のスイカたちが、今の衝撃で皮を一斉に開きかけていた。
ハヤミは一瞬大きな声をあげそうになったが、急いで口をふさいで、ゆっくりその場に立ち上がり、そのままできるだけ地面を揺らさないように小川まで後退した。
できるだけ、静かに。
慌てず。
急いで。
ハヤミが小川に戻ると、森の奥で大きく「メリメリメリっ」と音がしたが、それだけで、爆発は起こらずに世界はふたたび静かになった。
どうやら、爆発の連鎖は不発だったらしい。
「ふっ、ふぅーっ……助かった、のか。なんなんだこの世界は。古いバイオ兵器か何かの森なのか?」
気を抜くと、同時に体中から汗が滲み出てくる。
ハヤミは汗を拭い、見えなかった森の奥によく目を通してみた。
爆発で破壊された森は、すでに半分ほど新しい緑で回復している。
所々から奥が覗けるが。
その奥に、半分壊れたような古いゲート跡があるのを、ハヤミの目は見た。
植物たちは、どうやらこの古いゲートを守る形で群生しているようだ。
「なんなんだよこの世界は」
人に都合のよい形で、人によって作らされた世界……なのだろうか。
敵が残した世界の名残?
機械の溢れるジオノーティラスの地下世界とはだいぶ違うが。
ハヤミはフゥとため息をつくと、ふと何気なく後ろを振り返った。
「ぎゃあ!?」
すぐ後ろには、なぜか巨大な花がパックリと黄色い花びらを蠢かしていた。
緩慢な動きで、まるでハヤミの頭を花びらで包もうとしているかのようにゆらゆらと揺れている。
動くたびに花の雄しべから毒毒しい粉が地面に舞う。
本能で、とっさにハヤミは身を引いた。
「どっ毒花!? こ、こっちくるな!!」
ハヤミは揺れる花を必死に振り払ったが、そんなハヤミの腕に合わせて花はゆらゆらと揺れながらハヤミを追いかけた。
ハヤミは後ろに身を引きながら半ば小川を下る形で足を戻していたが、滑るガラスに足を取られ、ハヤミはつい体のバランスを失ってベチャリとその場に尻餅を着いた。
すぐ目の前に、花が迫ってきた。
「うわ、うわぁぁぁぁぁ!!」
花がハヤミに迫りながら、花びらを動かし、更なる毒花をいくつもいくつも開けて来る。
瞬間、花が横に大きく吹っ飛んだ。
「グッ……ブッホゲッホ……!?」
大量の粉がハヤミの顔に降り注ぎそうになったので、ハヤミは慌てて手を払りながら、急いで体をその場から下げる。
今度は、音が上から聞こえてきたようだが?
「……!?」
上を見て、ハッとした。
そこには、見覚えのある少女がいたのだ。
今までハヤミが追いかけていた少女が、ハヤミの知っているあの格好で、ハヤミの知らない銃を持って、じっと木の上に座っていた。
「お、は、はは、なんだお前そこにいたのか。な、なんだ、はあーっ……助かった!」
再び訪れる安堵感。
手についた川の水を使ってハヤミが自分の顔を拭うと、なぜか木の上の少女はハヤミに向かって銃を突きつけてきた。
「なっ!?」
「……」
状況が理解できない事に、ハヤミはふたたび慌てた。
だが少女は、落ち着いていると言うか……黙ったまま。
いつもの白い大きな翼を軽く広げながら、流れる亜麻色の髪を風に流して、じっとハヤミを見下ろしているだけだった。
「んなっ!? なんだよ、どうしたよユーマちゃん!?」
少女と同じ体型で、同じ髪で、同じ目で、同じ顔だち。
雰囲気もハヤミの知っている少女と同じ。
なのに少女は、ハヤミの知ってる少女ではないらしい。
ハヤミの知っている少女は、いつも笑っていたが。
ハヤミを困らせるような悪戯ばかりして、ハヤミをいつも呆気にとらせる。
少女は、まったく笑っていなかった。
覗いて見えるのは、敵意と、サイト越しにも分かる激しい殺気。
「ナヴォ ルヴィ」
少女は、ゆっくりと、ハヤミに向かってくぐもったような声を発した。
「なっ、ええっ?」
「……」
改めて銃を構えられ、川に腰を下ろしたハヤミは動けなくなってしまった。
少女は、冷徹な眼差しのまま。
冷酷な目で、眼下のハヤミを見下ろしている。
ハヤミはふと、今の少女を美しいと思った。
「……あの、もしかしてお前……いやあなたは……あの子と違う……人?」
ハヤミは恐る恐る、少女にゆっくりと指をさしてみた。
外見はどう見てもあの少女と同じ。
だが、少女は黙ったままハヤミの質問に答えない。
じゃあ、この少女は、誰?
「……」
「えっと……」
言葉をどう紡ごうかと考え、ハヤミが小川の中で軽く体を動かすと、少女の銃を持った腕が僅かに上がった。
無言の警告だろうか?
