01
白い雲。
黒い雲。 霞む世界。
単調な、エンジンの叫び。 アクリルガラスの向こうに広がる、果てしなく続く、空。
自動操縦を続ける操縦桿。
ほとんど動くことのないスロットルレバー。
正面ディスプレイには、何時間も点きっぱなしの『No objective(異常なし)』の緑の文字だけ。
「……くあ」 パイロットが小さく涎を垂らしながら、次いであくびをし、天を仰いで、絶望する。 もう何度目だろう。 シートを倒し、ヘルメットを脱ぎ、パネルの上にブーツを脱いだ裸足をだらしなく載せる。 はるか向こう、雲の先に大きな渦が見えた。 戦闘機の自動航行装置が反応し、操縦桿を静かに動かす。 鉄の翼の高性能超音速戦闘機……アークエンジェルが小さく補助翼を動かし、風になびく日焼けした乳白色を僅かに傾ける。 ゆっくりと四角いディスプレイに置かれる三角の白いマークが、表示されていた予定飛行ルートをほんの少しずれた。 放射能を含む大気を静かに裂き続ける乳白色の翼。
アークエンジェルはいつも静かだった。 そして何事もなかったように、白と黒の渦まく暴風域の脇を無言で通りすぎてゆく。 操縦桿が再びゆっくり正位置に戻ると、機体は再び巡行航行に入った。 『なんか……ねーかなぁ』 何度となく頭に流れる自分の声。 ディスプレイを覗くと、いつも表示される文字は『no objective(異常なし)』しかない。 用意されている答えはいつもそれだけ。 本当に、何もない。 何十回目かの、ハヤミのあくび。 そのあくびに、備え付けのハヤミのカメラアイが反応する。 『Are you fine?(何か異常がありますか?)』 「あ゛ー。なんもねーよ、マイエンジェルちゃん」 ハヤミは面倒くさそうに返事をすると、サイドキーボードをゆっくりと叩いて戦闘機の質問に答えた。 ディスプレイに映るカーソルが自動でYESを選択肢。 そしてふたたび静かになる機内。 いつから空は、こんなに退屈になったのだろう。 物思いにふけるしかないハヤミは、ボウッと空の上を見上げた。 ぴよぴよぴよ。 『ヨジダー! ヨジダー! モウヨジダゾー!!』 ふいにハヤミがパネルにはめ込んだおもちゃ時計が、四時の警報を鳴らしはじめる。 のっそりと重いハヤミの裸足が動き、ガツンとおもちゃ時計の頭を叩き潰した。 また、静かな時間。 そして聞こえて来る、いつもの単調なエンジンの響き。 「……あー」 死ぬ。 死んでまう。 暇すぎて時間に殺される。 ハヤミが口に垂れた涎を拭きつつゴロンとシートの上で寝返りを打つと、その目線、アクリルガラスの先に、通りすぎつつある白と黒の大きな大気の渦と、よく見れば二番機……ハヤミに追従する僚機の鼻っ面が見えた。 ※ 「二番ァん機、応答しろー。暇すぎて脳みそがとろけちまう、助けてくれェ」 『……』 「……死んだか?」 安眠イスのようなパイロットシートに体を沈ませながら、ハヤミはシート脇に転がせたヘルメットに付いたマイク……インコムに大きく声を投げた。 シート脇には、ベルトに縛られた読み終わった本が乱暴に積まれている。 空の上、アクリルガラスの向こうは、相変わらず真っ白な雲と真っ黒な雲しか広がっていない。 『……まだ、生きてる』 「俺の脳内映画だと、確かお前は死んでたはずだ」 『俺の映画だと、その前にお前は確か撃墜されてるはずなんだ」 「題名は?」 『on your mark』 「ふーん。なんかどっかで聞いた名前だな?」 『だろ。主題歌はこれなんだ』 そういうと無線先のカズマの声に、古いアメリカンミュージックが微かに混ざって聴こえてきた。 この音楽は……でもどこかで聴いたことある音楽だ。 「お、懐かしい。もっと音量上げろー」 『イヤだ。オメーに聴かせるMP3は、ねー」 「ちぇっ、カズマのケチ!」 『自分で持って来ればいいじゃねーか』 「……知ってるかカズマ。空は蒼いんだ」 『へーぇ』 「あの映画だとそうだったよな」 『だったなー……』 ハヤミの言葉。
二人は揃って黙りこむ。
カズマは本当に黙っているんだろう。
ハヤミは腕を組んでムスッとすると、パネル正面に取り付けてあるカメラを睨んだ。
カメラはハヤミを見据えたまま、たまに小さくピントを動かしてハヤミの顔をみ続ける。
ハヤミはカメラに向かってイーッと歯茎を見せた。 カメラは、やっぱり動かない。 「……!」 『……何してるんだお前?』 「えあ?」 『変な顔のお前が、一段と変な顔をしてる感じがする』 「なに、お前カメラ見てんの? 悪趣味なヤツだなー」 『暇だったから』 「悪趣味なヤツだなー」 『暇そうだな。っつかさ、なんでお前はMP3とか空に持ってこないんだ?』 「俺はー、そんなちっこい機械で音楽なんて聴かない主義なの。分かる? 音楽くらい“本物志向”でいこーぜカズマぁ」 ハヤミはカメラに向かって歯茎を見せ続けながら、指先テクニックと口先テクニックで器用に毒づいた。 『あ? “本物志向”って何だよ?』 「クラシック。生演奏ってヤツだ」 『お前そんなの聴く人間だったっけか?』 「これから、なるんだ」 『……相変わらず口だけだな。お前はガキか。このミッションが終わったら少し行ってみるか? 確か俺たちの住んでる居住区画のすぐ隣で毎週そういう系の催し物を……』 「いつかな。いつか見に行こう」 『いつだよ?』 「今度映画館に行ったついで」 『えっ、お前金あんのか? だったらお前俺に早く金返……』 「ない」 ハヤミは言いながらシートに倒れ込むと、再びコクピットの遠く向こう、淡く霞む空を眺めながらまたぼんやりした。 「ついでに言うと、MP3も買う金も、ないっ」 『……なるほど』 「だから……暇なんだ」 シート脇に積まれた日焼けした本たち。 どれもハヤミが何回も読み直してきたような古い本だ。 ハヤミが再び大きなあくびをすると、無線先のカズマの音楽がカチカチと早送りされ、耳に流れて来る音楽が別の音楽に変わった。 でも、これもどこかで聞いたことのあるような音楽で。 「はあーあ」 ハヤミは何十回も繰り返してきたため息を吐いた。 『……自業自得だなー。何に給料使ってるんだか』 「これを暇と言わずになんと言う?」 『お前は何で空なんか飛んでるんだ?』 「夢を追いかけてますっ!」 『ヘイヘイ夢見がちなお子ちゃまですねー。なあ夢ボウヤ、お前、貯金今いくらあるんだ?』 「貯金があったらお前に借金なんかしてるかよ。なにもねー、金もねー、俺ぁつまんねーだけの現実に飽きてるんだーいよっ」 『自分に金が無いのを世界のせいにするな、だろ?』 「つまらないこの世界! 脱出できねーものなのか! エジェクトだ! エマージェンシーコールだ!」
『やめろ、仕事がふえる』
「……へんっ」 『それで? 小隊長殿の本日のガラガラは何なのかな?』 「よく聞いてくれた。いいか。よく聞け。本日の俺様の宝はナ、摩訶不思議、古代東洋の生み出した伝説の秘宝“サイコロ”だ」 『なにそれ?』 無線先でカズマの間の抜けた声がしたので、ハヤミは勢いをつけてガバッとシートから身を起こした。
胸元のポケットから、一つのサイコロを取り出す。 掌の上でコロコロと転がすと、窓の外の僅かな光を吸ったサイコロは淡いオレンジ色を光らせた。 サイコロは、多面体だった。 『サイコロって何?』 「宝石みたいなものだ。高いんだぜ。しかもこれはな、露天のオッチャン曰く宝石でできているらしい。しかも、形が変わってて歴史的にもとても珍しいものなんだと! どうだスゲーだろ!」 ハヤミは正面パネルに添えつけられたカメラに向かって、グイッとサイコロを近づけた。 だが、ヘッドホンから聞こえてきたカズマの声は変わらないままだった。 『はあ』 「俺ァな、もうお前との人生ゲームで負けてやんねーんだぜ。さあ俺と戦え! そして降参しろ!」 『そだなー』 「……つまんねーぞカズマぁ」 『お前のアホ面しか見えん』
「えー。なにお前の機体だとこれが見えねーのか?」
カメラの前でサイコロをブンブンと振てみる。
『カメラだろ。お前の顔だけ見えるシステムだし』
「じゃあ今からそっちに行ってやる。そこでちょっと待ってろ」
『あーあーあー、ハヤミ君。お前さ、今俺たちがどこにいるか知ってっか?』 「知らんっ」 『……俺はお前の隣を、お前と一緒に、ヒコーキに乗って音速で飛んでんの、分かる?』 「だからどーした」 『お前にはなあ、翼はねーんだ。これも分かるか?』 「……知らんっ」 『そして俺にも無い』
「それは残念だ」
『来るならパラシュートを開いてからどーぞ』 無線先の音楽は相変わらずだった。
ハヤミはシート脇をゴチャゴチャ荒らすと、パネルの隅から小さなボードゲームを取り出した。 シートには先客の小物達が散らかっているが、それらをハヤミが乱暴に整理して空きスペースを作ってボードゲームを広げると、シート内に手作りの小さな人生ゲーム場が広がった。 発進も着陸も巡行航行中も、どうせ手放し操縦だし。
何をしてもしなくても、機内はすぐにクリーニングされるし。 ハヤミは事前に用意した鉢に、別にカズマ用の白い六面体のサイコロを用意すると、オレンジのサイコロと一緒に握って無線先に、「さあ勝負だ!」と宣言した。 『……何の話?』 「俺のターン! んーと……十二! んで、三マス進む、と。いきなり幸先いいぜぃ! ほれ、次はカズマのターンだ」 『今度は何をしてるんだか。とりあえず、四』 無線のカズマが、呆れ声でサイコロの目を指定する。 四が出た。いや出した。 「ほいよ、四」 『何ー?』 「金払えだと。一万ドル」 『……なにそれ? ゲームなのか?』
「そうさ。だから一万ドル」
『ついでに、お前が金を返してくれ』 「えー何の話?」 『現実の話』 「それは後程って事で」 ハヤミはカズマの追求をサラリと受け流し、カズマのゲームボードからそっと一万ドルの札を抜き取った。 札束を全没収。チョチョイと。 ラクショー。 「おっし! これでお前の残金は、いきなりゼロだ! よかったな! やーい、びんぼーカズマーぁ」 『……どーしよーなー』 カズマの無線は、いつまでも無表情だった。 いじりがいも何もない。 しばらく双方無言の時間が続いたが、ハヤミは無言の間にサイコロを勝手に転がし続け、自分の駒だけを先に盤上を進ませた。 何かイベントがあっても、無視。 ハヤミはカズマの駒を大きく引き離してゴールしたが。 「……カズマぁ」 『なんだー』 ハヤミは人生ゲームのボードを勢いよくひっくり返した。 勢いで白とオレンジのサイコロが宙に浮く。 ハヤミはそれらを、手も触れずに再び胸ポケットの中にしまい込んだ。 「暇だ。死ぬ。助けてくれ」 シートに倒れこむ。 コクピットの中に、シートに倒れこむときのドスッという音が鳴り響いた。 『イヤだ』 「じゃあ殺してくれ」 『めんどくさい』 「むぅ」 カズマのケチめ。バーカバーカ。 ハヤミは人生ゲームのボードを足で蹴ってコクピットの奥にしまい込んだ。 そして空いた足をボードの上に載せ、再び空の彼方を見上げる。 空は、どこまでも真っ白で。 雲だらけ。 そのくせどこに飛んでも何もなくて。 俺は何をすればいいんだと。 ハヤミは無言の断末魔を空あくびとともに吐き出した。 「なんで空には何も無いんだ?」 『お前は何かあった方がいいと思ってるのか?』 「当たり前だろ。お前なー、俺たちが何のために軍に入って空飛んでると思ってるんだ?」 『仕事』 「え、お前それ本気?」 『そう思うしかねーだろお』 「へん、つまんねーヤツだな」
『じゃあお前は何のために飛んでるんだ?』 無線先でダルそうに絡んでくるカズマ。 空を飛ぶ理由。 仕事?
任務?
