結婚式まであと一月。婚約者が別の令嬢を妊娠させたそうなので、花嫁の座をお譲りします
「お腹に、ディートリヒ様の子がいるのです」
その言葉を聞いたとき、私は膝の上の布を押さえていた。
花嫁衣装の裾に縫い付ける、白い花の刺繍だった。
仕立屋へ返す前に最後の確認をするはずで、応接室の卓上にも、糸の見本が並んでいた。
ベアトリクス・フォン・ノイマンは、その白い布を見てから、私を見た。
「昨日、医師に診ていただきました。妊娠しているのは間違いないと」
「……それを、ディートリヒ様はご存じなのですか」
「はい。もちろん」
私は、彼女の向かいに座っていた。
四年前に婚約し、一月後には結婚するはずの人。
その人の名が、こんな話と一緒に、ほかの女性の口から出てきた。
「お話をうかがう前に、父にも同席してもらって構いませんか」
「お父様に?」
彼女の笑みが、少し薄れた。
「これは、私たちの話ではありませんか」
「私一人で、その場で返事をするお話ではないと思います」
私は呼び鈴を鳴らした。
指が滑って、最初の一度は音が出なかった。
もう一度押すと、廊下で足音がした。
*
リーデル伯爵家には、交易路に沿って幾つかの宿場町がある。
父はそこで集める通行の収入や、宿泊施設の貸付料を、道路の補修と橋の維持に充てていた。
私も若いころから、領地を巡る父に付き添っていた。
帳簿の数字と、荷馬車の積み荷がつながって見えるのが好きだった。
雨が降れば遅れる。橋を直せば通れる。
予定通りに運ぶために、多くの人が前から支度していることも、少しずつ覚えた。
ディートリヒ・フォン・アルテンブルクと婚約したのは、私が二十一歳のときだった。
彼は四つ年上で、賑やかな場ではいつも誰かに囲まれていた。
私の話を聞くのも上手だった。
宿場の厩が足りない話をすると、そんなところまで見ているのか、と面白がってくれた。
アルテンブルク侯爵領は、うちの交易路の先にある。
両家は新しい荷継ぎ拠点を共同で設ける計画を持っていて、縁組にも期待していた。
それでも、私は家のためだけに頷いたわけではない。
彼と一緒に旅をしてみたいと、思っていた。
結婚後の最初の夏には、川沿いの道を南へ行こう。
彼はそう約束した。
私はその道が載った小さな案内書を買った。
結婚式は、七月の初め。
両家の親族を招いて礼拝堂で誓いを交わし、侯爵家の庭で披露の宴をする。
遠方から来る客には、王都の宿を三軒押さえていた。
六月に入ったその日、ベアトリクス様は突然、面会を求めて来た。
私は二十五歳で、彼女は二十三歳。
社交の場で挨拶をしたことはあったが、私の家へ来るほどの間柄ではなかった。
父が応接室へ入ると、彼女は立って頭を下げた。
私は布を畳み、椅子の脇へ置いた。
「先ほどと同じお話を、父にも聞かせていただけますか」
ベアトリクス様は、もう一度、自分が妊娠したことを告げた。
父は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「ディートリヒ殿と、関係を持ったということですな」
「はい。半年ほど前から、お会いしています」
「娘との婚約は、承知のうえで?」
「……存じておりました。でも、家の都合で結婚するだけだと。愛しているのは私だと、おっしゃったのです」
私は卓上の糸を見ていた。
白だと思っていたのに、窓の近くと室内とでは、色が違って見えた。
そういうことが、やけにはっきり目に入った。
「それで、今日は何をお求めになって、いらしたのですか」
私が尋ねると、彼女は背筋を伸ばした。
「身を引いていただきたいのです。子供には、父親が必要ですから」
父の手が、膝の上で止まった。
私は彼女の顔を見た。
「ディートリヒ様から、私と婚約を解消し、あなたと結婚すると聞いていらっしゃるの?」
「今は、あなたを傷つけることをためらっているのだと思います」
約束したのか、という問いには答えがなかった。
私は父を見た。
父はゆっくり頷いた。
「こちらから侯爵家に確認します。本日、この場であなたの結婚について返事はできません」
ベアトリクス様が、初めて言葉に詰まった。
それでも帰り際、私の脇に置いた布へ視線を落とした。
「もう、こんなにご準備が進んでいたのですね」
「ええ」
私が答えると、彼女は少し俯いた。
気まずくなったのか、同情したのか、私にはわからなかった。
そのどちらも、今は欲しくなかった。
