マウストゥマウス
海が時化っている上に泳ぎが苦手なため予想以上に時間が掛かってしまったが、俺は何とか溺れる事なく目的のポイントへ到達する事ができた。
息を整えながらルナの姿を探して辺りに目を凝らした時、ふいに俺の横を細長い何かがヒラヒラと流れていった。ウミヘビかと思って一瞬ぎょっとしたが、よく見るとそれはリボンだった。もしかして……あれはルナのリボン!? って事は、この近くにルナがいるかも!
その時、暗く濁った海に空から一筋の光が差し込んだ。嵐がさらに弱まり、雨雲に切れ間ができたのだろう。光が照らすその先に、ルナの姿を見つけた。
「ルナ! 待ってろ!」
俺は急いでルナに近寄り抱きかかえると、海面に顔を出す。ルナの顔は真っ白で、唇も紫色。まるで生気を感じられない顔付きになってるけど……それでも、見つけられた。このうねる海の中でルナを見つける事ができたのは、それだけで奇跡と呼んでいい出来事だと俺は思う。
が、安心したのも束の間、俺はまだ高いままの波に頭を押さえつけられ、しこたま海水を飲んで咳込む。くそ……このままじゃ俺まで溺れてしまう。そうなったら、ルナを助けられない。どうすれば……どうすればいいんだ……。
「ん!? 何か……来る!」
その時、俺は近付いてくる何者かの気配に身を強張らせる。海面に揺らぐ巨大な魚影……いや、それはどう見ても魚じゃない。体を左右にくねらせて水中を泳ぐその生物の正体を俺は持てる知識を総動員して解明しようと試みるが、俺なんかの乏しい知識では見当もつかなかった。
そしてそいつは俺のそばまで来ると、海面からその顔を持ち上げて俺を睨みつけてきた。海の色を凝縮したような、深い青の双眸。氷柱のように頭から伸びる二本の角。猛禽類の嘴を思わせる鼻先。鋭く生え揃った牙。
──水龍。そう表現するのがピッタリな、ヘビ型のドラゴン。透き通る水色の鱗は、陽光を反射して真珠のようなきらめきを放っている。こいつ……さっき船を襲った怪物とは違うやつだ。
ルナを抱えて泳いでいる今の状態では、身構える事すらできない。ちくしょう、何で次から次へとヤバそうな奴らが襲って来やがるんだ。俺は身構える事ができない代わりに、とにかく必死になってその水龍を睨みつけた。
すると驚いた事に、その水龍は頭の上に俺達を乗せて泳ぎ出したではないか。その水龍が向かう先にはさっきまで俺達が乗っていた船と、いつの間にかもう一隻、見知らぬ巨大な船が浮かんでいた。
「ふん、コイツらで最後か。ご苦労だったな“リヴァイアサン”。ゆっくり休んでくれ」
水龍の頭から見知らぬ船に降り立つと同時に、横からそんな声が聞こえた。リヴァイアサン……それが俺達を助けてくれた龍の名前なのだろうか。
黒い海賊帽子と海賊コートに身を包む小柄なその人物は、男のような口調だったけど声からして女の子だろう。その人物が誰で、この船が何なのか、色々と聞かなければならなかったが今はそれどころじゃない。俺はルナを甲板に横たえると、口元に手をかざす。
……信じられなかった。呼吸が……ない。俺は動悸が激しくなるのを感じながら、乱暴にルナの手首を掴む。脈も……ない。
「嘘……だろ? おい……ちょっと、冗談じゃねぇぞマジで……」
「お、お兄ちゃん、ルナちゃんは……?」
放心していた俺に、セイラが震える声で尋ねてきた。そうだ、セイラのアガムなら……いや、これは外傷じゃない。こういう場合にすべき事は……。
「誰かっ! この中に心肺蘇生法の心得があるやつはいないか!?」
俺が誰にともなくそう叫ぶと、その場の全員が首を横に振った。
「何でっ!? そこの人、海賊みたいなナリしといて知らないっての!?」
俺は海賊帽子をかぶった少女を指差して怒鳴りつける。すると少女は、
「ふ、ふん。俺様の船は絶対に沈まないから、そんなものを覚える必要はないのだ」
などとほざいて胸を反らして見せる。……いやいや、船が沈まなくたって人が溺れる事はあるだろ? 今みたいにさ。
「ぐぬぬ……じゃあホラ、俺達が乗ってた船のクルーは? 彼らならできるんじゃないか?」
「そいつらなら、オンボロ船から俺様の船に積み荷を移しているところだ。呼ぶか?」
海賊少女の言葉に、俺は沈みかけている船を見る。が、今俺がいるこの船が馬鹿デカイせいもあり、運搬作業をしている現場はかなり離れていた。今からあそこまで人を呼びに行って、ここまで戻ってくる時間は惜しい。
保健体育の授業で習ったか、テレビか何かで見たのか……それさえあやふやだけど、とにかく今は俺がやるしかない……うろ覚えでもいい、心肺蘇生法を!
その決意とは裏腹に、やはり躊躇するものもあった。……だって……なぁ? 緊急事態とはいえ、ルナに人工呼吸なんて……それってつまり、マウストゥマウス……いや、考えるな。感じるんだ。って、何を感じる気だ俺!
とにかく俺はそれらの雑念を振り切って覚えている限りの蘇生法を試みた。くっそぉ……こんな事でルナの唇を奪う事になろうとは……本当なら、互いの想いが通じ合った時にベッドの上で……って、馬鹿! 俺の馬鹿! 今くらい雑念は捨てろっての!
一度始めると最初の緊張は消え、俺は合っているのかも分からない人工呼吸と心臓マッサージを繰り返し行った。しかしルナは一向に息を吹き返す様子を見せず、俺も、周りのみんなも次第に焦りが出始めた。
くそ……くそっ! 駄目なのか、ルナ! 頼む、お願いだ……目を覚ましてくれッ!
「……ゴホッ! ゴホッ! ……けほ……」
俺の祈りが天に届いたのか。人工呼吸から心臓マッサージに切り替えようとしたところで、ふいにルナが息を吹き返して激しく咳込んだ。
苦しそうに息を荒げているルナを、俺は嬉しさのあまりガクガクと揺さぶって呼び掛けた。
「ルナ……っ、ルナ……!」
ルナは「うぅっ」と小さく呻きながらうっすらと目を開き、苦しげにつぶやいた。
「か……カエ、デ……?」
海風にかき消されるほどの声量で俺の名を呼ぶと、ルナは再び目を閉じてしまう。それと同時に、全身から力が抜けたのが分かった。
俺は驚いてルナの口元に手をやるが、今度は弱々しいながらもちゃんと呼吸をしていた。どうやらただ気を失っただけらしい。もう……心配ないな……。でも、俺は……。
「よかった……本当に……よ、か……」
あの怪物を追い払った時のロストスペルの影響なのか。
俺はルナの無事を確認して安堵した瞬間、深い闇の中へと意識が遠のいていった──。




