魔族の洗礼
──次の日の朝。まぁ朝と言っても冥界は常闇の世界なので、空を見上げただけじゃはっきりとした時間は分からない。各部屋に時計があったらよかったんだけど、あいにく時計はフロントにある一つだけ。これだと朝に弱い人……パーティーメンバーの中ではルナ辺りが寝坊してくるのは目に見えていたが、意外にも一番遅く起きてきたのはティリスだった。何でも、昨夜は悪夢にうなされてあまりよく眠れなかったらしい。
もしかしたら、冥界に来た事でデゼスの魂が活性化し、再び表出しようと機会を窺っているのかもしれない。今後は念のため、ティリスには個室で寝てもらった方がいいだろうか。隔離してしまうみたいでかわいそうな気がするけど、一応その辺も話し合っておかなきゃな。
そして現在、俺達は宿を後にして酒場へと向かっていた。もちろん、デゼスに関する情報を集めるためだ。
本当はあのお婆さんにもデゼスの事を聞きたかったんだけど、俺達全員がフロントへ集まった頃に、丁度お婆さんは忙しそうにしてどこかに出掛けてしまい、結局聞けずじまいだった。だが、お婆さんは俺達との別れ際、気になる言葉を残していった。
「この町に限らず、冥界を歩くんなら『洗礼』に気を付けな」
そんな短い一言。その言葉の意味を詳しく聞く事もできなかったので、忠告の意味までは分からなかったけど。
そうこうしているうちに、俺達は目的の酒場に到着した。宿屋のお婆さんがいい人だっただけに、俺は特に気構えもなくスッと入店してしまったのだが……それまで騒々しかった酒場は途端に静まり返り、そこに居た全ての魔族の視線が入り口の俺達に集中する。かと思いきや、次の瞬間にはみな一様に「興味なし」と言わんばかりに視線を逸らした。
(何だ……?)
我関せずってわりには、酒場は静まったまま一向に談笑が戻らない。不審に思いつつも、このまま入り口に突っ立ってはいられず俺はおずおずと酒場の奥に向かい、店のマスターらしき魔族──頭に角を生やした巨漢──に、話し掛けた。
「あ、あの……ちょっと聞きたい事があるんですけど……」
「アァ? だったらまず、何か注文すんのが礼儀じゃねぇか?」
少し気が引けて小声で言った俺の言葉を掻き消すように、マスターが大声を被せてくる。
「……悪いけど、酒は飲まないんで」
人を見下したような男の態度に俺はムッとしたが、一応受け答えはしておく。すると男は俺が答え終わるより先に用意を始めていた飲み物をカウンターの上に叩き付ける。置かれたグラスには、なみなみと注がれたミルクが揺れていた。
えっと……ここは西部ですか? この後ボスとの早撃ち対決が待ってるんですか?
あまりにもベタな展開に一瞬面食らったものの、まぁ牛乳は好きな方だ。ん、いや、そういえばこれって何の乳なんだ? に、人間のだったりして……。
興味本位で一口ぺろり……っ! この独特の生臭さとなめらかな舌触り……間違いない、牛乳だ! と、思う。
「お、お兄ちゃん、ボクもミルク欲しいな~?」
「あ、いや、俺もガッツリ飲もうと思ったわけじゃ……これで良かったら残り飲んでいいけど」
「ほんとっ? わ~い、やったぁ! んく、んく……っぷはぁ! おいし~い!」
豪快な飲みっぷりを披露して満面の笑みを浮かべるセイラ。あんまり意識してなかったけど、これって……間接キスだよな? いやいや、意識しちゃダメ! セイラは精神的にまだ子供なんだから平気だって。
俺は頭を振って思考を切り替え、改めて最初と同じセリフを男に投げ掛ける。すると男は口元を不敵に歪め、冷やかすような口調で言った。
「おやぁ? クク、お客さん、お代がまだですぜぇ?」
「ん? あぁ……で、いくらですか?」
「お客さんが持ってる金目のモン全部です……毎度ありぃ~っ!!」
俺の問いに男は怒鳴るような大声でそう答えると、ゲハゲハと汚らしい笑い声を上げた。と同時に酒場にいたほかの魔族連中からもワッと歓声が上がる。……なるほど、こいつが『洗礼』ってわけか。
頭に血が上った俺はソーマヴェセルを抜き放ち、剣の腹でカウンターを打ちつける。轟音とともに砕け散るカウンター。舞い散る木っ端が酒場の喧騒を包んで床に落ちていく。
「ご要望の金目の品だ。釣りはいらないぞ」
静寂の中、低い声で告げる。我ながら沸点低いなとは思う、でも……俺は俺を端から敵視するヤツにまでニコニコしてやるつもりはねぇ!
「テメェ……たかが人間風情がナメた口きいてんじゃねぇぞ……?」
凄みを利かせて男が怒りを吐き出すと、それに合わせてガタガタとイスが倒れる音がする。向けられる殺気は全方位から。どうやら俺は、酒場の全魔族を敵に回したらしい。
「仲良し小好しで羨ましいね……いいぜ、葬式の算段がついたヤツから掛かってきな!」
戦闘の気配を感じ取り、各々の得物に手を掛けるルナ達。だが俺はそれを制し、エンハンスアガムで自身の身体能力を強化させた。喧嘩を買ったのは俺だ、ここは俺一人でケリを着ける!
──が、その時だった。
「ちょっと待ちなよ。“たかが人間”とか言っちゃってるクセにあんたら、多勢に無勢もいいとこじゃない? しかも堅気相手に……魔族の顔に泥塗る気?」
突如入り口から上がった声に、俺を含むその場の全員が声のした方に視線を送る。
声の主は驚いた事に、外見から察すると俺と同い年くらいの女の子だった。頭に二本の小さな角を生やし、耳は細く長く尖り、わずかに開かれた口からは鋭そうな牙が覗いている。そして悪魔を連想させる、背に生えた二対の翼と槍型の黒い尻尾……冥界に来て最初に会ったお婆さん同様、どう見てもサキュバスだった。
「テ、テミス……てめぇこいつらの肩持つ気か?」
マスターの男がビッと俺を指差して言う。細かい心境までは分からないが、男は少し気が引けているようだ。
テミスと呼ばれたサキュバスの女の子は、ところどころに黄色いメッシュの入った薄緑の髪をサッと掻き上げ、
「何? 文句ある?」
と、面倒くさそうに答えた。その堂々とした態度を見て男はやけにあっさりと引き下がったが、表情を見るに納得したわけじゃそうだ。そんな男達に構う事なく、女の子は顔だけをこちらに向けて言う。
「ほらあんた達、あたしとこいつらの気が変わらないうちに早く店を出な」
いまいち状況が飲み込めないけど、どうやらこの少女は俺達を助けてくれるつもりらしい。怒りに熱くなっていた頭が冷えた今なら、自分の取った行動がいかに愚かだったのかがよく分かる。無駄な争いを避けさせてくれた少女に感謝しつつ、俺達はそそくさと店を出るのだった。