*
彼女が帰ると、父はすぐに侯爵家への書状を用意させた。
私は応接室から動けずにいた。
畳んだ白い布の端から、仕付け糸が一本出ている。
取ってはいけない糸だとわかっているのに、何度も指で引っ張りそうになった。
「ヨゼフィーネ」
父に呼ばれ、顔を上げた。
「娘の体調不良という理由で、今日の予定は断る。よいな」
私は頷いた。
侍女が糸の見本を箱へ戻す。
卓上が片づいていくと、準備していた結婚式の実感が、かえって強くなった。
明日には料理の最終確認がある。
来週には衣装を受け取る。
十日後には、遠い領地に住む伯母が出発する。
「お父様。伯母様が、こちらへ向かう前に」
「わかっている」
父は私の隣に座った。
「だが、今夜、お前が全員へ手紙を書く必要はない」
私は唇を噛んだ。
泣きたいのか、腹が立っているのか、自分でもわからなかった。
ただ、伯母が馬車の中で、私の結婚を喜んでいる姿が浮かんだ。
「みんなに、申し訳ない」
「お前がしたことではない」
父は短く言った。
私はそれを聞いて、初めて、彼に怒りを向けてよいのだと思った。
ディートリヒ様は、私が料理の数を決めているあいだ、ほかの人に何を約束していたのだろう。
半年という言葉が、頭の中に残っていた。
婚礼の日を決めたころには、もう始まっていたのだ。
私は父の袖を掴んだ。
父は、その手を外さなかった。
*
翌日の午後、ディートリヒ様が父親と一緒に来た。
侯爵家への正式な照会を受け、当主も同席すると返答があったのだ。
侯爵は父へ挨拶し、私に頭を下げた。
まだ息子の説明を確かめているところなので、直接聞いてほしいという。
ディートリヒ様は、いつものように髪を整えていた。
昨日、私が彼へ送るはずだった手紙が、鞄の中に入っている。
引き出物に添える挨拶の文面を確認してほしい、というものだった。
「ベアトリクスが、こちらへ来たと聞いた」
彼は、座ってから言った。
「驚かせて、すまなかった」
私は父の隣に座り、膝の上に両手を重ねた。
「彼女と、半年にわたり関係を持っていたのですか」
「……そのくらいになる」
「男女の関係を?」
「そうだ」
答えは、思ったよりも簡単に出た。
私は彼を見ていた。
まだ、何か違う話になってくれないかと待っている自分がいた。
「彼女が妊娠したことは、ご存じだったのですね」
「ああ。医師に診てもらった、その日に聞いた」
「それで、私には?」
「話すつもりだった。まず、落ち着いて考えたかったんだ」
私の父が、身じろぎした。
私は彼より先に、言葉を出した。
「何を考えるのですか」
「結婚のことを。君との式は、もう来月だろう。ここで取りやめれば、両家の損になる」
彼は、父親の顔を見た。
侯爵は頷かなかった。
ディートリヒ様は私へ向き直った。
「君を妻に迎えるつもりは、変わっていない」
私はしばらく、返事ができなかった。
「彼女は、ご自分が妻になるために、私へ身を引いてほしいとおっしゃいました」
「勝手に動いたんだ。僕は、彼女と結婚するとは言っていない」
昨日のベアトリクス様の顔が浮かんだ。
彼女は、彼が私に気兼ねしているのだと言った。
彼は、彼女が勝手に動いたのだと言う。
どちらも、相手と自分の間に、私を置こうとしていた。
「あなたは、彼女とどうなさるおつもりだったの?」
「生活の面倒は見る。君に迷惑はかけない」
「私に黙ったまま、関係を続けるつもりだったのですか」
ディートリヒ様は、すぐには否定しなかった。
その沈黙で、私は彼が用意していた結婚生活を理解した。
「婚約を解消します」
彼の肩が動いた。
「いったん式を延期するという意味なら」
「違います。あなたとは結婚いたしません」
私は、自分の言葉を聞いていた。
半年分の嘘が、私の知らないところにある。
その先に、二人で暮らす家はなかった。
「子供のことなら、まだ生まれてもいない。父親の確認だって」
「それを待って、私の結婚を決めるつもりはありません」
私は、彼の言葉を遮った。
「彼女と関係を持ったことは、あなたがお認めになりました。それだけで、婚約を解消する理由になります」
父が、婚約契約の控えを卓上へ置いた。
不貞を理由に解消できる条項を確認し、侯爵へ示す。
侯爵は読み、頷いた。
「異論はありません。息子に責があります」
ディートリヒ様が、父親を見た。
「父上。来月の式は」
「お前が壊したのだ。伯爵家に、その始末まで押しつけるな」