いや、本当はある。 最近はよく分からないが。 だからハヤミはシートに寝ころんだまま、口をつぐんで何も答えなかった。 「暇すぎて死ぬ。小隊長として、ちゃんとエマージェンシーを宣言した方がいいのだろうか?」 『ダメに決まってんだろー』 「観測ポッドって、もう落としたの?」 『さっきな。お前寝てただろ?』 「燃料補給は?」 『そりゃ六時間前の話だがな』 「未確認飛行物体とか」 『小隊長殿。そんなヤツ、ここ百年ほど誰も見ておりませんが』 「機体トラブルとかー」 『我が軍のメカは百年経っても大丈夫らしいですぞ」 「アレだな、この空はきっとミステイクなんだ」 『……ん? 映画の話?』 「そ」 『……そろそろ現実を見た方がいいと思うぞハヤミ』 「イーヤーダーね」 『あ、そ』 古い音楽に合わせ、偵察機パイロットのカズマは、やや断定的な口調で答えた。 『くだらない夢とか希望なんてよ、さっさと忘れちまった方が後々楽だぞ?』 ため息まじりのカズマの声。 空には、どこに行っても何をしても、何もなかった。 何もない空だから、何もできなかった。 何もできない空で、神は俺に何をしろと? “no objective(敵影なし)” いつもディスプレイに表示されている、いつもの文字。 何もない空は、いつも通りの苦痛の世界だった。 「カズマぁ」 『なんだー』 「殺してくれぇー」 『遠慮しとくー』 「カズマーぁ……」 『しつけー』
「えうー、あー……んー。じゃーなーぁ、俺はぁ、お前にィ、命を賭けた決闘を申し込んでみるぞぉ」
何を言ってるんだ俺は?
自分でも想定してなかった言葉を自分の言葉が発して、ハヤミは自分で驚いた後、すぐに「でも名案かも」と思い直ってほくそ笑んだ。
※
『ハァー? お前、今何て言った?』
やる気のないハヤミの声から発せられた支離滅裂な決闘宣言に、カズマは無線先でやる気のない戸惑いの声を出した。
そりゃー当たり前か。普通は驚くわな。
ハヤミは人指し指で鼻の穴をじっくりホジホジした後、ゆっくりと穴の中から指を取り出した。
「だってさー。暇じゃん?」
指先にくっついた何かを、ハヤミはピンッとはね飛ばす。
『ハァー?』
「何もないなら何か自分でやるのがいいって事で。俺はカズマに、決闘を申し込んでみる」
『そんなシーンは、あの映画に無かったと思うが?』
「だからさ、創ってみた」
『勝手に?』
「勝手に。楽しそうじゃん」
『……お前はやっぱり何を言ってるんだ?』
無線先のカズマの声に明らかに戸惑いの雰囲気が聞こえて来る。
「本気で撃墜とかやらねーよ? アレだよアレ、演習ってやつ。実弾を使った模擬空戦」
『お前はバカなのか? オコチャマは自分が何を言ってるか分からないのか?』
「うるせーなぁ。何もない空なんて死ぬくらいしか他にやれる事ないじゃん。つまらんじゃん。堪えられん。そんな空は俺様は大嫌いなんだよ。だからさ、どうせだったら最期くらいは自分で空に華を添えても別に罰は当たらなさそうじゃん?」
『はあー』
「むしろ死んだらそれまでって事で」
『え……』
無線の先でカズマは、ため息のような、唸り声のような、なんだか煮え切らない声を上げた。
ディスプレイには、相変わらずの“no objective(敵影なし)”の表示と、基地帰投時刻の逆カウントダウンタイマーの「01:30」のみ。
ハヤミは指先の異物をピンッと弾くと、ガバリと低反発シートから身を起こし、サイドパネルに備えつけられている小さなキーボードを引き出し、叩いた。
コード“004”。
空戦指示。
正面ディスプレイが一瞬黄色になり、“Caution(警告)”と表示され、すぐに“Autoflight off(自動操縦装置切断)...ok?”と赤い警告表示が出てきた。
『……おい貴様。今何をした。レーダーからお前が消えたぞ?』
「気にしたら負けだぞカズマ」
『負けってなんだよ、負けって』
敵味方識別装置、オフ。
フライトレコーダー、電源オフ。
様々な警告がディスプレイに映し出されたが、ハヤミは全てにYESを選んだ。
最後は機体そのもののエアデータコンピュータをシャットダウン。
確認のキータッチは一つだけだった。
“You’re not fine(貴官は正常ではない). check order 66(オーダー66を確認せよ)”
“YES”
ハヤミはディスプレイに表示された警告を、読まずにそのままチェック(確認済)した。
“You’re free. good bye”
コンピュータの電源が切られ、航空機は全ての自動航行機能が止まった。
機体は大きくフラついたが、そんなのハヤミにとってみれば屁でもない事。
手動で機体コントロール権を奪ったハヤミはすばやく操縦桿を動かし、ラダーペダルを踏み込み、タブを自分用に微調整し、エンジンの出力を調整し、機体のコントロール権を瞬時に回復させる。
コントロール権奪取から姿勢回復まで、その時間はわずかに〇.二秒以下。
ハヤミはすばやく機体の微調整と機体各所の動作チェックを済ませると、最後にまたキーボードをタタタンとタッチした。
FCS(火気管制装置)起動。
ブスッとしていたハヤミの顔が、一瞬小さく笑った。
『おい! レーダーのお前が赤くなったぞ!? 今度は何やった!?』
ハヤミがキーを叩いてすぐ後、無線からカズマの悲鳴に近い声が聞こえてきた。
『おい!! おいおいおいまさかハヤミ……!?』
「んー、ちょっとだけオーダー六六を発動した」
オーダー六六とは、俗に言う亡命に関する軍の規定である。
軍は、正規には所属軍人の亡命を認めていない。
ただし軍は、軍人が反乱を起こした時の対処法として『軍人としてのあらゆる権利や許可をすべて取り消す事ができるガイドライン』を規定している。
それがいわゆるオーダー六六なのだが、それは紙面上の記述の些細なミスにより、確信を以てこれを実行するとすなわち「軍人としてのあらゆる権利を放棄すれば軍人を辞める事ができる」とも解釈できるのだ。
ただしオーダー六六を実行して失う事になる『権利』は、パイロットなら操縦する航空機の操縦権も含まれる。
例えそれが、空の上でも。
権利はいつでも捨てる事ができた。
『お前はバカか?』
「いいや天才だ」
言いながらハヤミは、簡易キーボードをタッチしつつける。
『は……?』
「うぃーあーふりーだむ。決闘。楽しそーだべ?」
『ねーよ! っつかお前、今どうやって飛んでるんだよ!』
当然過ぎるカズマの指摘に、ハヤミは愛機のYF―17 アークエンジェルをグルリと一回転させた。
シートに積まれていた小物がうるさく機内を舞う。
大小様々なガラクタと、白のサイコロとオレンジのサイコロが、ハヤミの顔面を打つ。
ハヤミが二つの大切なサイコロを胸ポケットにしまうと、航空機のマークが予定航路図から微かにずれた。
危険・マニュアル操縦。
散らかった小物がハヤミのフットペダルに挟まって操縦しにくい。
「隠し手動モード。エアロビオニクス全無効化して飛んでる。俺のアークエンジェルちゃんはなぁ、がんばれば宇宙も飛べるいい子なんだぜ。どーだ、すげーだろ!」
『お前はバカか!!』
「いいや天才だァ!!」
ハヤミはさらに機体を一回転させながら、おもむろにカズマの操縦する二番機、巡航航行中のTEF―22『デュアルファング』の真後ろに張り付いた。
驚いたのはカズマである。
さっきまで味方だったハヤミ機が敵になり、しかも巡航中の自分の背後を取ってきたのだ。
『ばっ、バカ止めろ!! お前味方を撃つ気か!?』
「安心しろカズマぁ、痛いのはほんの一瞬だって。うふふふふ」
あいあむマッドパイロッツ!
ロックオンモードを起動しつつハヤミがトリガーの上で指をスリスリすると、ほんの少しだけ、カズマのデュアルファングはビーム射出口を動かした。
ハヤミの乗る超音速戦闘機アークエンジェルは、誘導式ビーム兵装を装備した超高速戦闘機だった。
空力特性を考慮したスマートな三角翼と、長い二枚の垂直尾翼。
固定武装は気化水素に高エネルギーを加えてプラズマ化させたガンターレットだが、それとは別に主翼下部には誘導ビームを射出する鋭い三角形を突出させている。
対してカズマのデュアルファングは、大型のサークルレーダーと各種電子妨害機器、自衛用自立式ビット兵器を装備する、滞空型偵察プラットフォームだった。
機動性はアークエンジェルより劣るものの、火力とレーダーの索敵範囲はアークエンジェルより数段上の物を搭載。
その上ステルス性能も併せて持っているので、外見はアークエンジェルに比べて非常に特異な……というよりも、まるでハリネズミのような外観をしていた。
ハリネズミには、一つだけ弱点がある。
自衛用のビット兵器を機外に放出させる特性上、ガンマ機は射撃する前に約〇.七秒の予備動作が必要になるのだ。
その〇.七秒のタイミングさえ把握していれば、『多少の』スキルさえあればハリネズミの攻撃はすべて回避できるのだ。
ハヤミはそれらデュアルファングの特性と、カズマの癖も含めてすべて知っていた。
もちろんカズマの操縦技術もある。
だが。
『……ハヤミ! お前、空戦で俺に勝負を挑む気か? これが最後だ、はやくそのバカ止めろ!』
「おお? お前、空戦で俺に勝てると思ってんのかよ? 当てられるなら試しに当ててみてくれあー」
言うと、カズマのデュアルファングから微弱なレーザー光線が照射され始めたとのアークエンジェルの警告が機内に響いた。
カズマもデュアルファングの特性を熟知している。
ハヤミの癖も全て知っている。
そしてそれ以上に、二人は二人をよく知っている。
ハヤミとカズマは、もう何年も一緒に空を飛び続けてきている仲なのだ。
『勝負は別に空戦じゃなくても良いはずだよなぁ?』
「いーや? 俺はお前と、空戦で勝負したいんだ」
『ほほう?』
カズマの威圧的な質問に、ハヤミは機体をグルングルンとデュアルファングの周囲を旋回した。
翼と翼の隙間は、すでにニアミスどころの距離ではない。
『なかなか余裕そうじゃないか』
「負ける気がねーからなぁ」
『ふんっ、じゃあなぁ……お前のその望み……今すぐ叶えてやるよバカハヤミぃ! 死ねっ!!』
ついにガンマ機がフィンを光らせた。
その〇.七秒後。
「うおぉぉう!?」
『お前とはなぁ! 一度こうやって、本物の空で戦ってみたかったんだァ! ……死ねッ!!」
紫のビーム弾を全方位に射ち始める黒色のカズマ機。
完全に戦闘モードに入ったカズマは、機体の放射フィンをすべて全開にしてハヤミ機に襲い掛かった。
『おお、本物の“フライングハリネズミ”』
久しぶりの激昂カズマ。
小物のシート内嵐に打たれながら、ハヤミは無線先から聞こえるカズマの罵声にニンマリと笑った。
※
『待てハヤミぃぃぃぃ!! テメーは絶対に許さん!!』
「待てと言われて俺が待つと思ったかーっ!!」
カズマの怒りの声に対し、ハヤミはすべて紙一重で避け続けながら即答した。
迫りくる紫のビーム。
ハヤミは全ての弾幕を翼端にかすめながら、回避機動に移る。
小物たちが目の前に降り注ぐが、それでもハヤミは操縦桿を握り続けた。
目に映る他のゴミなんてどうでもいい。
大切なのは、討ち取るべき目の前の標的だけ。
「クールだぜ!」
そしてハヤミは機首を上にあげ、カズマ機の真上をとった。
すかさず反転、同時にコード007をキーボードに打ち込んで演習モード起動……のはずだったが。
「……あ、そーだ」
数十フィートほどカズマから高度を離したハヤミは、突然機首を上に向けたままスロットルをフルオープンにした。
さっきまでの真剣さが急にどこかに消えていく。
これはハヤミも、予想外だった。
『ぬ! コイツどこ行きやがるっ!!』
でも、もしかしたらこんな思いつきもいつもの事なのかもしれない。
カズマの放つ紫の次弾も難なく回避し、ハヤミのアークエンジェルはそのまま空の一点を目指す。
「……天!!」
『っ!?』
カズマの驚きの声が聞こえ、同時にそれを打ち消すほどアークエンジェルのエンジン音が悲鳴を加速させはじめた。
高度計が今までと比べられないほどの高さを示しはじめ、機外温度が下がり、それでも高度計の針は止まらずグリグリと回転を続ける。
高Gでハヤミの体はシートに縛りつけられ、ついに対地高度計がレッドゾーンを超えた。
エンジンが、突然静かになった。
シートに挟まっていたヘルメットがコクピットの隙間に漂い始め、パネルのヨジダ時計がフワフワと動きだし、バッグの隙間から漏れだしたサイコロたちが宙に浮た。
「やっぱ、なぁ……」
暗い空。
「なんも、変わらないよな。空を登ったって」
何もない宇宙。
空の限界。
何年ぶりだろう。
「『宇宙に神はいない』、誰の言葉だっけ」
独り言を呟き、しばらく時間が経つとコクピットのアクリルガラスの向こうに、白い地球が見えてきた。
機体が反転したのか。
目を横に流すと、いつか見た空、黒い宇宙が見える。
刺すように孤独な、黒。
宇宙は、楽しくなかった。