『動くと撃つぞ、って事かな』
思うと、ハヤミは素直に動くのを止めた。
動かす代わりに、ハヤミはゆっくりと片腕を上げて、自分の胸を指した。
よく、静かに、深呼吸をする。
「俺は、お前の、敵じゃない」
通じるかどうかは分からないが。
あの少女には、とりあえずこの意思は通じていたと思う。
もしこの少女が、自分の知っている少女と同じなら、通じない事はないはずだ。
「俺は、お前の、敵じゃない」
「……」
ハヤミは言葉を、ゆっくり繰り返した。
少女は黙ったままだった。
「俺は、お前の、敵じゃない」
ゆっくりと、しつこく言葉を繰り返してみる。
少女の銃は相変わらずハヤミの頭を狙っているが。
本当に通じているのだろうか?
小川とハヤミと少女を包む世界が静かすぎる。
ハヤミは、初めて自分で自分の鼓動を聞いた
「俺は、お前の、敵じゃない……分かるか?」
「……」
若干、少女の敵意が和らいだ気がした。
銃越しに見える少女の顔が、ほんの少し柔らかくなったような。
ハヤミはふたたび大きく深呼吸すると、改めて自分の胸を強く押した。
「俺は、お前の敵じゃない」
「……」
一瞬、少女が自分の胸を覗いた。
だがすぐに視線を元に戻してくる。
いや、たぶんそういう意味じゃないんだ。
「……ん、あれっ?」
ハヤミはほんの少しだけ脱力してしまったが、同時に少女の胸に、赤い何かが埋め込まれているのに気がついた。
こんなの、自分の知っているあの少女の胸にはあっただろうか?
銃を持つ少女は、腕に見慣れない入れ墨を掘っていた。
こんな模様、あの少女にもあったっけ。
「……っ」
静かすぎる世界に新たな謎が突然でてきた。
思わずハヤミが唾を飲むと、その小さな音に少女は大きく反応した。
改めて銃を構えつつ、ふたたびハヤミの頭に狙いをつけてくる。
脇をしめて、小さく唸るような声で
「ナヴィソ スォリー ソヴドメネ ダ ドム?」
あの少女と、まったく同じ様な声で、何かをハヤミに聞いてきた。
でもあの少女とは、何か聞いている質問が違う気がする。
もっとも、ハヤミは少女たちの言葉が何も分からないのだが。
「う、うえええ。あの、俺はお前の……いやアナタの言葉が分からなくて……」
「スォーム? ネヴィ ユア」
「い、いやあのその……」
口吃りながら弁明を繰り返したが、少女は銃を構えるだけで、どうしてもハヤミの答えを理解しているとは思えない。
互いに言葉が通じないのに、少女がイライラしたのだろうか。
少女はついに、銃のコッキンを大きくスライドさせた。
「アドブヅェー ィ ヴィトュム?」
飛ばされた薬莢が、大きく放物線を描いて地面に落ちる。
この状況は、どう見ても尋問だ。
答えなければ銃殺。
でも何を答えればいいのだろう?
「あ、あわわわ……えっ、いやその……ええとッ」
「ズィヴェースキ ヴ?」
「あ、ああとその……ええと」
「ビドゥポゥーヴェ」
「ゆっ、ゆゆゆーま!!」
分からない言葉で問い詰められて、追い詰められ、動けない川の中でハヤミは思わず変な言葉を叫んでしまった。
「ゆっユーマ! ユーマ! ……ユーマっ!」
突然意味不明な言葉を叫ばれて、言われた方の少女も、言った方のハヤミも呆気にとられた。
少女は木の上で銃を構えながらポカンとしているが、言った方のハヤミは川に手を着いて、さらに頭の中でパニックを起こして慌ててしまう。
なんだよユーマって。
言葉が通じない相手にユーマって何なんだ?
「ゆっ、ええええーっと……」
あの少女に連れられてここに来た!
でも少女って誰?
彼女の名前は?
ハヤミは足りない記憶を無理やり捻り、ローリングとヨーイングを繰り返して、なんだっけなんだっけと頭の中をグルグルした。
そして辿り着いた答え。
「……ぷっぷるしげは!!」
何を言っているんだ俺は。
ハヤミは言いながら変な顔をした。
言われた少女はもっと変な顔をした。
「プルゥシ・ゲー・ハー?」
眉間に皺を寄せながら、銃のサイト越しに何か納得できてないような表情をしている。
木の上の少女は銃を構えながらしばらく黙っていたが、眉をひそめ、黙ってはいたが何か考えている様子だった。
「……」
ほんの少し時間が経ち、静かな世界に小さい風が吹く。
すると少女はおもむろに「ウン」と小さく息を発して、銃の引き金を引いた。
パァン! と、乾いた銃声が世界に広がる。
コンマ数秒経ってから、ハヤミは「自分が撃たれた」事を認識した。
認識はしたが、どうも痛みはどこにも感じない。
認識から、次いで「事実」を確認し、状況を理解して、今度は「恐怖」が心を支配してくる。
(途中空白)