彼は黙った。
私は、息を吐いた。
自分の指が、ひどく冷たかった。
婚約解消の意思と、不貞を本人が認めたことを記録する。
両家の代理人が、解消の書面と式中止の通知をまとめる。
まだ続く話があるとわかっていたが、私はその日、彼とこれ以上、言葉を交わしたくなかった。
立ち上がったディートリヒ様が、私に言った。
「少し、頭を冷やしてくれないか」
私は椅子に座ったまま、彼を見上げた。
「冷静でなければ、半年間の不貞を認めた方と、同じ部屋で話はできません」
彼の目が逸れた。
侯爵が、息子の腕を取った。
父が私の隣にいるまま、二人は部屋を出ていった。
*
婚約解消と式中止の書面を取り交わしたのは、五日後だった。
六月に入り、一週間も経たないうちに、私は花嫁ではなくなった。
父と一緒に、通知の文面を確かめた。
婚約者の不貞を理由として解消したため、予定していた婚礼は中止する。
出席の準備をしていた方へのお詫びと、宿泊手配についての連絡先も記した。
先に出発する親族へは、早馬を出した。
伯母がまだ領地にいるうちに、中止の知らせは届いた。
婚礼を楽しみにしていたという返事が来て、私は一度、手紙を伏せた。
その続きを読むと、私を責める言葉はなかった。
迎えに来てほしければ来る、とあった。
私は泣きながら、その必要はないけれど、落ち着いたら会いたいと書いた。
解消の書面に署名したからといって、すべてが片づいたわけではない。
居間の片隅には、私が嫁ぐための荷箱が並んでいた。
中には、侯爵家の部屋へ置くつもりで選んだものが入っている。
私は箱を一つずつ開けた。
案内書も出てきた。
川沿いの道を南へ行く、小さな旅の本だ。
どこまで進むか、どこで泊まるか。
二人で話したつもりで、私だけが印をつけていた。
閉じてしまうと、そのまま箱の底へ戻しそうだった。
私は机の引き出しへ入れた。
読める日が来るまで、そこに置くことにした。
*
代理人が最初に持ってきた一覧には、婚礼に関わる契約が並んでいた。
礼拝堂と宴の料理は侯爵家。
私の衣装と、招待状の印刷、遠来の客の宿泊は伯爵家。
父が署名した契約のうち、実際の打ち合わせを私が担当したものには、私の名も添えてある。
双方の契約先には、解消の書面が整うのを待たず、準備の停止を連絡していた。
それでも、既に縫った衣装が糸に戻るわけではない。
印刷した招待状も、使わなかったから無料になるものではなかった。
「違約金については、婚約契約に定めた額です」
代理人は、別の書面を出した。
「違約金は、婚約を破ったことに対する定額です。準備費の実費は別の条項で精算しますが、返金分や転用で回収した分は差し引きます。同じ費用を二度請求することはありません」
私は頷き、宿泊の欄を見た。
三軒のうち二軒は、期限内の取り消しで大部分が返金される。
一軒は、遠方の親族をまとめて泊めるため、建物の一部を押さえていた。六室、二泊分。
そこは手付金が戻らない。
父はその宿を昔から使っていた。
宿主は、ほかの予約を断って待ってくれていたのだという。
「契約の通り払います。あの方が悪いわけではありませんから」
私が言うと、代理人は頷いた。
「宿泊する人を替えること自体は、可能だと先方はおっしゃっています。部屋数と日付が同じなら、という条件です」
私は予定表を開いた。
七月の初めは、南から王都への荷が増える時期だった。
宿の大きな庭には荷車を入れられるし、厩もある。
婚礼の客に使ってもらう前提で選んだ宿だったが、あの場所を必要とする人は、ほかにもいる。
「一度、宿主と相談してもよいでしょうか」
「用途を変えるおつもりですか」
「全部ではなくても。空けたままにする前に、確かめたいことがあります」
代理人は、返答を急がせなかった。
宿泊日まで時間は少ない。
私は自分の手で、宿へ問い合わせの手紙を書いた。
*
フェルディナント・フォン・エーベルハルトとは、三年ほど前から面識があった。
子爵家の当主で、領地の輸送業を自ら取りまとめている人だ。
うちの宿場を経由する荷も扱っていて、父や私と何度か打ち合わせをしていた。
三十一歳で、社交の場に長くいるより、出発する馬車を見送るほうが落ち着くらしい。
以前、客を待たせる控室と、御者が休む部屋を分けたいと相談したとき、彼はその日使っていた御者を連れてきた。
自分では気づかないことがあるから、直接話してもらったほうがよいという。