そんなはずはないのに。
「何をやっても、どこまでいっても……」
ハヤミがしばらく物思いにふけるように無重力に意識を巡らせていると、オレンジ色に光るハヤミのサイコロが一つ、コチンとアクリルガラスに当たった。
ハヤミの目の前を、まるで何かのスローモーションのようにして漂っていく。
いつものサイコロ。
定まらない目。
しばらくサイコロは目の前で廻り続けたが、だんだん回転が遅くなっていくと、ある一つの目をハヤミの目の前で示した。
その数字はいつもの
「……何もない空、ってか。超つまんねー」
※
『……気は済んだか?』
静かだった機内に、突然カズマの無線が飛び込んできた。
「なんだ、もう追いついてきたのか」
『バカヤロー、オメーはいつもいきなりなんだよ。たまにゃーついてく部下を気づかえっての。ええ? しょーたいちょー殿?』
真上を見れば……いや、無重力で機首が半回転したアークエンジェルから地球側を見れば、そこにはいつものハリネズミ……カズマのデュアルファングが飛んでいた。
「やっぱさー。映画みたいにうまくいかないもんだよな、人生って」
『お前は何のために空を飛んでるんだ?』
「知らねーよォ。むしろこっちが聞きたい。俺ぁな、ナンにもない空なんかを飛び続けるのはもう飽たんだよ。本気で撃ち殺してくれれば良かったのに。俺ァ死にてーだぁ」
『そりゃーずいぶん弱気だな。大事件だ。お前にゃ女神様がいたんじゃなかったっけか?』
「あー? 宗教のメグミちゃんか? あの子とはこの前別れたんだぜ」
『はぁー。別れたったって、ついこの前までメチャクチャ仲良かったじゃねーか。赤毛のショートヘアーでよ、結構かわ……』
「ん? そりゃー別人だろ。たぶんアンリちゃんの方だ。あの子の宗教にゃ女神なんてないんだぜ。ついでに言うと、アンリちゃんとは一昨日別れた」
『あーさいですか……死んでしまえ』
「おーかーげーさーまーでーな。週末は暇なのだよカズマ君」
本当は“ずっと退屈”とハヤミは言いたかった。
だが言わなかった。
なぜなのかはハヤミにも分からない。
スラスターで姿勢を微調整すると、ハヤミのコクピットに小さな星の輝きが映った。
写真とはちがう、黒い宇宙に直接輝いて見える、真っ白な星だった。
「きれいだな」
『ああ』
「俺も星の光になりてーなぁ」
『だなー』
「……星になるかー」
『どうやてって?』
「よし、俺は今から星を追いかける。自転車で。青春真っ只中号だ」
『……』
「無いから代わりに戦闘機で追いかけちゃう!」
『……お前なー、現実逃避も大概にしろっての。ええ? お前今自分がやることあるの知っ』
「俺はこのままスロットルをMAXに持っていき、盗んだ戦闘機で宇宙に一つだけの自分の星に向かって永遠のフライトを……」
「おーい、帰ってこーい。俺は早く基地に帰りたーい。帰って、狭っ苦しいコクピットから降りたい。タバコも吸いたい。酒も飲みたい。燃料も持たん。だからよ』
「んー」
『小隊長殿。さっさと帰投命令を、出してくれやがれってんだ』
「俺はァ、あの星の輝きの一つに……」
『……あと金返せ。七万。早くオーダー六六も解除しろ』
「……星がぁ、きれいだなぁ……」
『五ぉ、四ぉん、三ぁん、二ぃ……いーち……』
カズマの声がイライラし始めた。
まったく、うるさいヤツだ。
ハヤミは「おいしょぉ!」と大きく掛け声をかけ、シートから半身を起こした。
「わーったよ、セッカチカズマめ。あ゛ーあ゛ー……ジャガージャガー、応答せよ、こちらトパーズ一。聞こえるか?」
カズマがまだ無線の向こうで小さく小言を言っているが、ハヤミは宙に漂うサイコロをポケットにしまって、同じく宙を漂っているヘルメットを被ると、ちょろっと舌を出してから……地上基地を呼び出した。
『……こち……ァガー。感度良好オクレ』
「ミッションコード1130951。哨戒任務終了につき、着陸許可を求める。現在地エリアは、あー……ちきゅー」
『GPSデータを送れ』
無線先に現れた声には、喜怒哀楽の様なものが一切感じられなかった。
代わりに聞こえてきたのは、だみ声と、眠っ気と、嗅げるはずのない大量のアルコール臭。
ついでにしゃっくりも聞こえてきた。
なんとなく……無線から臭ってきそうな気がする。
「おっさんアル中もほどほどにナ。ぶっ倒れても俺ァ知らんぜ?」
『……プファッ、うるせー。酒ってのァな、倒れる前に全部飲み干しゃいーんだ』
ハヤミの所属する基地とは、地球上にあって唯一“稼動している有人飛行場”だった。
山裾に広がる、巨大なジオノーティラス軍事空港。
地下要塞ジオノーティラス国が持つ、地下都市と地上を結ぶ唯一の玄関口でもある。
設備の大半が地下シェルターにあるジオノーティラス空港は、地上施設の保守点検は全てメンテナンス用の無人機が担当していた。
無人機は忠実に、コントロールセンターの指示通りに施設を保守し続けた。
だが、機械によって保守されるのは航空機発着に使われる滑走路と、滑走路と地下シェルターをつなぐシャフトエレベータと一部のタキシーウェイだけ。
周囲に広がる広大な荒野から大量の砂が基地に飛翔し、基地を浸食し続け、砂に埋もれた旧管制塔や朽ちた旧整備ドックはすでに荒野の一部と化している。
コントロールセンターのだみ声男は、パイロットの発着に併せて無人機の電源スイッチを入れる「だけの」無人機操作担当官だった。
「届いたー?」
『……んー? トパーズ一、オメェまた宇宙散歩してんのか?』
管制官の声が、寝ぼけた声から、一段と寝ぼけた声に変わった。
『散歩して給料もらうなんざぁカスのする事だ。その金俺によこせ!』
「それでまた酒買われてぶっ倒れられて入院されてたんじゃ、今度は俺が困るんだよヨ!」
『へっ、誰が困るもんか。俺が一人二人いなくなったって、今じゃ機械様が全部仕事をしてくれるんだ。誰も気がつきゃしねーよ。おうハヤミ、俺様がなんでこんな仕事をわざわざしてるか知ってっか?』
「知らねー。興味もねーってのっ。俺は早く『早く着陸許可をだしやがれアル中野郎!』て心の中で叫んでるカズマから逃げたいの。相棒がさっきからウルサいんだ」
『トパーズ二かぁ。アイツはぁ……あー、そうだな。そんじゃ、お前らもうちょっと周りを飛んでから帰って来い。今からロボットに滑走路清掃をさせる。スタンバイだ」
クリアな無線から管制員のあくびが聴こえると、小さくパチパチとスイッチを入れる音が聞こえた。
「あーん? スタンバイって、何分?」
『うっせーな、適当だ適当! データは受け取ったから、あとはこっちが着陸許可出すまで待っとけ』
無線が荒々しくガッと切られると、機内にはまたいつも通りの空気が広がった。
大気圏に再突入したアークエンジェルの、小さくも鋭い風切り音と、うるさい双発エンジンの高音。
また、何もない空の世界。
『……あ、あんのクソデブアル中野郎めぇ。何のためにコントロールの仕事してんだッ』
今度は無線に、カズマの恨み節が聞こえてきた。
※
そもそもだ。
俺は退屈なんだ。
でも基地に帰るんだ。
帰って、酒飲んで寝るしかないんだ。
『おい小隊長殿。帰投命令はどうした。さっさとエアデータコンピュータを再起動しろっての』
「うるへーなぁ、言われんでも分かってるって」
世の中諦めが肝心ってか?
ヘド出してーわ。
双発エンジンが再び運転を始め、機体がわずかに振動を続ける大気圏再突入中の今。
ハヤミはだるそうな表情をしつつ、強めにサイドシートのキーを叩いた。
“welcome sir”
再びカメラアイのピントを動かし始めるアークエンジェル。
怒りのキーを叩いても、コンピュータはいつも通りのパワーオン画面しか示さない。
“Welcome back HAYAMI. Are you fine?”
“YES”
いつも通り、無確認で『異常なし』。
0か1か、イエスかノーしか選べないとか、これが人間の生きる世界かよ。
しかもノーの選択は、最初から選ばない事が前提の質問と来た。
ハヤミはなぜかため息をつきたくなった。
『なぁハヤミよー。帰ったらよ、久しぶりに二人で酒飲まねぇか? たまにゃーよ、またボトムエリアでまた新しい店でも開拓してみよーぜぇ』
「んあ、お前の金でなー」
キータイプは、正確かつ迅速な反応を。
カズマの誘いは、曖昧かつ中途半端な生返事を。
コンピュータは何の迷いもなくYESを受け入れた。
ハヤミの入力した航路予定図は、空港から数エリアほど離れた地上未探査エリアの上空を経由した帰投ルート。
いつもの空港直帰ルートとは少しずれている。
ハヤミが飛行ルートをコンピュータに入力すると、アークエンジェルは再びオートパイロットモードを開始した。
徐々に機体が白い雲を下り、コクピットにいつもの黒い乱雲が近づいてくる。
白い稲光をはらんでいる黒雲の正体は、弱放射性の雷雲だった。
「カズマよー。滑走路が開くまでさ、ちょいA―7エリアの方で時間を潰していこうぜー」
『……』
「カズマー?」
無線に、いつものカズマの声が聞こえてこなかった。
視界には黒い平原が広大に広がっており、レーダーは雷雲が放つ微弱放射線によって大きく乱れている。
白い雲と、黒い雲の中間、無風エリアを、ハヤミはいつの間にか一人で飛んでいた。
『…………!!!!』
雲に白い稲妻が走り、強い雑音がイヤホンをつんざく。
カメラアイはいつも通り、無表情なまま。
アークエンジェルの合成ボイスが、ハヤミのインコムに割り込んできたのは同時だった。
“lost friendship(友軍を見失いました)”
ハヤミの脈が、急に高くなった。
少しだけ息も荒くなる。
どんどんとアークエンジェルはオートパイロットを実行し続け、高度が下がり、ハヤミはそのまま真っ黒な乱雲エリアに突入した。
直近を雷が通りすぎ、強い電磁波が機体を襲う。
『おいおいおい、まさかはぐれたか?』
ハヤミはしばらく黙ってオートパイロットを続けたが、レーダーは相変わらず乱れたまま、「no object」の表示だけ。
双発エンジンの微振動と不気味な酸素吸入の音、雷音しかないアークエンジェルのコクピット。
突如ガラスに大量の水や氷がへばりつき、高速で後ろに飛び散ってゆく。
乱れていたレーダーが急に正常値を示し、薄くて小さい白ドットを表示したのは同時だった。
『ん? なんだ、今度は偵察ポッドか?』
急に現れた白いドット達は全部で六機。
それぞれ完璧な三角隊列でハヤミの少し先を飛んでいた。
速度はそんなに速くないが、白いドットの大きさから、物体はそれぞれがかなり小さい様だ。
見えない飛行物体に注意しながらハヤミが低速飛行を続けていると、突然、静かだったYF―17が“異常接近警告”のビープ音を鳴らし始めた。
警告ランプの明滅と、鳴り響く警告音。
緩やかな下降機動だったアークエンジェルが、突然上下左右の変則的な動きをし始める。
ハヤミは慌ててスティックを握りしめたが、ハヤミの意志に反してスティックはロックされたまま、逆にハヤミの腕を意図しない方へ力強く動かそうとした。
“EMR AUTO pilot mode(緊急自動操縦モード発動)
『な、なんだ!?』
ロックの正体は、緊急回避モードに入ったアークエンジェルのコンピュータだった。
ハヤミの意図しない動きを機械的に続けるアークエンジェルと、単調なのに荒く訪れる縦Gと横Gの連続。
窓の外は闇と大量の雨粒だけだったが、それらが突然晴れると、一気に灰色になった光景に“何か”が高速で後ろに飛び去っていった。
“何か”は、明らかに無人偵察機ではない様だったが。
羽が、はばたいていた様に見えた。
「なに!? なんだ今の!?」
カメラアイがハヤミの動揺を捉える。
しばらくアークエンジェルは“羽ばたく何か”達の間を縫うように飛んでいたが、その内の一つが戦闘機の翼端をかすり、それと同時に機内に気持ち悪い音が響いた。
正体不明の衝突音。
突然鳴りはじめる別のビープ音。
パネルに『右翼破損』のライトが点灯して、機体の姿勢が大きく崩れた。
「ちぃっ!! 翼が何かと接触したか!?」
油圧低下。燃料漏れ。電気系統の異常。操縦系統の異常。
いくつもの警告がディスプレイに表示され、いくつもの警告シグナルがコクピット内に発せられるが。
“AUTO pilot mode”
アークエンジェルは、ハヤミに操縦をさせなかった。
「あーっうるせーうるせーうるせー!! お前ら黙れ!!」
ハヤミはそれぞれの警告を素早くリセットしつつ、コンソールパネルをいじって機体の詳細を把握しようと試みた。
機体が右翼に致命的ダメージを受け、操縦系の油圧が低下しているらしい。
右補助翼、作動不能。
それでもアークエンジェルのオートパイロットは必死で機体を安定させようとしているが、このまま空を飛び続けるには機械ではたぶん無理だろう。
高度が高すぎる。外気は汚染されているはずだ。この高度では、たぶん脱出は不可能。
パネルは操縦不能を表示しているが、どうやってこの状況を切り抜ける?
