野獣→美少女
──しばらく気を失っていたのだろうか。まだ意識がはっきりしない。
「……ん……ぅ……。ッ……あれ?」
うつ伏せに倒れていた俺は頭を上げ辺りを見回す。と、そこには見覚えのない風景が一面に広がっていた。
正面にはエキゾチックな雰囲気を漂わせる巨大な洋館。灰色の石で造られた建物の外壁には無数の窓があり、部屋の数もかなりのものだと思われる。俺が倒れているこの芝生も良く手入れされていて綺麗だし、一見して……相当な金持ちの屋敷っぽい。
「ほぁぁ~、すっげー家だなぁ……何かRPGの建物みたいだ」
俺はゆっくりと立ち上がりながら、まだよく働かない頭を振って呟いた。覚醒していくにつれて、少しずつ状況の異常さが身に染みてくる。
────で。ここは、一体どこですかな?
はい待て。待て待て、オーケーよし分かった、ちょっと情報を整理してみようか、冷静に。そう冷静にね、ここ重要。え~と……俺は友人宅の外、自分のチャリの前にいたはずだ。兄も一緒だった。けど……ここには俺しかいないし、自転車もない。第一、あの場はもう夜だったはずだ。でも今俺がいるここはどう見たって真昼間で、しかも十一月の気温とは思えないくらい暖かい。おまけに何だか空気の匂いまで違う気がするし、体が妙に軽い……気がする。……つまりだ……少なくともここは俺がさっきまでいた場所とは明らかに違う……って事でOKですか?
目の前の屋敷にしてもちょっと近所では見覚えのない建物だし、ここはホントに日本なのか? 何気なく見上げた青空には、
「……いや……そもそもここは地球……なのか?」
うっすらと白く見えるお月様。その隣に寄り添うように、ピンク色の月が浮かんで見えた。
「ん……?」
頭を抱えていた俺の背後から、ふいに何かが近付いてくる気配を感じた。芝生を踏みしめる、重い足音。
……人間のものじゃ、ない……?
もう、すぐ後ろにいる。俺はゴクリと唾を飲み込むと、恐る恐る振り返った。
「ッ!? な……何だコイツは……ッ!?」
声が、体が震えた。だがそれも当然だろう。そして、同時に俺は確信した。
今俺がいる“ここ”は地球なんかじゃなくて、どこか別の世界なんだって事を。
なぜなら、今俺の目の前にいるソレは、地球上には絶対に存在しない怪物だったからだ。
全体的なフォルムは犬のそれに近いが、明らかに犬と違うのは両肩の辺りから翼のように伸びる二本の角。全身を黄金の体毛で包み、額から背、尾の付け根にかけて炎のような真紅のたてがみが揺れている。しかし何と言っても一番ヤバイのは、口から大きくはみ出した白く鋭い犬歯だろう。
体長は、そうだな……昔動物園で見たライオンよりもさらに一回り大きい感じだ。おそらくこの屋敷の番犬……番犬? いや、首輪にデカい鈴がついてるし、番猫? いやどう見ても番怪物だけど、尻尾にリボンもついてるし怪物なんて言ったら失礼か? あぁぁ、とにかく見張り番的なナニカだとしよう。だとすると、今の俺の立場は非常にマズイ。だって俺、何でか分からんけど不法侵入しちゃってる訳だし。
──脳が“逃げろ”と指令を出している。心臓は全身の緊張を感じ取り、狂ったように警鐘を鳴らしている。だが、下手に動けばそれこそ一瞬で俺の喉笛は噛み砕かれるだろう。動くきっかけが必要だ……タイミングを逃してはならない。叫びだしたくなるのを理性で押さえ込み、怪物の眼を凝視する。
……が、この時俺は自分の集中力がいかに低かったかを思い知った。
「ハ……ックショイッッ!!」
……盛大なくしゃみだった。悲しくなるほどに。
「グオオオォォォォオォッッ!!」
怪物は一瞬ビクッとなった後に、咆哮を上げて俺に飛び掛ってきた。あ~、どうも何というか、きっかけはできたらしい。良いか悪いかは別として。
「兵法三十六計奥義──逃げるにしかずっ!」
俺は弾かれたように全速力でその場から逃げ出す。だがしかし、走り出して間もなく俺は妙な違和感を覚えた。
「なっ……、嘘、体かるっ!?」
そう、怖いくらいに体が軽いのだ。尋常じゃないスピードで走っているのが自分でも分かる。だが同時に、追ってくる足音との差が一向に広がらないのも分かった。俺は屋敷の壁に沿って走り、壁が右に折れた所で速度を緩めずにそこを曲がる。
しかし、曲がった瞬間俺はハッとした。なんと曲がった先は塀で行き止まりになっていたのだ。が、だからといって立ち止まるわけにもいかなかった。
とても無理だとは思ったが、それでも道はそれしか残されていない。俺はそのままの勢いで走り、高さ三メートルはありそうな塀を飛び越えようと思い切り飛び上がった。
その刹那、俺はまたしても驚く事になった。有り得ない、人間離れした自分の跳躍力に。指先すら届かないと半分諦めていたっていうのに、俺は軽々と塀を飛び越えてしまったのだ。
しかし驚きはさらに続いた。なんと塀の向こう側は断崖絶壁となっていたからだ。
「嘘だろ~~ッ!?」
俺は叫びながら空中で身をよじると塀に左手でしがみつき、そして軽やかに体を塀の上に引き上げたのだった。
「ま、マジかよ……左手一本で塀をよじ登れるなんて……。俺ってこんなに腕力強かったっけ? いやいやないない! ありえねーって! けど、さっきのジャンプだって嘘みたいに高く跳べたな……」
何ていうかもう……わけが分からない。さっきから驚きの連続で頭がどうにかなっちまいそうだ。ん~~……ここは、地球とは重力が違う……とか?