そういうやり方をする人だった。
今回は、私から正式に面会を申し込んだ。
父も同席した応接室で、六室二泊分の予約について説明した。
「日にちは動かせません。宿主の了承は、書面でいただいています」
「ちょうど、その週に王都へ入る隊が二つあります。ただ、今から宿を替えることになるので、先に契約している宿がある者には勧められません」
彼は手元の予定を確かめた。
「日帰りするつもりだった者なら、宿泊したいと言うかもしれません。費用が合うかどうかも含め、聞いてみます」
「お願いします。無理に埋めていただく必要はありません」
「はい。二日後までに、わかる範囲をお返しします」
用件が終わるまで、彼は婚約解消について尋ねなかった。
帰り際、父に挨拶してから、私を見た。
「お疲れが出ませんように」
私は礼を言った。
何も知らないふりをしているわけではないと、その一言でわかった。
けれど、詳しい事情を話す必要はなかった。
二日後、使いが来た。
四室なら利用したいという人がいる。残り二室は、まだ希望者がいない。
宿代は、通常の商用の宿泊費としてなら払えるという。
婚礼客向けに食事まで整えていた元の契約額より、少し安くなる。
宿主は、その内容なら、用意する食事も簡素に変更できると答えた。
節約できる食材費を差し引いても、手付金の全額は取り戻せない。
六室の予約自体は維持し、うち四室の宿泊者と食事を変更することで合意した。
利用者が払う宿代を残金に充て、回収できない差額を最終の損失に計上する。
未使用の二室についても、契約の条件を確認して負担を残した。
代理人には変更した契約と受領書を渡した。
全部が都合よく埋まったわけではない。
けれど、四つの部屋には人が泊まる。
宿主が次の客へ用意していた寝具は、箱へしまい直さずに済んだ。
*
六月の半ば、ベアトリクス様から手紙が来た。
中止した婚礼の日までは、まだ半月ほどあった。
婚約解消の通知を受け取り、家族から説明を求められたこと。
ディートリヒ様は、家が落ち着いてからとしか言わないこと。
そして、予定していた式を使えないかという相談だった。
私は二度、同じ箇所を読んだ。
私が引けば、婚礼の準備も、そのまま自分へ渡ると思っていたのだろうか。
父にも読んでもらった。
父は手紙を置き、代理人から事務的に答えようと言った。
私は、一度だけ自分で返事を書きたいと頼んだ。
面会に応じたのは、私の父と彼女の父であるノイマン男爵が同席することを条件にしてからだった。
侯爵家も交えた正式な費用の精算とは別の場だと、あらかじめ伝えた。
ベアトリクス様は、前に来たときより口数が少なかった。
男爵は、娘が婚約者のいる相手と関係を持ったことについて、私と父へ謝罪した。
その謝罪を受けてから、私は彼女を見た。
「花嫁の座はお譲りします。私は、あの方とは結婚しません」
彼女は顔を上げた。
「ですが、私のために用意した式も衣装も、そのまま差し上げるという意味ではありません」
「私、衣装までは」
「式は既に中止しました。礼拝堂も、料理も、宿も、それぞれの契約に従って処理しています。あなたが結婚なさるなら、ご当人同士で、初めからお決めください」
彼女は唇を結んだ。
私は彼女のお腹を見ないように、顔を見て話した。
その子供が、私の婚礼の費用を負担するわけではない。
目の前の大人に、わかってもらう必要があった。
「ディートリヒ様が、式の準備はもったいないと、おっしゃったんです」
私は少し黙った。
あの方らしいと思った。
私に式を続けてほしいと言ったのと、同じ理由だろうか。
「では、その費用を負担し、手配し直す話を、あの方となさってください。私へ譲るよう求めることではありません」
男爵が娘の名を呼んだ。
ベアトリクス様は、父親に視線を移した。
「結婚の約束があるのなら、侯爵家と正式に話を進める。お前が伯爵令嬢に、その準備を頼む話ではない」
「……はい」
私は、彼女の手が膝の上で握られるのを見た。
どうしても聞きたいことが、一つだけあった。
「私に婚約者がいると知っていて、私へ直接、身を引いてほしいと頼みに来たのですね」
「……子供のために、早く決めなければと思って」
「その前の半年のことを、伺っています」
彼女は目を伏せた。
やがて、小さく頷いた。
「選んでいただけると、思ったのです」
「それを私に認めさせても、あの方のお返事の代わりにはなりません」