“ゴジダー! ゴジダー!(五時)”
突然、コンソールパネルに備えつけられたおもちゃ時計が五時の警告を知らせてきた。
「……!? このォ!!」
ハヤミは一瞬思考をおもちゃ時計に奪われ、同時に「ある妙策」を思いついた。
冷静にキーボードに「オートパイロット切断」の指令をタイプする。
正面ディスプレイが黄色になり、赤くなったのを確認した後、ハヤミはおもちゃ時計のストップボタンを冷静にぶっ叩いた。
※
『んなろ、操縦系統がイカれてるのか!!』
ハヤミは開放されたスティックを左右にふり、右側だけスカスカと操舵に反応しない事に気がついた。
舌打ちする暇も作らず、素早くブレーカーをいくつか引っこ抜く。
キュオンとどこかで小さな音が鳴り、油圧バルブの確認ランプが点灯した。
フラップ破損警告。
エアブレーキ異常。
電源系統異常。
燃料系異常。
全てにキーを叩いてチェックすると、今度はエマージェンシージェネレータが自動運転を始めた。
その上で。
“Fuel low(燃料不足)”
「うるせぇ!」
ハヤミは警告表示を繰り返すディスプレイに小さく毒づいた。
オートトランス機能が作動し、欠損したタンクからまだ破損していないメインタンクに次々と燃料が移送されてくる。
怒ったって、焦ったって、いいことは何もない。
ミッションはいつもクールにしなきゃダメだ。
「クールだ。クールに……ぐ、このやろう……」
操縦桿を操作していると、アークエンジェルのオートパイロットがまたハヤミの操縦に割り込んだ。
“Alert!(警告)”
緊急着陸モード起動。
だがそれは、突発的なアクシデントに対応できない画一的な飛行プランを実行するだけのただのプログラム。
「んなろ! 俺の邪魔を、するな!!」
ハヤミは素早くキーをタイプし、コンピュータの電源をシャットオフする強制命令を下した。
それは機械との相互干渉を一切拒絶する、オーダー六六の発動だった。
“Caution! ”
アークエンジェルのカメラアイが無機質に、焦るハヤミの顔を覗き続ける。
そして連続発生する様々な命令。
「うるせェ! 機械ごときに俺の生き死にを勝手に決められてたまるか!! YESかNOじゃねぇ! 死に方くらい俺にも選ばせろクソコンピュータめ!!」
“You’re not fine. check...”
「ダマレ!!」
ハヤミは赤色の警告を表示するディスプレイを、力いっぱい蹴りあげた。
同様にあらゆる赤文字の警告がディスプレイに映されるが、ハヤミは全て読まずにチェックする。
機体はキリモミ状態に入りながら、どんどん高度を下げてゆく。
すぐ近くに、真っ黒な地上が見えてきた。
真っ黒な、化け物か何かが棲んでいそうな、荒廃した異次元の彼方のようで。
折り重なるようにして地上に横たわる巨岩たち。
もしくは突き出すような形の奇妙な岩山の群れや、砂地。
それら生き地獄絵図に自分は今まさに、墜ちようとしている。
衝突するか? 激突か? 不時着できるのか?
死ぬのか!?
「まだだ! まだ死んで……死ぬ、かぁーっ!!」
コンピュータはハヤミの指示にゆっくりと抵抗するように、一つずつシステムを開放していった。
一つシステムが開放されるたびに、回る高度計が目盛りを一桁ずつ下げていく。
一つ。また一つ。
最後の確認。
“check order66(オーダー66を確認せよ). you’re free. good night HAYAMI”
「早く早く早く早く!! 早くっ! こぉの!!」
最後の警告がチェックされるとエアデータコンピュータは一言“you’re free.good bye”と呟いて機能を停止した。
操縦系が開放された。
すぐ目の前には、見たこともない巨大な岩山。
見れば僅かだが、緩い下り斜面も見える。
「くっそ……間に、合え……っ!!」
ハヤミは歯を噛みしめながら開放されたスティックを僅かに上に向けると、動きの硬いダブルスロットルを、片方ずつ、ゆっくりと丁寧に、後ろへ引いた。
※
地上接触の衝撃は、とにかく悲惨なものだった。
硬い金属と金属がぶつかって、静かな闇に大きく響く。
轟く閃光と、いくつもの爆発音。
気がついたらハヤミとアークエンジェルは、真っ白な光が明滅を繰り返す真っ暗な地上世界に下向きになって落ち着いていた。
どこが痛いのかよく分からないが、とにかく体中が痛い。
「ぐ……くっそ」
声は出るらしい。
血も出てこない。
という事は、肺と心臓は生きているようだ。
「げほげほっ……ぐ、ちっくしょう」
パネルにはひびが入っており、隙間から白い煙がふいている。煙いやら臭いやら。
回路の焼き切れた白い煙と共に、燃え残った燃料の臭いも漂って来る。
「んがっ……おぐほぁ……くっそぉーぉ!!」
ハヤミは無理やり体中に緊張を走らせると、フライトレコードの記録されたカードを抜き取りつつ、ロックされたショルダーハーネスを解いてコクピットを脱出した。
高低差が踵に直に響き、その瞬間、硬い地面がハヤミの体に衝撃を与える。
ガラスの地面だった。
身をかがめながら半分転げるようにして地上を走ると、すぐそこに僅かに茂みがあるのを見つけた。
茂みに転がり込む。
そして振り返る。
いつか格納庫で見た美しいフォルムのアークエンジェルは今、土の中に半分鼻先を突っ込む形でそこに横たわっていた。
アークエンジェルが地面を走った跡に、暗い中でもさらに黒く見える部分が見える。
衝突で新しく掘り出された土か。
見ればハヤミのいる茂みの根元も、なぜか穴だらけのガラスで覆われていた。
「あいたたた、ぢぐしょう足がクソ痛ェー。暗くて傷も見えねぇ。……あ゛ー」
打った所がひどく熱を帯び始めて来るが、それを地面のガラスが程よく冷やしてくれた。
ついでに顔も置いてみる。
突き刺さるような、気持ちのいい、冷たさ。
目を開けてみると、周りには不格好な三角の岩山が見えた。
機体の向こうにも、こちらにも、あるのは岩山とガラスの大地だけ。
「チェッ、これが百年前の核戦争の痕ってか。初めて見たはずなのに、なんの感慨深さもないぜ」
草の中で目をぼんやり開けながら、ハヤミは遥か昔を思い出すように周囲の風景と記憶の中の外界知識をシンクロさせてみた。
教育用AI……機械たちが教えてくれていた地上世界の写真。
子供のころは『もしかしたら写真は全部嘘なんだぜ!』とか妄想したりして一人で遊んでいたこともあるが。
わずかに体を持ち上げても、見えるのは永遠に広がる三角山の荒れ地と、周囲に広がる小さな草むらだけ。
どこを見回しても、なんの希望も見当たらない。
「クッソ最悪だ。なんで俺が……空飛んでて、こんな目に遇わなきゃいけないんだ……」
ハヤミは手元に生えている草をブチッと抜いてみた。
サラサラとそよ風に草が流れていく。
「空を飛んでたら、そりゃいつか地上に墜ちなきゃいけないか。あは」
軽く笑いながらハヤミはボリボリと頭を掻き、ふたたび周囲を見回し、何も変わらない状況に冷静になってみる。
今何時だい。
腕時計を見ると、針は午前六時前を指していた。
時間なんて、この世界じゃ何の役にも立たないのに。
「勘弁してくれ……なんの因果で……」
誰に言うでもない弱音を吐いてみる。
「せめてネズミとかいないかなー。核戦争を生き抜いた奇跡の動物……も、いねーか。誰もいない何もいない、“死の惑星地球”だもんな。よし、頑張って生きよう。あーもう。ハヤミちゃんよ、妄想はそろそろ自重だぜ。さっさと野営の準備でもするべぇよ」
ハヤミはわずかに自嘲の笑み浮かべ、ため息をつき、身を起こしてから胸ポケットのコンパスを捜した。
だが、ポケットの中にあるべき品物の触感が感じられない。
「……しまった。ロッカーに置いてきてたんだっけか」
代わりに胸ポケットに詰まっていたのは大量のお菓子と、人生ゲームで使った多面体のサイコロだった。
菓子の要約は、いつポケットに入れたか分からない様な、古いガムとチョコレートの包み。
サイコロの方は、闇の中でも微かに光る十八面体のオレンジ。
なんで昔の人間はサイコロなんかを宝石で造ったんだろう。珍しいからか?
ハヤミは地面に投げたあぐらを組み直すと、改めてポケットの中から取り出したそれらを掌の上に載せ、その一つ一つをよく観察してみた。
サイコロはとりあえず役に立たないからポケットにしまうとして、菓子の方はだいぶ古い物だが、食べられないことはない様だ。
「今日の俺の希望は、お前たちだけだぜ」
ハヤミは何度目かのため息をつき、銀色に包まれたチョコブロックを一つつまみ上げて、近くにある別の茂みに「しゅあ!」と叫びながら投げてみた。
「でも、こんなにあったって、そんなに全部食べたいとは思わないし。でももし、この世界にネズミみたいなのがいたら」
ボリボリと包みのチョコを口の中に頬張る。
「……釣れるわけないか。誰もいないもんな。あー、救助部隊来てくれっかなァ。ってゆーか、本当に来るんかなぁ」
かみ砕いたチョコが少しずつ口の中に広がっていく。
甘かった。
「……うめ」
ハヤミは口の中に入れたチョコを下で舐め廻しながら、ふとある事を思いついた。
思い出したと言うか、ふと思い浮かべたと言うか。
漠然とした孤独感。
死を望んで空を飛び、墜ちて、自分は今、誰もいない不毛の大地に一人で座っている。
誰もいない、孤独の世界。
奴らに言わせれば、孤独でもないのかもしれないが。
『貴方たちはいつか、母なる地球に還るのです』
ハヤミの知り合い……前の彼女は言っていた。
自分はどんな姿で死ぬ事になるのだろう。
孤立無援の死の大地で、寒さでカッチカチになって死んでるとか。
空を見上げながら、一人で勝手に死ぬのか。
「それも、いー……のか?」
ゆっくりと明滅を繰り返す光を吸収してなお余りある、黒の世界を、ハヤミはボウッと見続けた。
無音の時が続く。
舌の上で甘味を広げていたチョコが、いつの間にか全て液体になっていた。
「……帰る……家もねーか。どうすっかね」
フゥとため息をついていると、どこからともなく小さな風が吹いてくる。
冷たく、頬を撫でる、気持ちいい風。
どこからか変な音が聞こえてきた。
「……?」
白い霧が地表を流れ、わずかに流れる静寂を破るように、何かが音をたてて藪の中を動いている。
すぐ近くにいるらしい。
だが、周囲を見回しても何も見えない。
それとも気のせいなのだろうか?
