真紅翼の堕天使
「おに~いちゃん! えへへっ、おめでとぉ! 優勝だね!!」
シルフィード家、入り口前。そこでセイラは、兄である“アレス・シルフィード”に抱きついて祝いの言葉を元気いっぱいにぶつける。
「はは。お前と約束したからな。トール師匠の教えと、何よりお前の声援のお陰だ」
アレスはセイラの髪を優しく撫でてやる。気持ち良さそうに目を細める妹を見て、アレスの顔もわずかに綻んだ。
──有翼種族フェルマスである彼らは、ザーグガルド大陸北部に位置する世界最高峰にして最大の山脈、“カルラード山脈”の頂に集落を形成し、そこでひっそりと暮らしていた。
そしてこの日、アレスは集落で行われた武術大会にて、見事に優勝を果たしたのである。
「そうだ。セイラ、お前にこれをやる」
アレスは腰に下げた布袋からある物を取り出すと、セイラの掌に乗せた。
「なぁに? ……あっ! これ……」
その手に乗せられた物は、深い蒼色の宝石があしらわれた見事な指輪だった。
「『エアリアルリング』。お前、前々から欲しがっていたからな。──大会優勝者は、望みを一つ叶える事ができる──まぁ、長老達が叶えてくれるものだから限度はあるが、それを活用させてもらった。多少無理を言ったがな。お前には欲しがっていた青い宝石のリング。俺は……こっちの赤い方だ」
アレスは言いながらもう一つ、紅い宝石があしらわれた同型の指輪を取り出すと、自分の左手中指に宛がう。すると、キン、と高い音を鳴らしてリングが光り、アレスの指に合うサイズになってぴったりとはまった。
──集落の中で最も高い場所に、とある祭壇がある。
太古の昔、神と人間との手によって造られたその祭壇からは『ヴァルミュール』と呼ばれる極光の橋が伸び、人間界と神界を繋いでいる。
その祭壇に祀られた、一振りの剣──世界の楔、伝説の15神具の一つ『天翔剣ネフジード』。その剣の鍔に備え付けられた二つの指輪、それがエアリアルリングである──。
「うわぁ……! ありがとぉ、お兄ちゃん!! ボク、一生大切にするね!!」
セイラは眺めていた指輪を左手薬指にはめると、満面の笑みを浮かべて言った。
「な……何でその指に……まぁ、いいけどな」
──ボクは、とても幸せだった。今までだって、大好きなお兄ちゃんと一緒ならそれだけで幸せだった。そしてその幸せは、これからも、いつまでも……ずっと続いていくと思っていた。……そう願っていた。
でも。
悪夢はその日のうちにやってきて、ボクの周りから何もかもを奪っていったんだ──。
夜。
静寂に包まれていたアレスとセイラの家に、突如耳障りな騒音が鳴り響いた。何者かが、扉を壊してしまわんばかりの勢いで家の扉を叩いている音だ。
「おいッ!! アレスッ、セイラちゃん起きろッ!! 早くここから逃げるんだ!!」
男の叫ぶ声がする。声の主は、近所に住む猟師のハーマン。
その切羽詰まった叫びにただならないものを感じたセイラ達は、飛び起きると慌てて扉の鍵を開ける。すると扉を叩いていたハーマンが転がるように家の中に駆け込んできた。
「アレスッ! 詳しく話してる暇はねぇ! 早く……早く祭壇まで逃げろ!!」
ハーマンがアレスの肩を揺さ振り叫ぶ。これほど鬼気迫った人の顔を、セイラは見た事がない。
「は、ハーマンさん? とにかく一旦落ち着いて」
「馬鹿野郎! そんな状況じゃねぇんだよ……化け物が襲ってきた! もう何人も殺られてんだっ!!」
「ッ!? ……だったら尚の事逃げる訳にはいかない。集落は、俺が守らないと」
「ダメだッ逃げろ! 長老達の言いつけだ。いくらお前でも、あの化け物には絶対に敵わねぇ! ……あぁぁくそっ、オレはもう行くぞ!? お前等も早く──ッ!? がはッ……ッ」
──ドサッ。
「きゃああぁあっ!? は、ハーマンおじさんっ!!」