私は、用意した返答の書面を渡した。
婚礼の手配を譲渡しないこと。
今後、元の婚約についての連絡は、両家の代理人へ寄せてほしいこと。
それ以外のことまで書く必要はないと思った。
父が面会を終えると告げた。
私は立ち上がり、二人を見送った。
自分が許したり、助けたりしなければ相手が困る、と考えるのはやめたかった。
彼女には彼女の父がいて、子供の父として名を挙げた相手もいる。
その話し合いの席に、私が座り続ける理由はなかった。
*
七月の初め、私はあの宿へ行った。
本来なら結婚式を挙げるはずだった日の、翌朝だった。
式の日は、家で過ごした。
父は出かけてもよいと言ったが、私は家にいたかった。
部屋へ食事を運んでもらい、午後には少し眠った。
その一日を立派に過ごそうとは、思わなかった。
翌朝、宿泊の利用状況を見に出かけると、庭に荷車が二台止まっていた。
窓辺の飾りは取り外され、いつもの宿に戻っている。
私は扉の前で、しばらく立ち止まった。
フェルディナント様が、庭の向こうから歩いてきた。
「おはようございます。こちらへお越しになると、宿主から聞きました」
「何か、不都合はありませんか」
「今のところ。今朝は出発が早い者がいたので、朝食を先に出してもらいました」
宿主の妻が、帳面を持ってきた。
利用した部屋と、食事の数を確認する。
私が署名すると、彼女は両手で帳面を閉じた。
「お部屋を使っていただけて、助かりました」
「こちらこそ、急な変更に応じてくださって」
私は少し迷ってから、付け加えた。
「本来のご予約とは違いましたけれど」
「ご用意したものを使っていただけたことに、変わりはありませんよ」
私は、その言葉に頷いた。
婚礼の客が座るはずだった食堂には、旅人が座っていた。
誰かの馬車が来るのを待ちながら、パンを食べている。
私がここを選んだ理由まで、間違いになったわけではないと思えた。
庭へ戻ると、フェルディナント様が荷車の縄を確かめていた。
私を見ると、作業を終えて手を拭いた。
「次の月にも、同じくらい泊まりたいという声がありました。ただ、今度は正式な商用の条件で相談したいと」
「宿主へ直接、お話ししていただけますか。うちの名義で予約し続ける理由は、もうありませんから」
「承知しました。宿場全体の利用についても、改めてお父上へ相談したいです」
「それでしたら、私も同席します」
彼は頷いた。
私は荷車が門を出るのを見送った。
馬の足音が、朝の道へ遠ざかっていく。
次に来る人の話を、自分がしていた。
*
費用の精算は、七月末に一段落した。
違約金と、実際に残った準備費の負担。
宿泊の転用で回収した分は差し引いた。
侯爵家が支払うべき金額は、それでも決して小さくなかった。
料理は、取りやめの連絡で発注を止められた食材もあった。
既に仕込みや人員の確保にかかった費用は、侯爵家が契約通り支払った。
うちが手配した招待状や印刷物も、出来上がった分は精算した。
衣装は、私の体に合わせて仕立てたものだった。
受け取るとき、仕立屋は、使わないからといって代金の全部を諦めるとは言わなかった。
私も、そんなことは求めなかった。
「刺繍の部分は、外せますか」
私が尋ねると、仕立屋は裾を見た。
「できます。別のお召し物に使うことも」
「では、ひとまず外して保管してください。衣装そのものは、今すぐ決められないので」
仕立屋は頷いた。
手元に残す衣装と刺繍は、使える部分の価値を見積もってもらい、その分を準備費の請求から差し引いた。
私は白い布を見下ろした。
これを着なかった私が不幸なのだとは、まだ思いたくなかった。
*
八月の終わり、私は父から侯爵家の書面を見せられた。
精算に伴う支払いを終えたという確認と、共同で設けるはずだった荷継ぎ拠点の計画を白紙に戻す、という確認だった。
その事業には、私が嫁いでから、二つの領地を行き来する窓口になることが組み込まれていた。
出資の最終契約は、まだ交わしていなかった。
今後、別の相手と似た事業をする可能性はあっても、婚約時の条件をそのまま引き継ぐ義務はない。
父は侯爵と、既存の輸送や通行の契約まで止めないことも確かめていた。
荷馬車は、これまで通り道を通る。
仕事をしている人たちが、私たちの破談のせいで急に行き場を失うことはない。
それでも侯爵家は、計画していた拠点の収益を借入の返済に充てるつもりだったという。