「……!!」
そうでもないらしい。
後ろにある戦闘機の翼端灯に照らされて、目の前にある小さな藪、先ほどハヤミがチョコを投げたもう一つの藪に、何かの白い影が浮かび上がってきた。
「なんだありゃ?」
様子を見ているハヤミを正面に捉えると、白い影も霧の向こうから、靄を挟んでこちらの様子を窺っている。
赤緑の光が明滅しているその中で。
「……う?」
なんだか間の抜けた変な声が聞こえてきた。
同時にチョコの包みを剥く音。
まさか本当に、チョコでネズミが釣れたのか?
ハヤミは起き上がって、藪の方を注意深く観察してみることにしてみた。
※
カサカサカサ……
ボリボリボリボリボリ。
「おー」
真っ暗な藪の中から聞こえてきた音は、誰かがチョコレートをかじる音と……妙な声だった。
ボリボリボリボリボリボリボリ……
ムチャムチャムチャムチャムチャ……ネロッ
「……」
なんだ今の?
明らかに藪の中の何かがチョコレートを食べている音だが、まさか本当にネズミがやってきたのか?
でもネズミにしては、食べ方が明らかに変だ。
「もしかして、核汚染でミュータント化した昆虫とか」
再び訪れる静寂と、赤と緑に浮かび上がる黒い闇、その中に身を隠す白い影。
ハヤミは反射的に藪の中に身を伏せたが、白い影も同時に藪に身を伏せたらしく、藪の中にはすでに白い影は見えなかった。
骨まで凍みる冷たい風が吹き、汗の引かないハヤミは一瞬身震いする。
すると正面の藪から、小さなくしゃみが聞こえてきた。
人の脳内を読み取る能力でもあるのだろうか。
『……実は、くしゃみをする巨大昆虫だったりして』
いやいやいやいやいや。
じゃあUMA(未確認生命体)とかそっちの部類なのか。
ハヤミは試しに白い影の背後を取るべく、藪の中をゆっくりと横に進んでみた。
「!!」
白い影が動いた。
だが影の進む先は、ハヤミの這った先とは真逆の方。
ハヤミが影の背後を取るべく動くと、影もハヤミの背後を取るべくして動く。
二人はそのままグルッと藪を一周し、互いの藪を交換しあって、そのまま落ち着いた。
なんなんだろうこれは。
新しい藪には作られてまだ新しい藪の隙間と、破り捨てられたチョコの包み紙が落ちていた。
見れば白い影は、さっきまでハヤミがいた藪に身を隠しているらしい。
「ふぅむ……」
もしかして、UMAはチョコが好き。
ハヤミは試しに、まだポケットの中にあるチョコ袋を一つつまみ、ポイと白い影のいる藪に投げこんでみた。
チョコが空を舞い、バサリと藪の中に落ちる。
藪が大きく揺れて、チョコ落下地点に白い影は落ち着いた。
すかさず次弾投擲。
今度は藪とむき出しの地面の境界線に投げてみる。
藪が動いて、白い何かが藪から体の一部を覗かせた。
さらなるチョコを投擲。
ピョンと何かが藪から飛び出した。
白い大きなうさ……ぎ?
もういっちょ投げる。
ピョンと“大きなうさぎらしき生命体”が跳ねて、地面のチョコに飛びついた。
投げる。
ピョン。
投げる。
ピョン。
まとめて投げる。
ビヨン。
チョコを抱えた大うさぎが、チョコめがけて空を飛んだ。
空を飛翔する白い影、うさぎの様な物体が、腕に抱えきれないチョコたちを空中にばらまきながら、ハヤミの投げたチョコたちに食らいついて。
うさぎには、大きな翼が生えていた。
そして腕がある。足もある。
むしろ白い服を着ている。
生意気にも亜麻色の髪の毛まで生やしている。
そして着地。
大量のチョコ達が、盛大に周囲にばらまかれた。
「!!」
ハヤミ絶句。
「!!」
UMAも絶句。
なんか変なのが釣れたぞ。
うさぎの様なUMAは慌てて地面に落ちたチョコを拾い……いや。ヤツはUMAの様なうさぎじゃない、天使だ!
見た目天使のようなうさぎのような、UMAのような、変なのは、地面に落ちたチョコを拾い集め、ふと藪の中で固まっているハヤミに目を向けてきた。
頭の上に輪っかはないが、思いの外童顔でかわい……あいや、そういう趣味はないが、童顔の割にはかわいい顔をしている。
天使は、少女だった。
いやもしかしたら、少女風の顔をしているただのUMAなのかもしれない。
「う?」
少女は藪の中で固まっているハヤミを見て……チョコをくわえながら、ちょこんと首をかしげると、そのまま素早く茂みの中に戻った。
戻るが、またこちらを振り向いて立ち止まる。
暗い闇の中で、少女の白い体はやけに浮いて見えたが。
もしくはそのままふたたび闇の中に消えてしまいそうな危うさも見えたが。
ハヤミは闇と少女のそのギャップに安心……というか、安堵と言うか……大きくため息をつくと、なんだか体中から力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
※
藪の中に隠れている少女は、ハヤミが藪から姿を現しても逃げようとしなかった。
茂みの中から、警戒の目でハヤミを見てはいるが、でも敵意や襲って来る気配はどこにもない。
「うー」
よく見れば少女は腕を後ろに抱えて小さく唸ってはいたが。
たぶん、ハヤミからチョコを守っているのだろう。
それは俺のチョコなんだ。
ハヤミは自身がチョコを奪わない証拠として、試しに別のチョコを少女の前に出してみる事にした。
「……!」
少女の目が、ハヤミの掌に注目する。
素早くハヤミの顔と掌を行ったり来たりして、動揺の表情も見せた。
「よう。ユーマちゃん元気?」
「!?」
ハヤミが話しかけると、少女はあからさまに驚いた。
「……ガム、食べるか?」
「?」
言葉が通じないらしい。
ハヤミはチョコの山を地面に作ると、それとは別にポケットの中からチョコの包みを取り出した。
「これは、お前にやる」
「?」
少女の隠れる茂みにほど近い場所にチョコの山を置き、それからちょっと離れた場所にガムの山を置く。
見れば少女は茂みの中から見えなくなっていたが、ハヤミが広場の真ん中に座ると、少女はふたたび茂みの中に現れた。
「……?」
藪の中の少女が、素早くチョコの山を掴んでいく。
また茂みの中に少女の白は消えたが、ムチャムチャとチョコを食べる音が聞こえてくると、少女がふたたび茂みの中に現れた。
今度は、黒い茂みの中からからほどよく体を出している。
「それもやるよ」
「……がむ?」
ハヤミが広場の真ん中で座っているのを見て、少女はふたたびピョンと軽く一跳ねしてガムの山に手を伸ばした。
懐にあるチョコとガムの固まりをポロポロとこぼしながら、それでも視線はハヤミをじっと見たままだった。
「あっそうだ」
ハヤミがポケットの中に手を突っ込むと、少女は今度は羽を広げて大きく後ろに飛びのいた。
が、ハヤミが何も変な事をしないのを知ると、自分が地面に落としたチョコやガムを拾う為にふたたびハヤミの近くにやってきた。
「……これ」
「ん?」
ハヤミはポケットの中から、二つのサイコロを取り出して足元に置く。
カラフルな、ハヤミのオレンジのサイコロと、白いカズマのサイコロ。
指先で転がすと、サイコロのオレンジ色が、明滅を繰り返すアークエンジェルの光を通してゆっくりと輝く。
「おあ」
少女はサイコロを見ると、不安そうにハヤミの顔を上目づかいで見上げて、ピョコンと一歩飛び跳ねた。
でも、その後はすぐだった。
二人の距離は、ほとんど正面で対峙している形。
少女はキラキラと輝くサイコロを見て、体を纏う布を丁寧に折ると、ゆっくりとハヤミの前にしゃがみ込んだ。
「あーう?」
「よろしくな」
言うと、ハヤミは二つのサイコロを少女と自分の間に転がす。
少女は一瞬体を浮かせたが、ハヤミがそれ以上体を動かさないのを見て安心したのか、ふたたびその場にしゃがみ込んだ。
突然少女が周囲をキョロキョロと見回し始め、今度は何を思ったのか、今さっき自分が手に入れたばかりのチョコやガムの菓子を、半分にして、ハヤミの前に差し出してきた。
「スクァヴ」
「うん?」
「ヤッ ドァンヴァン」
「??? 俺に、くれるのか?」
少女はハヤミの顔を、涙がほんの少し滲んだ目で見つめつつ頷いた。
ハヤミは唐突に渡された、自分のチョコと少女の顔とを何回か見比べる
そして自分の顔を指さし
「俺に?」
「んっ」
次の瞬間、少女は笑顔で頷いた。
ハヤミが少女にチョコとガムとサイコロをあげて、お礼に少女がチョコの一部をハヤミに渡して。
よく分からないが、これでハヤミと少女は心をひらける仲になったらしい。
少女はしばらく二つのサイコロを見ていたが、ふいに顔を上げると、今度は笑顔で何かハヤミに話しかけてきた。
「メナヤヴォト プルゥシ。プルゥシ・ゲーハ ヤ。ヤクトェヴェーズヴゥト?」
当然ながら、少女はハヤミの知らない言葉を話した。
むしろ、言葉をしゃべられるとは思わなかったのだが。
少女の言葉は、柔らかい早口のようにも聞こえる。
「ん? え、何だって?」
「プルゥシ」
「ぷるし?」
「ヤッ。プルゥシ・ゲーハー」
「ぷるーし、げーはーぁ? ああ、プルーシゲーハーってのが、お前の名前なのか?」
「ん? んー……ん!」
少女はハヤミの疑問視だらけの言葉に一瞬変な顔をしたが、その後は笑顔になり、大きく頷いた。
ハヤミの渡した、オレンジと白のサイコロを握りしめて。
「……欲しいか?」
ハヤミの問いに、少女はしばらく考えてから、大きく首を縦に振る。
両手を口元にあてがうと、少女は声を押し殺すように「ひひひ」と小さく笑った。
「いひひー。イストリァ ズディァェト シィーャ ウ キノ!」
少女の笑い声が、細い肩と全身を伝わって聞こえて来る。
揺れで腕の中のお菓子がいくつかがポロポロと落ちたが、少女はそんなに気にしなかった。
「なあ、さっきの言葉はさ、何て言ったんだい?」
「んーん。トリーヒ ヤクトェヴェズヴゥト?」
「あー、それさっきも言ってた言葉だよな? えーと、何?」
「ヤ、ナヴォ、プルゥシ・ゲーハー。ヴィ?」
「んー、そうか、今度は俺の名前を聞いてるんだな? 俺の名前はな、ハヤミだ。ハヤミアツシ」
「ハーヤーミーアートゥーシー?」
「そう、ハヤミアツシ。ハヤミでいいよ。よろしくな、プル……えーと」
「プルゥシ・ゲーハー!」
「なーんか、呼びにくいなー」
「んー?」
「よし、決めた。お前の名前は、ユーマって呼ぶ事にしよう!」
「んぅー?」
突然ハヤミが少女のあだ名を決めたので、それを理解できていないらしい少女はふたたび頭を傾けた。
「ネヴォラ ミ ゆま?」
「そう。ユーマちゃん。覚えやすい」
「むーうー」
少女は小さく唸りながらハヤミの顔を睨むと、上目づかいで「ヤネヴゆま」とちいさく呟いた。
次いで、ハヤミの顔を指さして「ハヤミ」と呼んでくれる。
「おう。よろしくな、ユーマちゃん」
「むー。ハヤミぃ」
「ん? なんだいユーマちゃん」
「うー。ハヤミ、スォコヴィ プィブルィーシェリ?」
「んー? なんだって?」
「ヤッ」
少女はいきおいよく立ち上がると、両手を大きく振り、ガラスの地面の上で歩くかっこうをした。
ハヤミの周りをグルリと廻り、手を頭の上にかざす。
何やらグルグルとあちこちを見回す素振りもした。
「デーテ?」
「んー? あー、たぶん違うな。ノー。もしかして、俺がどこから来たのかって聞きたいのかな?」
「ん」
「俺はな、んーそうだなー。んー……俺はな、空から来たんだ」
「んー?」
ハヤミが空の上を指さすと、少女は不思議な顔をしながら同じ方向を上を見上げた。
指された先の空は相変わらず、真っ黒な雲が渦を巻いているだけだが。
少女は「おお」と小さな歓声をあげた。
「スカィ?」
「うむ。俺様はあそこにある飛行機で、空を飛んでいたんだ」
「ヴィ トゥナック ハヤミ?」
空から視線を下ろした少女は、今度は体の前でハヤミに両手をパタパタとしてみせた。
どうやら鳥か何かと勘違いしているらしい。
「あはは。いや俺は鳥じゃないよ。人間だ。あの飛行機はな、こういう……翼ってやつで、揚力を生んで空を飛ぶ代物だ。鳥とは違うんだぜ」
「んー?」
「あーと。俺はなー、ほら、手があるだろ? それに足も。それにどこにも羽がないだろ。俺は、人間なんだ。だから後ろのアレで空を飛ぶ」
「ん?」
少女がハヤミの体越しに、弱々しくもまだ明滅を止めていない戦闘機を見た。
そして指をさす。
「……おあ。シォートェ タケ、ハヤミ?」
「アークエンジェルって言うんだ。分かるか? 『弓を持つ天使』ってな。アレで“ゴーッ”って言いながら空を飛ぶんだぜ。ユーマちゃんは背中の羽で飛ぶんだろ?」
「はね?」
「そう、羽。お前の後ろについてるそれ。その白いやつ」
「はねー?」
ハヤミは少女の背中に生えている白い翼を指さしたが、それに対し少女は「はねー」と言いながら、真っ正直にハヤミの指先を自身の目と体で追い続けた。
「違う違う、後ろ」
「はねー?」
「いやだから後ろだって」
「はねー」
少女がその場でグルグル回る。
ハヤミの指先はいつまでも変わらず。
そして、少女は目を回した。
「は、はね、は……はやみぃ」
「……とりあえず回転をやめてみろ、ユーマ」
「?」
「お前の羽はこれだ」
ハヤミは目を回してフラフラしている少女を気遣いながらも、背中にある二枚の羽のうち一つをつまんで、ゆっくりと、ハヤミは少女の羽を広げてみせた。
ハヤミにつままれた少女の羽は、闇の中にも浮かび上がるほど真っ白な色をしていたが。
「お前はこれで空を飛ぶのか。んー、意外と小さいな」
少女はなされるがままにハヤミに自分の翼を広げさせていたが、ふとハヤミの腕に軍の階級証を見つけると大きく「あっ!」と叫んだ。
「おあ! ハヤミ ドゥセージ ナゥプル ナドゥェ!」
「お? ん? なんだなんだ?」
「トェス!」
少女の細くて白い指が、ハヤミのウィングマークを指さした。
次いで戸惑うような表情と仕種で、何か色々試行錯誤すると、両手を広げてブンブンと鳥のように羽ばたく。
「ェアルォ?」
「いやだから鳥じゃないって」
ハヤミがふたたび否定すると、少女の顔はいったん納得したような顔をして、すぐに眉間を寄せて何か考え始めた。
「んー……ん、んん?」
ハヤミのウィングマークを見て、後ろのアークエンジェルを見て、ふたたびハヤミの顔を覗く。
どうやら、何かに対して強い疑問を感じているらしい。
「んー。ヤックィ ユヴァス クィリヤ? ん?」
「だから俺はお前と違って羽は無いんだぜ。ほれ、どこにもないだろう?」
「んー……うー……」
少女はふたたび、地面に突っ込んだままのアークエンジェルを見た。
ハヤミも一緒に見る。
弱々しく翼端灯を明滅させていたアークエンジェルは、すでに原型をほとんど押しとどめられていない。
翼は完全にゆがんでいた。
「むー。ハヤミ スタリィクリィラ?」
「ん? え、なに?」
「アーヘロォ?」
「え? あ、あへろぅ?」
「ヤイディ スカィ?」
「???」
「ナディ! テトゥェメニ! ハヤミ ヴィティ ドドム! ヤッ!」
少女は何かをハヤミに対して断言し、異国語で色々とハヤミをまくし立てた。
なにか自信満々な顔で、自身の平らな胸を抑える。
何か確信した後に、勘違いか何かをしているのだろうか?