家を出て行こうとしたハーマンが、いきなり大量の血を噴き出して倒れた。
セイラは咄嗟に掌で目を覆ったが、見てしまった。
仰向けに倒れたハーマンの背──そこにさっきまであったはずの翼が、根元からごっそりと消えた瞬間を。
背から流れ伝う鮮血が、ゆっくりと地面に広がる。赤一色で描かれたそれは──まるで翼のようだった。
ハーマンが倒れた事によって、大きく開け放たれた扉の向こう側が見えるようになる。
いつにも増して黒い夜の奥。そこに立つ、一つの人影。
その背には、大きな翼が生えていた。フェルマス特有の白ではなく、血のように紅い──真紅の翼が。
「あいつが……皆を! セイラ、あいつは俺が食い止める。お前は裏口から先に逃げろ」
「で、でも、でも……っ!!」
怯えきったセイラの足は、地に根付いたかのようにピクリとも動かない。だがそれ以前に、アレスを置いて一人逃げる事など、セイラにはできなかった。
真紅の翼を持つ謎の少年が、ゆらりと二人の方を向き、言った。
《……みて。ぼく……やっとつばさをてにいれたんだ……ほら……》
ソレは、確かに人の言葉を喋った。だがその音は、まるで地獄からの呼び声。外見年齢はセイラと同じくらいのはずなのに、その声は腹に響くほど低く……それでいて脳を揺らすほど高くも聞こえる、奇妙な声だった。
バサッ、と大きく開かれた少年の紅い翼を見て、アレスが言う。
「こいつ……フェルマスなのか……? セイラ、早く逃げろ。あいつは危険だ」
「お、お兄ちゃんは……? い、一緒に逃げようよっ!」
セイラが躊躇している間にも、真紅翼の少年はゆっくりと二人へ近づいてゆく。
《でもね……へんなんだ……いくらはばたいてもね……とべないんだ》
「セイラ、逃げろッ! 早くッ!!」
《みんなはかんたんにとべるのにね……ぼくは……ぼくだけ……》
少年の細い腕が、音もなくセイラに向けられた。そして──。
《だから……きみもちょうだい。その……しろいつばさを》
刹那、少年の指先が強烈な光を放つ。そうセイラが認識した瞬間、セイラの目の前に赤い血飛沫が舞った。
「……っ!? お、お兄ちゃんッ!?」
事態を理解した時、セイラは愕然とした。セイラを庇い少年の攻撃を受けたアレスは、左の翼を根元から失っていたのだ。
アレスは力なく崩れ、地に膝をつく。が、妹を想う兄の心は強い。意識を刈り取られそうなほどの激痛に歯を食いしばりながらも、荒い息の合間にセイラを気遣う。「大丈夫か?」……と。
それを見たセイラは強い自責の念に捕われ、頭を抱えた。セイラはもう……動けなかった。
「頼む、セイラ……早く……逃げろ……」
「……だめだよ……ボク、もう……だって、ボクのせいで、お兄ちゃんが!」
すると、アレスはふいに怒ったような口調になり、言う。
「悪い子だ……お兄ちゃんの言う事が、聞けないのか……?」
セイラは驚き、アレスを見る。それが、優しい兄からの初めての叱責だったから。最期になるかもしれないこの状況で、兄に嫌われてしまう。
──そんなのは、嫌だ。
セイラはその一心で、震える両足を押さえて立ち上がる。
「ふ……いい子だ。さあ、分かったら早く行け……俺も、すぐに追いつく、から」
セイラは力強く頷くと、伝う涙を拭ってその場を駆け出す。──だが。
「えっ……ぎッ、あああああぁぁぁああぁぁぁーーーーッ!?」
直後、身体を引き裂かれたような激痛がセイラの全身を駆け巡った。
ひどい耳鳴りがして、視点が定まらなくなる。……焼けるように熱い、その背中。
そのまま地面に倒れたセイラの隣に、何かがドサリと落ちた。それは、セイラの右翼だった。
「セイラ……? おい、セイラ! そんな、セイラ……セイラーーーーーーッッ!!」
徐々に強まる痛みに塗り潰されるように薄れてゆく意識の中……セイラは兄の叫ぶ声を聞いた──。