延期してきた返済の見直しと、手元の財産の整理が必要になった。
「ディートリヒ殿の家督継承は、見合わせるそうだ」
父が言った。
「当主の名代で借入の交渉をする権限も外したと、侯爵から連絡があった。今後は、侯爵と代理人が直接、責任を持つ」
「ご本人は?」
「契約と返済の一覧を作らせ、なぜその支払いが必要なのかを説明させるそうだ。婚礼のために生じた負担の一部は、本人の私有財産から支払わせると」
私は、式をやめれば損になると言った彼を思い出した。
私へ結婚を続けさせれば、書類の上の損失も、自分の失敗も消えると思っていたのだろうか。
その年の初め、共同事業の窓口を誰にするか話したとき、彼は、自分が名を出せば話は早いと言った。
私はその場で、担当者に来てもらう予定を組んだ。
彼が引き受けたはずの説明を、いつの間にか私が準備していたことがある。
今度は、私が代わりに答えることはできない。
父も、そのために私を呼んだのではなかった。
「ここまでの話は、お前にも伝えておく必要があった」
私は頷いて、書面を返した。
侯爵家の収支について、続きを尋ねはしなかった。
*
九月には、宿場の利用計画の打ち合わせが始まった。
フェルディナント様は、あの宿だけに仕事を集めるのではなく、荷の種類や滞在日数に応じて、幾つかの宿を使い分けたいと提案した。
「馬を休ませる場所と、人が待つ場所を、同じ一軒に集中させたくありません」
「大きな荷は、町へ入る前に分けているのですよね」
「はい。宿に入れる門の幅も違いますから」
私は町の図面へ印をつけた。
子供のころ、父に連れられて歩いた道だった。
どの門が狭いか、どこに馬を止めると歩く人が困るか。
人に説明できる形にするのは、また別の仕事だった。
打ち合わせのあと、現地を歩いた。
父と町の役人も一緒だった。
フェルディナント様は、荷車が曲がる角で何度も立ち止まった。
「一枚、描いても構いませんか」
「何を?」
「この角を。図面ではわからないのですが、庇の張り出しが気になります」
彼は鞄から、小さな帳面と鉛筆を出した。
絵は、思ったよりも上手だった。
石畳の線と、屋根の端が、数本の線でわかる。
「旅先でも、描いていらっしゃるの?」
「時々。絵というほどのものではありませんが」
「あとで見せていただけますか」
言ってから、仕事の用件ではないと気づいた。
フェルディナント様は、少し考えて頷いた。
「手元にある分でしたら」
昼に寄った宿の食堂で、彼は帳面を開いた。
橋と厩と、町の門が続いたあと、小さな川辺の絵があった。
手すりのない道の先に、低い屋根が並んでいる。
「ここは、どちらですか」
私が尋ねると、彼は地名を答えた。
買った案内書で、私が印をつけた場所だった。
「舟を渡す場所がありまして。待ち時間が長くて、描きました」
「そこへ、行ってみたかったの」
「水が増える季節を避ければ、道は悪くありません。急ぐ旅には向きませんが」
私は絵を見ていた。
その道のことを聞くのが、怖くなかった。
ディートリヒ様と行くつもりだったのだとは、言わなかった。
「急がないで、見てみたいわ」
「それでしたら、滞在するほうがよいと思います。日が落ちたあとは、道の見え方が変わりますから」
彼は次のページも開いた。
同じ屋根が、今度は遠くから描かれていた。
私は、見ているあいだだけ、あの約束を忘れていた。
*
十月、私は母と伯母に会いに行った。
伯母が来てくれるという申し出を断ったままだったし、母も久しぶりに姉妹で過ごしたいと言った。
私の母は、父が領地を離れられないときには、代わりに親族の用事を引き受けることが多い。
今回も最初はそのつもりだったようだが、途中から、私と出かける支度を楽しんでいた。
伯母の家へ着くと、彼女は私を強く抱きしめた。
私の顔を見て、大変だったでしょう、とだけ言った。
それで私は、少し泣いた。
夜、三人で暖炉のそばに座った。
母と伯母は、昔、旅先で道を間違えた話をした。
私は、二人がまだ若いころから、よく一緒に出かけていたのだと初めて知った。
「結婚したら、行きたい場所があったの」
私が言うと、二人がこちらを見た。
「今は?」
「……まだ、行ってみたいと思っているみたい」
母が笑った。
「では、行きましょう。私も、まだ見ていないところがあるわ」
私は驚いて母を見た。
彼女は、別に難しい提案ではないという顔でお茶を飲んでいた。