「えと、ユーマちゃんよ、お前さんは今、なんて言ったん……」
と聞いたとしても、少女にはハヤミの言葉はどうも伝わりそうにない。
「んー」
それは少女も同じらしかった。
少女も腕を腰に当てて、眉毛を寄せて考え込む。
そして次に、鋭くハヤミを指さしながら「ハヤミー」と、言葉をゆっくり紡いでいった。
「ドゥ」
次に、かがむ動作。
「スカィ!」
羽を小さく広げて、ピョコンと空を飛……跳んだ。
空を飛べと言っているのだろうか?
少女はなぜか、自信満々な笑顔だった。
「あは、あははは……ありがとうユーマちゃん。でもな、俺は……ふわーぁ……あー、俺はな、救助隊が来るまでここにいるぜ。俺は天使のお前さんと違って、空を飛べないんだよ。翼を持たない、ただのちっぽけな人間なんだ」
「むー。ズュダバツィーシャ ハヤミ?」
言うとハヤミの言葉がある程度分かったのか、少女は地団太を踏んでハヤミに怒った。
「あー、何言ってんだか分かんないけどな。俺はな……ふはぁ……飛べないんだよ。翼を失った……はふぁ……空も飛べない、ただのヒコーキ野郎なのさ」
「ひこーきやろう?」
少女の不思議そうな顔を目の前にしたまま、ハヤミは大きくあくびをした。
たまっていた疲労がまぶたに重くのしかかってくる。
しかる後、強烈な睡魔と倦怠感。
「そういえば……」
疲れた。
ハヤミは、自分が任務明けの墜落組だったことを思い出す。
「そうだよ。俺ぁ明日から、なんとかして本国にここの場所を知らせなくちゃいけないんだ」
「ねむ?」
「あー、うん。ユーマちゃんよ、ちと俺に寝かせてくれ。これでも一応徹……あふあ……徹夜明けなんだ。少しくらい眠ってもいいだろう。それにこのまま寝たって、きっと死なないさ」
そうなのだろうか。
「死んだら死んださ。それまでの人生って事さ」
ハヤミは気だるそうに、ため息とあくびと伸びとを併せたような息を吐き出した。
汗と泥で汚れた上着を脱ぎ、Gスーツのベルトを緩め、その流れでブーツの紐もトントンと緩めていく。
「はーやみーぃ」
ハヤミが折れた翼に向かって歩いていると、後ろから少女がハヤミのサイコロを手にとって声をかけてきた。
振り向かずに、それが、そうなんだと、分かる。
「それ」
振り向かずに、ハヤミは上着を脱ぎながら呟いた。
「……俺には分かんねーんだよ」
うつむき、ため息の様に投げ出された、ハヤミの言葉。
「生きてたら、また明日な。天使のユーマちゃん」
モゾモゾと、硬いガラス片の散らばる翼の下にもぐり込む。
まるで芋虫のように。
ぼろ布のようになった上着とズボンを体中に巻くと、ハヤミの意識はすぐに真っ暗な世界に飲み込まれていった。
『明日、何しよう』
思ったのか、思わなかったのか。
それともいつも、思っているのか。
どこか遠くの地獄に落ちるような浮遊感。
眠りについたハヤミの意識は、そのまま、白い少女の姿をロストしてしまった。
※
…………
どこかから、騒々しい足音が聞こえて来る。
ゴソゴソゴソ
ガギギ、ガギ、ギィ……
上から……?
小さい何かの爪の音もした。
歩いたり、走ったり。
ギイィィィ
たまに小さくひっかき音がしたり。
『……うるせぇ』
ユッサユッサユッサ
今度は、何かがハヤミの上で屋根を大きく揺らしている。
「やっ!」
大きな掛け声が聞こえてきて、次に小さな地響きが鳴った。
「……」
ハヤミは掛け布団を引き込みながら、大きく鼻から息を吹いた。
鼻息にあわせて、近くに生えているらしい何かがハヤミの鼻をくすぐる。
ベッドがやけに硬い。
何だこれ?
ハヤミは布団の中で、大きく寝返りを打った。
やっぱり、硬かった。
「ロクジダー! ロクジダー!」
「うぉぉぉッ!?」
突然何かが、ハヤミの眼前で大きく鳴った。
驚き、布団をはね飛ば……布団?
ゴィィィン
薄すぎる何かの布を放り出した瞬間、ハヤミの頭が何かにぶちあたった。
「がッ!!」
痛くて、思わず頭を抱えてうずくまってしまう。
うずくまりながら皮膚に触れる感覚が……草だった。
よく見たら布団も、いつもの硬くて薄いベッドと毛布じゃない。
「な、な?」
ここはどこだ?
なぜ俺はここにいるんだ?
見回せばそこは、いつものハヤミの部屋ではなく、焼け焦げたアークエンジェルの翼の下だった。
「な、なんで? ここ、どこ……あちち」
何かの破片が脇の下に挟まっていたので、取り出してみるとそれは透明なガラスの固まりだった。
どこだよここは。
見回せば自分は、随分とひどい所に寝ているらしい。
見ればハヤミの枕元には、見慣れない文字の描かれた菓子の包装袋と、大きな木の葉に隠された小さな荷物が置かれていた。
その近くには、同じく見慣れない青いサイコロも転がっている。
『……昨日、俺、何があったんだっけ……』
……。
思い出した。
俺は昨日、任務の途中で飛行機ごと地面に墜落してたんだ。
地上で変な女の子と出会って、なんかお菓子をぶん取られて、翼の下で一晩を過ごしてたんだっけ。
変な色のサイコ……あれ、自分はたしか、オレンジのサイコロをあげたと思ったんだがな。
ハヤミはボリボリと頭を掻きながら、目の前に落ちている菓子の袋とサイコロを見比べる。
菓子は、じゃああの子がサイコロと一緒に置いていったんだろうか。
ハヤミは菓子の包みを開けてみると、そのままパクリと口の中に放り込んだ。
「ん……これ、市販のチョコか?」
強烈な甘味と、パリパリした食感。
強烈に水が欲しくなるが、そんな水はここにはない。
袋に描かれている文字は、ハヤミの知らない国の言葉のようだった。
「おいおい、これ俺たちの作った物じゃないぞ?」
ハヤミは菓子の袋とサイコロをポケットに入れると、モゾモゾとアークエンジェルの外に這い出てみる。
すると今度は、目に強烈な光が刺さってきた。
両目を掌で覆ってしまう。
「うぐ、……これ、は?」
変だ。
なぜ世界が、こんなに明るいのだろう。
なぜか耳に木のざわめきが聞こえて来る。
耳をすますと、水の音も聞こえてきた。
ここはどこかの公園か?
「な、なんだこれ?」
地面を覆うガラスの大地が、相変わらず硬い感覚をブーツを通り越してハヤミの体重を跳ね返すが……でも何か分からないが、その硬いガラスを、何とも言えないサラサラふわふわとした何かが、苔のようにうっすらと覆っているような。
目が馴れてきたので、ハヤミは両目を覆う手を、そっと脇にどかしてみた。
緑の世界があった。
次いで明るい太陽と、蒼い空。
温かい風。
なぜ?