「グゥオオォ……」
低い唸り声。そうだ、今は考え込んでる場合じゃなかった。
いつの間にか俺と同じように塀に登ってきた怪物が、俺にゆっくりと迫って来る。
俺はそのまま塀の上を走って逃げる事にした。この細い塀の上なら、巨体であるヤツに大きなハンデだと踏んだからだ。
が、俺はこの怪物を甘く見ていた。怪物はとてつもないバランス感覚で全く危うさを見せずに俺を追い掛けて来たのだ。かといって、下に降りても俺がもっと不利になるだけだろう。
「くそぉ、このままじゃ……ッ!」
追いつかれるのは時間の問題だ。そう思った時、前方に一本の木が見えた。
針葉樹のような、トゲトゲした細い枝の木……しめたぞ、あの木だったらこの怪物は飛び移ってこられまい。何せ図体デカいしな。
俺はそう判断すると同時に塀を蹴り、木に飛び移った。
俺の体重を受け止めて大きく軋み揺れる木に不器用にしがみ付き、よくやく安堵の息をつく。やれやれ、とんでもない目に遭ったぜ。
後はあの怪物のエサの時間までここで待っていればいい。そうすればその時に屋敷の人間が気づいてくれるはずだ。そしたら事情を説明して……。
「……お? えッ!? ちょ、まっ……!?」
安堵したのも束の間……あろうことか怪物は枝を体でヘシ折ってこっちへ飛び移ってきやがった。重みを支えきれず枝という枝が音を立てて折れ、落下していく。
当然怪物も一緒に落下しかけたが、前足から飛び出した鋭い爪を幹に突き立ててそのままよじ登ってくる。
と、ここで俺は致命的なミスを犯してしまった事に気づいた。
俺が奴より上に陣取っている……つまり、もう上に逃げる事しか出来ない。そしてもちろん、木の高さ──逃げ道には限界がある。このままじゃ、マズイ。だが、焦る思いとは裏腹に俺はどんどん上へと追い込まれていく。そしてついに……後が、なくなった。
すると突然、怪物はその動きを止める。木の幹は上に行くほどやせ細り、体重の重いコイツはそれ以上登る事が出来なくなったのだ。
「やった! はははっ、バーカバーカ、俺の勝ちだ! 大人しく下に降りてダイエットでもしてな!」
勝ち誇って挑発する俺に腹を立てでもしたのか、怪物は牙を剥き出した口を大きく開いた。
瞬間、辺りの空気がその温度を上げていくのが分かる。怪物の口に、ゆっくりと光が集まっていく。喉の奥で、炎が渦巻いているのが見えた。
「オイ……これって……まさか……!」
こいつ、炎を吐き出すのか……!?
俺は直感的に事態を悟る。ヤバイぞ、どこかに逃げ道は……俺は焦りながら辺りを見回す。
「!! ……ツイてる……! 何で気づかなかった、俺!!」
巡らせた視界の中に、白いバルコニーが映り込む。いやに都合がいい気がしなくもないが、日頃の行いが良いからだととりあえず納得しておくことにして俺は急ぎバルコニーへと跳躍した。その直後、背後を閃光と熱風がかすめていくのを感じた。
間一髪怪物の放った炎を回避できたものの、炎が巻き起こした衝撃に背を押され、すでに着地の態勢に入っていた俺は大きくバランスを崩してしまった。
「っ! っと、とぉ、おわわわゎっっ!?」
踏みとどまろうと試みるも、どうにも立ち直れそうにない。このままじゃ窓に激突してしまう……!
──と、その時──。
「「あ……」」
まるで図ったように目の前の窓が大きく開かれ、その向こう側に唖然として立っていた女の子と俺の声が綺麗に重なる。そして──、
ドッシ~~ン、という痛々しい音と共に二人は部屋の床に転げ込んだ。
最初の衝撃が弱まる頃、俺は自分の左手が無意識にも女の子の頭を保護する形になっていた事に気づき、安堵する。
「~~~~っ!! っいっっ、た~~~~……いっ!?」
「つつ~……ご、ごめん、よんどころない事情があって。怪我はな……いっ!?」
お互い、語尾が裏返る。その理由は俺の右手の位置にあった。伝わる、女の子の柔らかな胸の感触……。
「ッ!? ここっこここっこれはっ! いやそのっ……ごめん! ホントごめんマジごめんッ! でもね、今のはね、俗に言う不可抗力ってヤツでして、決してわざとじゃ……」
俺は飛ぶように女の子の上から退くと、風が送れるほどの勢いで高速土下座。その子もすぐに立ち上がったようだけど、下を向いたまま沈黙している。
何だ? どこか痛めたのか? それとも怒ってる? 前髪で隠れて表情はよく分からないけど、わずかに肩が震えていた。
「……? あ、あの~……」
心配になって一歩近づき声を掛けた時、少女はふいにその沈黙を破った。
「こ……のッッ!! どぉスケベエェェェ~~~~~ッッッ!!」
少女の不名誉な叫び声と共に、俺の左頬にある意味心地いいほどの鈍い痛みが駆け抜ける。
それは実に見事な……閃光のごとき右ストレートだった──。