私は結婚相手を失ったのであって、旅へ行くための道まで失ったのではない。
そう思えるまでに、四か月かかった。
*
十一月、ディートリヒ様から面会を求める連絡が来た。
代理人を通して、父宛てだった。
私は一度だけ会うことにした。
子供に関する手続きや、ベアトリクス様との結婚について、私へ話を持ち込まないことを条件にした。
父のいる応接室で、彼は深く頭を下げた。
「すまなかった」
私は座ったまま、礼を返した。
彼は以前より、言葉を選んでいるようだった。
「自分が何を壊したのか、今はわかっている」
「何を、ですか」
尋ねると、彼は目を上げた。
「君との婚約だ。君を失ったことで、家も、父も、僕を信じなくなった」
「私との婚約がなくなったからではなく、あなたが嘘を重ねたからでしょう」
彼の顔がこわばった。
私は、言い直さなければよかったとは思わなかった。
「僕のほうから、家にも説明する。君が戻ってくれるなら、今度こそ」
「戻りません」
彼の言葉が止まった。
私は、膝に置いた手を動かさなかった。
「式を中止したあの一週間、あなたは私が何をしていたか、ご存じですか」
彼は黙った。
「出発前の親族へ通知を送り、契約先へ謝り、衣装を受け取る日を変えました。家に積んだ荷箱を開けて、嫁ぐ先へ送らないものを、一つずつ戻しました」
話しながら、あの箱の重さを思い出した。
泣きそうにはならなかった。
自分で全部持ち運んだわけではないが、何を戻すかは、私が決めた。
「あなたから聞いたのは、式をやめれば損になるというお話と、頭を冷やしてほしいという言葉です」
「その言い方は、間違っていた」
「言い方だけではありません。私の意思が変わるまで、あなたに待っていただく話でもありません」
彼は俯いた。
しばらくして、小さく言った。
「子供の父としての手続きも、生活の費用も、きちんとする。もう、逃げるつもりはない」
「その話を、私への条件にしないでください」
私は静かに言った。
「必要な責任を果たすことと、私が結婚を承知することは、別です」
彼の目が、父へ向いた。
父は首を振った。
「娘の返事は変わりません。今後、同じ目的の面会はお断りします」
彼は、それ以上は頼まなかった。
立ち上がり、もう一度頭を下げて部屋を出た。
私は扉が閉まるのを見てから、父を見た。
「もう、伝わったかしら」
「お前の答えは、十分伝わった」
私は頷いた。
今度の面会のために、前の夜を全部潰したことが悔しかった。
でも、明日の予定まで変える必要はなかった。
*
十二月、ノイマン男爵から父へ書状が来た。
ベアトリクス様は家族のいる領地へ戻り、出産に備えているという。
最初の謝罪から、侯爵家との話がどこまで進んだかを知らせるためのものだった。
父は、私が知っておくべき部分だけを読んだ。
両家で婚姻の約束は成立していないこと。
子供が生まれた後の認知と扶養については、婚姻とは別に、代理人を立てて取り決めていること。
「自分が妻になると、娘は親しい家へ話していたそうだ」
父が書面を伏せた。
「男爵は、その訂正にも回っているという」
私は、白い刺繍を見た彼女の目を思い出した。
私がいなくなれば、結婚の準備が自分に渡る。
その期待は、もう誰も支えていないのだろう。
彼女が家族のところへ帰ったことまで、不幸だとは思わなかった。
体を休める場所があるなら、そのほうがよい。
ただ、私から奪えば自分のものになると思っていた結婚は、手に入らなかった。
翌年の一月には、子供が生まれたと、父を通して知らされた。
ディートリヒ様が父として認知の届けを出し、養育に必要な費用の支払いを始めたという。
婚約していた私へ、後から扶養の相談や支払いの請求を持ち込まないことも、両家の代理人が確認した。
私は、それでよかったと答えた。
子供が生まれたことを、誰かの敗北として数える気にはなれなかった。
父として認知した人が養育に責任を負うのは、私に許可を求める話ではなかった。
父は書状をしまった。
私は、母と出かける春の旅の予定を開いた。
*
二月、フェルディナント様が、旅程の相談に来てくださった。
母と私が案内書を広げて待っていると、彼は今使える宿と、道の状況を書いた紙を出した。
「ここは、最近、橋の補修が終わりました。以前よりは通りやすくなっています」
「一日に、ここまで進めるかしら」
母が二つの町を指で結ぶ。
彼は少し考え、途中の町へ印をつけた。