昨日まで真っ暗な世界に白い靄が広がっていた世界が、いつの間にかジオノーティラスの公園のような世界に様変わりしている。
振り返るとそこには、ガラス面にアークエンジェルの胴体着陸跡が長く茶色い帯となって横たえているのと、沢山の草や木の根、枝、ツルに絡まれて無残な残骸と化しているアークエンジェルがあった。
翼は無理やり胴体から外されている。
胴体には数えきれないほどの植物が、根を刺し、枝を刺し、中にはアークエンジェルの胴体の僅かな窪みで自生を始めている植物もいた。
穴だらけ、錆だらけの、日焼けした「元」乳白色の翼。
とりあえず昨日までは、アークエンジェルは原型をとどめられていたはずだ。
「こっ、これは……?」
翼の前で唖然とするハヤミ。
しかもその半分崩れた翼の上には、得体のしれない……というか、まるで伝説そのものの形なドラゴンが、ハヤミを睨んでいたのだ。
「う、えっ!? うぎゃーっ!?」
あまりにも自然な格好でドラゴンが翼の上にいたので、ハヤミはドラゴンに気がつくのに時間がかかってしまった。
とはいえ、ハヤミが絶叫を上げてその場にへたり込んでも、ドラゴンの方は特にハヤミに飛び掛かる様子はない。
ドラゴンは意外と小さかった。
だが半分開いた口からは鋭い犬歯が覗いて見えるし、両手に生えた鍵爪も、一つでハヤミの手首ほどの大きさに見える。
チョロッと舌が飛び出た。
「シュゥゥゥ……」
ドラゴンが翼を広げ、ハヤミとの視線が合った。
襲われるのだろうか。
だがドラゴンはおびえるハヤミを気にもしないで、そのままどこかに向かって飛んで行ってしまった。
「……あれ?」
大きく翼を広げた黒い影。その胸元に、一瞬だけ赤い輝きが覗く。
残されたのは青い空とそれを見上げるハヤミだけだったが、しばらくハヤミがボウッと空の彼方を見ていると、今度は小さめの影と共に見慣れた何かがハヤミの上に飛び込んできた。
「ぐえっ……!」
影に潰される。
後頭部が硬いガラス……というか、草地に潰されてしまったが。
でも反対側……上面部からは、対照的に柔らかい何かの肉感が感じられてくる。
「ドラグィノス、ハヤミー!」
それが、今度は朝の挨拶を飛してきた。
「こ、このォ……」
「ハヤミー、ドラグィノス!」
「それが朝の挨拶かよ、テメェ。……ユーマちゃんよぉ」
「むー!」
悪意なき無邪気……とでも言うのだろうか。
あいかわらずアホみたいに元気だこと。
少女はハヤミの上に覆いかぶさるようにして、ハヤミの頭をポンポンと叩いてくる。
「フロスパヴヴァーッシュぅ ハヤミーィ」
次いで、腹の上でポヨンポヨンと跳ねてくれた。
「おぐっ……あぐっ」
別に重いわけではないのだが。
この変な状況。
「……ぐ、降りろアホユーマ」
「む?」
「重いんだ、ぃよっ!」
ハヤミは腹筋に力を入れて、思い切って腹の上の少女をポーンと遠くに吹き飛ばした。
少女の重さはとても軽いものらしい。
飛ばされた少女は小さく「ふわっ」と声を上げて空を舞ったが、羽を広げて一回転すると、そのままストンと地面に着地して「むう!」と逆にハヤミを睨んだ。
「ナズィルストゥーバ ハヤミ!」
「うるへー」
ハヤミは少女の非難の声をやんわりはじき返し、地面から立ち上がりながらポンポンと体を払った。
少女の言いたいことが、なんとなくだが、分かるようになってきた気がする。
たぶん「乱暴者」みたいな事を言われたんだろう。
「……で。何をやってるんだお前は?」
「ん?」
寝起きで理不尽の連続だったハヤミとしては当然の質問なのだが、残念ながらハヤミは少女の事をまったく理解できていないし、少女もたぶんハヤミを理解しきれていない。
少女はなぜか、頭の上に花輪を載せていた。
たくさんの白い花で作った、大きな花輪。
どこに花があったのだろう。
少女は当たり前のような顔で、何も説明しなかった。
「スカィ! カプバティ!」
説明されてもたぶん何も理解できないとは思うのだが。
少女は腕を振って、大きく空の上に飛び跳ねた。
「ドゥ!」
「あー……なんだ、ユーマごっこか? あのな。ごらんの通り俺は、今大変な状況なんだ。子供じみたお前さんの遊びには俺には無……」
「んー?」
「……い、と、口で言っても伝わるわけないよなぁ。はあーあ、ユーマだもんなお前」
「むー! ヤネヴゆま!」
『ゆーま』という言葉だけは通じているらしい。
例え言葉が通じなくても、悪口だけは本能で理解できるのだろうか。
ハヤミは手を振り上げて怒る少女を後ろに放っっておくと、先程までドラゴンが立っていたアークエンジェルの翼によじのぼった。
翼に乗ると、千切れて不安定な翼の残骸がユラユラと揺れる。
この世界には、機械という物はないのだろうか?
航空機の物とはいえ、装甲板に大量の枝が食い込んで機体を穴だらけにしている。
メインコンピュータが死んでなければいいが。
アークエンジェルは、完全に森の一部と化していた。
「こりゃ酷ぇ。機械がないんじゃ、俺はどうやってこの世界で生きていきゃいーんだよ……」
コクピットに乗り込むと、中はもっと酷かった。
計器はどれも傷だらけ。
爪痕だらけ。
基盤の隙間からは細い木の根のようなものが顔を出しており、しかも昨日の墜落で大半が黒く煙っている。
「……チックショウ。役に立たない機械め、これだから機械はキライだ」
ハヤミがコクピットのスイッチを入れていると、今度はコクピットの上から少女の顔が逆さまにぶら下がってきた。
少女の亜麻色の髪が、ハヤミの視線をフヨフヨと邪魔をする。
「お前はあっちいけ」
「ぅやー」
言って少女の顔を押すと、少女の髪はとりあえず引っ込んだ。
「……さてと。『希望を捨てるな! 助けは必ず来る!』って紙に印刷されててもね。じゃあ具体的には何をすればいいんだか。とりあえず、メインパワーはどうなんだろう?」
言いながらハヤミは、試しにパワースイッチを“TEST”に入れてみた。
一瞬ボディが唸り、微かにエマージェンシージェネレータが小さく唸り声をあげ始める。
焦げ臭い煙も若干漂ってきた。
「なんとしても、動いてさえくれればいいんだが……やっぱ死んでるかなー?」
ゆっくりと、一つずつ、ポップアップブレーカーを入れていく。
一つ入れる度に、マスターコーションライトが一つずつ点灯を開始していく。
死んではいるが、とりあえずパワーは生きているらしい。
だが、ディスプレイと正面のカメラアイは無反応のまま。
「どうしようもないな」
メインコンピュータが生き返らないと、アークエンジェルは本当に何もする事ができない。
それに生き返るとしても、仮に生き返らなかったとしても、アークエンジェルの復旧には電気が必要となる。
アークエンジェルに残っている残電気量は、昨日の墜落でほとんど使い切っていた。
だがメインコンピュータの起動は、復旧するだけでも大量の電気を消費する。
残り少ない電気で、どこまでできるのか。
「ヴィロビテェ ハヤミ?」
上から、まるで他人事の様にコクピットを覗いている逆さまの少女が話しかけてきた。
「ナソロドゥズィニィー」
「んー」
生返事。
それでも少女は、ハヤミに何か言うのをやめない。
少女はキーボードを指差していた。
「ぁーけーげー」
「んー、そんなにこれが気になるか。あとでな」
「むーうー……」
少女のふてくされた声と共に、後ろからジェネレーターの小さな唸りが響いてきた。
使う機械と使わない機械、それぞれのブレーカーを操作していく。
電源表示は点滅しっぱなし。
かなり絶望的だ。
「もしメインコンピュータが復旧しなかったら……しなくても、電気がなくなったらアウトだよ、な……」
「ハヤミ、ウヴィニオー」
「んー、ウルサイ後で……おふっ!?」
突然、上から少女の体がハヤミの前に落ちてきた。
「おぶっ!!??」
次いでハヤミの頭の上に少女の布が被さってきて、ハヤミの視界はゼロになる。
「フンフンー、ンーンーラーラー」
今度は変な鼻唄が聞こえてきた。
カチャカチャとキーを弾く音も聞こえる。
その音で、ハヤミは今の状況を察知した。
「おうーるゃぁーっ!!!!!!」
「ふぎゃーっ!?」
ハヤミは叫ぶと共に、目の前に覆いかぶさっていた少女の体を機外に放り投げた。
思った以上に軽い体重だったみたいだが、少女はハヤミの視界の隅で大きく放り飛ばさていく。
でも、それはそれ。
次いで視界に飛び込んできたのは、何かの記号が滝のように表示されているディスプレイと、白い煙だった。
「うわー! うわー!」
ハヤミは慌ててパワースイッチを切ったが、それももう遅い。
機体が大きくガクンと揺れて、パネルの照明が一気に消えた。
次いで、静かな風の音が聞こえてくる。
水のせせらぎの音も。
「あ……ああっ」
動いているものは何もなかった。
カメラアイがその瞳孔も、光を戻す事は無く。
ジェネレータは、駆動音を完全停止させている。
「あ……俺の……最後の希望が……」
ブレーカーは何もいじられていない様だったが。
少女はきっと、デタラメにキーボードをいじったのだろう。
それが何かの指令を出してしまい、たぶんそれが、アークエンジェルの最後の電気を大量消費するきっかけとなった。
「ぐ、こ、おのぉぉぉぉぉ……」
握り拳を硬く握りしめる。
この怒り、どう晴らさせてやるべきか。
ハヤミはコクピット内で立ち上がると、大きくその場で「ガアーッ!!!!」と叫んだ。
が、その雄叫びですら、すべてはこの見知らぬ森のざわめきの一つとして吸収されて、すぐに静かな森が広がってしまった。
世界にとっては、ハヤミの叫びなんて小さな事なんだろう。
そんなの知ってるよ。
「クソッタレめぇ……俺は、これからどうやって生きていけばいいんだ……」
……つぶやいた所で、何がどうなるわけでもない。
ハヤミは森を見回して、小さく深呼吸すると、足元が擱坐して機上の低くなったコクピットから地面の上に飛び下りた。
「コラァ! ユーマぁ! もう怒らないから出てこい!」
砕けたガラスがこだまとなって、ハヤミの硬質ゴムブーツに食い込む。
誰もいなかった茂みにハヤミの小さな木霊が何往復かすると、茂みが動いて、少女の顔がひょっこりと現れてきた。
「いたな。もう怒んねーから、こっち来い」
「おーこーるー?」
少女は悪びれる様子も見せず、トコトコとハヤミの前にやってきた。
「にへへー」
「……その前に、自分が怒られてるって事を理解できてないのな」
「オウル ナ ヴォトニェー」
少女の笑顔にハヤミはしかめっ面をして腕を組む。
だが、少女はそんなハヤミの様子をまったく気にせずに、手に持っていた古い軍用ヘルメットをハヤミの前に差し出してきた。
中には、どこで採ってきたのか色とりどりの木の実が山盛りになって入っていた。
「お、何だこれ?」
「レィス!」
少女はいったんヘルメットを戻すと、中の木の実の内の一つを手にとって、自分の口に入れてモグモグと食べた。
どうやら少女は、ハヤミのために食べられる物を持ってきたらしい。
これで自分の罪が帳消しになる……とは思ってないのだろうが、これも少女なりの好意なのだろう。
「これを、食べるのか?」
「ヤッ」
「ふんっ、こんなので俺がお前を許すかよチクショー」
言いながらもハヤミは、ヘルメットの木の実を掴むと、大きく口の中に頬張った。
食べなきゃ世界は生きていけないし。
かといって、少女のお菓子だけで世界を生きていけるとも思えない。
木の実を噛みしめると、何とも言えない強烈な甘味が、一瞬でハヤミの口を支配した。
「んっ、んへっ甘っ!!」
「んんー?」
木の実は硬くて甘かった。
殻のように硬い皮を噛むと、ゴムのようにたわみ、衝撃で弾けるように甘い水気が口の中に飛び散る。
その衝撃的な甘さにハヤミは一瞬ひるんだが、少女は特に気にするような仕種も見せていない。
少女は涼しそうな顔で「何かあった?」という目をハヤミに向けていた。
「?」
「……おのれー」
己の偏食になんとも言えず、そのままハヤミは黙ってごまかした。
横を向いて、その場にドスンと座り込む。
「ふんっ、どうせ俺は贅沢者だよ」
「へへー」
少女も、ハヤミの隣にチョコンと座った。
ハヤミの言葉が分かっていないのが、今回は幸いしたようだ。
「……まったく」
でもよく味わって食べれば、木の実は甘かったが、ジオノーティラスで売っているどの高級果物よりも格段においしかった。
だがジオノーティラスに売っている果物は、もしくは食べ物も、どれも本物とは遺伝子レベルでの違いはないし、手間だって、どれも本物との違いはほとんど無いものばかり。
数だって沢山ある。
食べようと思えばテーブルいっぱいにあらゆる果物を並べる事ができる。
だが今目の前にある、名も知らない小さな木の実は。
赤くて。
小粒で。
ゴムのように硬くて、しかも見た目は不揃い。
噛みしめればたまに苦い実もある。
でも考えてみれば、昨日自分が見たはげ山では、この果実は食べる事もできないのだろう。
この世界で果物が食べられるのは、きっと今の様な、青空が広がっているときだけ。
ジオノーティラスのように、いつでも何でもいくらでも食べられる物ではない。
……の、かもしれない。
「おいしい……ん、だがな。んぐっ……だが、俺はお前のイタズラを、絶対に許してやんねーからな」
「ん?」
木の実の甘さについ顔が歪んでしまう。
小さな種が口の中に残り、チョコの甘さとは違う甘さが果実にはある。
少女は「にひひー」と笑った。
「ふん、笑っても可愛くねーよ」
ハヤミは少女の顔を、ツンと突ついた。
「んゃぁー」
「しっかし、さっきお前さんは何をしてくれたんだ?」
「なにをしてくれたんだー……?」
「何を、してくれたんだ、だ」
「なにをー?」
「何をじゃねーよまったく」
ツンツンツンと弾いた。
「うゃあ」
「まあいいよ。もう怒らん。怒らんでも……俺は許さんからなぁ」
「ゆるさんー?」
「ゆるさない、だ。でもユーマ。どうせなら俺は、お前がこの果物と、チョコを、どこから持ってきたのかを知りたいね」
「チョコ?」
「これだよ、これ」
言うとハヤミは、ポケットの中から空の包装袋を取り出して見せた。
袋はハヤミのポケットの中でグチャグチャになっていたが、ハヤミは皺を伸ばすようにして少女の前に空のチョコ袋を広げる。
その様子を見ながら、しばらく少女は怪訝な顔でハヤミを見ていたが。
少し経ってから少女は「あっ!!」と大きな声を出して、突然立ち上がると、走って先程までハヤミが寝ていたアークエンジェルの翼に駆けて行ってしまった。
「ん? なんだなんだ?」
今度は翼の下から、少女の叫び声が聞こえて来る。
次いで少女が布にくるんだ自分の荷物を胸に抱えて、半泣きで、再びハヤミの所に戻ってきた。
立つと、今度はハヤミの顔にビシッと指をたてる。
「ノ! ハヤミ! ズロゥーディ ヤ!」
「ん?」
なぜか少女は激しい口調だった。
何かの事で、ハヤミを責めているのだろうか。
「ハヤミ ヤ ノヴゥレ ビ ネフト ヤヴィニ!」
「何言ってんのかわかんねーよ。俺が何かしたのか?」
ハヤミが両手を挙げて「分からない」の動作をすると、少女はハヤミの手からチョコの空袋を奪い取り、先程とは逆の立場でハヤミの前に袋をかざした。
「トェス! ん!」
同じように、責めるような語調と顔。
眉毛も怒っている。
「お……? え、これ? もしかしてこれ、食っちゃいけなかったの?」
「ナゥヴル ヤ ドゥメニ オヘェツ!」
「……大切なものだった、のか?」
「ヤ ヴォゥルーシ!」
「ああ……すまん。知らなかった。ごめん」
言いながらハヤミは頭を掻き、軽く頭を下げる。
でもチョコなんて一個百円もしないでそこら辺で買えるじゃないか。
ハヤミは頭の中で「そんな安物になんでそんなに怒るのかねこの子は」と思いながら、少女のヘルメットの木の実を口に運んだ。
ポイッと軽く頬張る。
その様子は、さすがに言葉が通じない少女でも怒る行為だったらしい。
「うーっ、うううううー……」
「うーん、そんなに怒られてもなぁ。それにほら、俺、お前に昨日あげたじゃん」
「うーっ、うううーっ」
小さな手を握りしめて、少女は悔しそうにその場で大きく唸った。
トントントンとその場で大きく地団太を踏み、奥歯がギリギリいう音も聞こえて来る。
しかし言葉が出てこないようだった。
「んー……そんなに大切なら返したいとは思うがな。でももう食べちゃったしなぁ」
怒る少女を見ながら、ハヤミは木の実をパクパクと食べ続けた。
これはこれで、怒る少女を見るのも意外と楽しいかもしれない。
さっきのお返しだ。
「どぉっ、ど、どッぉぉ……」
何かの言葉が、少女の喉の奥から絞り出されてきた。
だが、まだまだ聞こえる言葉に放っていない。
「ん?」
「どっ」
「ん」
「どっ……どぉぉぉおおおろーーーボーーーーッ!!!!!!」
突然少女が得体のしれない叫びを挙げると、ハヤミからヘルメットを奪い取り、アークエンジェルにほど近い場所に向かって走りだした。
森に囲まれた広がり、その真ん中で少女は座り込み、ヘルメットを持ったままうずくまる。
背中越しに、少女の小さな嗚咽と肩を震わせる様子も見えた。
「あ……んなっ!?」
少女が走り去ると同時に、食べかけのハヤミの木の実が周囲に広がった。
ハヤミと、アークエンジェルの間に、少女の小さな背中が割り込む形になる。
そんなに大事なものだった?
というか今の叫び声は、なんかどこかで聞いた事があるような?
「……あーあ。なんだかなぁ……」
この様な展開は最初からおおよそ見当はついていたが、実際にこうなるとそれはそれで少し驚く。
それに驚くのは、少女はUMAの癖にだいぶ人間らしいと言う事だった。
……いや、当たり前なのかもしれないが。
「なんというか、これ俺が悪いのかね」
分かりきった疑問をわざと口にだし、少し心を落ち着かせてから、ハヤミはよっこらせと言って立ち上がった。
仲直りはしなくちゃいけない。
やる事は最初から分かっていた。
今この世界で生き残るには、少女は欠かせない存在だからだ。
「ふんっ、さっきのお返しだゼ」
ハヤミはノソノソと少女の後ろを通り越すと、いったんアークエンジェルの翼にもぐり込み、掛け布団代わりに使っていた自分の上着を捜してみた。
上着のポケットには、昨日少女に手渡されたチョコの袋が入っている。
正確には、自分のチョコを少女に返してもらった分。
「おいユーマ!」
ハヤミは翼の下から出て少女に話しかけてみたが、声をかけられた少女はハヤミの声に答えようともせず、膝を抱えたまま動かなかった。
「おい! ユーマってば!」
近くで呼んでも振り向こうともしない。
死んだか?
前から覗き込んでみると、少女の顔はブスッと膨れたまま顔を横に向けた。
「おお、生きてるな」
試しに少女の肩口にチョコの袋をかざしてみると、少女は横を向いたまま器用にハヤミのチョコ袋を奪った。
怒っている……のは、当たり前か。
「おあいこだ。さっきのな」
「ふん!」
こうやって変にヘソを曲げる所も、人間らしいと言えば人間らしい。
「まったく、世話の焼けるUMAだぜ。他のUMAもこんな感じなのかね?」
ハヤミはまた頭を掻くと、今度は墜落したアークエンジェルのコクピットによじ登って、二度と動く事は無いだろうパネルからキーボードを大きくへし折った。
ついでに、手近な所に転がるハヤミの雑貨も持っていく。
どうせもう使う機会なんてこの先ないんだ。
あげられるものは全部あげる。
それら荷物を持って少女の所に戻ると、さすがに少女も泣き止んではいたが、まだ膝を抱えて黙ったまま座り込んでいた。
膝と膝の間から覗く視線が、恨めしそうにハヤミの目を睨んでいる。
「これ、やるよ。欲しかったんだろ?」
「……」
「欲しくないのか?」
「……」
少女は黙ったまま、ハヤミの目とキーボードを見比べている。
ハヤミも黙ったまま、少女の動きを見ていた。
だがいくら見ていても少女が動かないので、ハヤミは根元を折ったキーボードを地面に置いて、カタカタとボタンを押してみせた。
ヘッドセットは無いが、マネで耳元に手を添える。
「あーあーあー。ユーマちゃん聞こえますかー」
「……ひっく?」
「俺たちはナ、これをポチポチ押してあいつと話をするんだ。お前さんとも言葉が通じればな……って、何やってんだか俺は」
膝を抱え込んでいる少女の前で、ハヤミはキーボードを抱えて座り込んだ。
その隣には、もう何度も何度も読んできたハヤミの本が積んである。
汗と煙で汚れていて、ボードの文字が読めない人生ゲームも。
なんとなしにハヤミがポチポチとキーボードを叩いていると、ふたたび少女の目と合った。
涙がうっすら残っている瞳で、少女は不思議そうに、じっとハヤミの目を見つめている。
「……なんだよ」
聞いても少女は、何も答えなかった。
当たり前か。
「気になるか?」
ハヤミは試しに、脇に置いた本をかざしてみた。
少女は少し間を置いてから、小さくウンと頷いた。
「それともこっちの方か?」
人生ゲームの方をかざしてみた。
少女は、やっぱりウンと小さく頷いた。
「……お前の気になるのは、もしかしてこれ」
ハヤミは壊れたキーボードを、少女にかざしてみせた。
少女は、小さく頷いた。
「全部気になるか。まあいいさ。これはな、俺が空に持っていってた奴なんだ」
言いながら、ハヤミはボードをガラス化した地面に広げてみせる。
少女は紙に書かれた線や文字を「興味津々」という目で見つめていた。
「マス目にはな、こういう文字……うーんと、これは、読めないよなぁ……うーん。ここに書かれてるような文字が、ここにも書かれてるんだ」
「ン」
「ここの文字はな。はあー、えっと。『夢を追いかけろ』『青春は美しい!』……おうおう、美しい文学だこと」
「ん?」
「そう、こんな感じでこの紙にも文字が刻まれてるのさ。で、俺はサイコロを振る」
ボードの上に本を載せ、開かれたページの上でハヤミは蒼いサイコロを投げてみせる。
サイコロは、今朝ハヤミの枕元にあった物だ。
そして。
本には、下に敷いた人生ゲームのような言葉は描かれていなかった。
どう説明すればいいんだろう?
「んー、とな。……投げるだろ?」
投げたサイコロを人指し指で固定し、出た数字を読み上げる。
「……八。この数の分だけ前に進むんだが……エート、ユーマちゃん分かるかい?」
ハヤミは少女の方を見てみる。
少女はすでに前のめりになってハヤミの指先を覗いていたが、ハヤミの疑問形の言葉に反応して顔を上に上げてきた。
いつもの様に首を横に振る。
「んー……いや、なにやってんだろ俺。ユーマに説明すると何がどうなるんだか」
ハヤミも、少女の目を見て呟く。
「……振って、出た数字だけ、ボードにある自分の駒を進める。それだけなんだよ」
何度振ってもサイコロは数を示す。
だが、進め方が説明できない。
「……だーっ! もう知らん! 俺が間違ってた、俺はこのゲームを説明できん!」
ハヤミはその場で、ゴロンと仰向けにひっくり返った。
その勢いでサイコロも遠くに飛ばす。
しばらくすると、近くで小川か何かにサイコロが落ちた音が聞こえてきた。
気配としては、少女はまだハヤミの事を覗いている。
「……なあ。言葉も分からない、文化も違う、何も共通点の無い俺は、お前に、俺の今をどう説明すればいいんだよ。もしかして俺が今こうやっているのも、お前さんはもしかして俺が『遊んでいる』って思ってるんじゃないのか?」
ハヤミは空を見たまま、指に触れたキーボードをガリガリガリと指先でなぞってみた。
意味なんて特にない。
空に指令を出したって、空は何も答えない。
その青い空だって、もうすぐ雷雲に覆われて見えなくなるんだろう
「へんっ、俺ァ知ってるんだぜ。俺は一人だ。味方だってここには来ない。この太陽が空から消えたら、生き残る術の無い俺は死ぬんだ」
キーをガッと叩いて、ぽつりと呟く。
「それが、良かったのかもしれないしな」
大きなため息をついた。
気配は黙ったまま、何も答えない。
「なあユーマちゃん。いるんだろ?」
答えのない事にハヤミは不安を覚えた。
上半身を起こしてみると、いるはずの少女の姿は無かった。
代わりに聞こえて来るのは、近くを流れるせせらぎの音と、森のざわめき。
「はーやみーっ!」
すぐ近くから、少女の声が聞こえてきた。
「えっ!?」
「はーやみーっ、ソィヴィドゥォコ! ハヤミ! テス!」
言いながら少女は小川の上でピョンと飛び跳ね、小川の波紋が陸を通して見えてくる。
「ちょ、お前どこにいるんだ!?」
「ダァーヴァリ テ ショゥディ!」
少女の突然の動きに慌てるハヤミだったが、少女の方は特に悪びれる様子も見せなかった。
戸惑うハヤミをよそに、少女は黙って小川の上流に走って行ってしまう。
「お、おい待て! ユーマ! どこに行くんだ!」
今度も少女の答えは無かった。
ただその場に取り残されたハヤミが、事実として、一人空き地にたたずんでいる。
「お、おい。俺は……どうすれば……いいんだよ?」
立ち尽くすハヤミを、強くて温かい風が取り囲んだ。
その風に揺られて、だろうか。
地面に潜って擱坐していたアークエンジェルの翼も、ギギィと気持ち悪い音を発する。
アークエンジェルは、もう二度と動く事は無いのだろう。
だが翼は、地上に落ちてもなお風を掴んで揺れている。
ハヤミの心も揺れていた。
『このまま、ここにいるつもりか?』
自分で自分に聞いてみた。
どうなんだ。お前は本当にここで死ぬつもりなのか?
違うだろ。
答えなんて、最初から全部知っている。
「ちぇっ。人に動かされるのは、俺は好きじゃないんだがなぁ」
物事はいつも、スマートに。
ハヤミはゆっくり頷くと、少女の消えた小川に、自分の足をゆっくり踏み入れてみた。