「朝から出れば。ただ、途中をご覧になるなら、ここで一泊なさるほうが」
「そうね。急いで通り抜けるのは、もったいないわ」
私は、最初の案内書に引いた線の横へ、新しい宿の名を書いた。
ディートリヒ様と決めたつもりの旅程は、ただ長く移動する予定だった。
母は古い橋を見たいと言い、私は川辺の町に泊まりたいと言った。
そうして、違う旅ができていった。
打ち合わせのあと、私はフェルディナント様に礼を言った。
「前に見せていただいた絵の場所へ、行けそうです」
「よい季節になれば、川沿いを歩けます」
「次にお会いしたら、見たことをお話ししてもよいですか」
彼は少し驚いた顔をした。
それから、頷いた。
「ぜひ。私が見たときは雨上がりでしたから、晴れた日の様子を聞きたいです」
彼が帰ったあと、母が帳面を閉じた。
何か言われるかと思ったが、母は私の旅程へ指を置いただけだった。
「この日は、一緒に川沿いを歩きましょう」
私は頷いた。
誰かに話したい景色が、まだ見ていない先にあった。
*
三月、私たちは南へ出かけた。
母と、侍女と、護衛を伴った旅だった。
父は留守を引き受け、出発前に、急いで帰ってくることはないと言った。
川辺の町は、絵で見たとおりに、屋根が低く続いていた。
けれど、絵ではわからない音があった。
舟の縁を叩く水の音と、向こう岸から呼ぶ人の声。
母は橋の上で、思っていたより風が強いと笑った。
私は帽子を押さえながら、同じように笑った。
彼が隣にいないことを、何度も確かめるような旅になるかと思っていた。
実際には、母が見たいものと、私が寄りたい場所を話しているうちに、日が暮れた。
宿へ戻る前に、小さな店へ入った。
町の景色を刷った紙を売っていた。
色数は少なく、屋根の形も少し違ったが、舟を渡す場所がよくわかった。
私は二枚選んだ。
一枚は自分に。
もう一枚は、フェルディナント様に見せたかった。
夜、母が隣の部屋へ戻ってから、私は手紙を書いた。
川の水は絵より明るい色に見えたこと。
舟が着くと、岸にいた子供が手を振ったこと。
彼が描いた屋根は、今も同じ形だったこと。
書き終えると、封筒に絵を一枚入れた。
仕事の話は一行もなかった。
それを出すのに、少し勇気が要った。
返事は、次に泊まると伝えていた町の宿へ届いた。
手紙は短かった。
景色を教えてくれた礼と、自分が訪れたときも舟を待つ子供がいたという話。
最後に、帰られたら絵の話を直接うかがいたい、とあった。
私はその一文を、母に見られないように畳んだ。
母は見ようとはしなかった。
ただ、朝食を食べる私を見て、今日はよく眠れたようね、と言った。
*
帰宅後、フェルディナント様と会った。
屋敷の小さな居間で、母も一緒だった。
私は、持ち帰った絵を広げた。
彼は鞄から帳面を出し、雨上がりの川辺を開いてくれた。
机の上に、二つの景色が並んだ。
「この家の窓が、絵より増えていたの」
「改修したのかもしれません。以前は、こちらに梯子がありました」
「それは、もうなかったわ」
話しながら、私は彼の描いた線を指で追いかけた。
同じところへ、違う日に行った。
それだけなのに、話すことが尽きなかった。
母がお茶を替えてくると席を外したあと、私は彼に尋ねた。
「絵を差し上げても、ご迷惑ではなかったですか」
「迷惑?」
「お仕事でお世話になったお礼とは、少し違うものを送ってしまったから」
フェルディナント様は、私が選んだ紙を見た。
端を折らないよう、丁寧に持っている。
「私は、嬉しかったです。手紙を読んで、あの道を思い出しました」
私は頷いた。
胸の中の小さな緊張がほどけた。
「また、どこかへ出かけたら、書いても?」
「はい。私からも、差し上げてよろしければ」
私は思わず顔を上げた。
彼は少し照れたように笑った。
「細かな絵は、上手くないのですが」
「橋と門だけでも、構いません」
言うと、彼が声を立てて笑った。
初めて聞く笑い方だった。
私も笑った。
*
四月と五月に、彼から絵が届いた。
一枚は、うちの領地にも近い街道の門だった。
門の端に、寝ている犬が小さく描かれていた。
次に会ったとき、その犬のことを尋ねた。
彼は顔をしかめた。
「犬に見えましたか」
「ええ」
「馬のつもりでした」
私は一度、口を閉じた。
笑ってはいけないと思うほど、頬が緩んだ。
彼が先に笑ってくれたので、私もとうとう笑ってしまった。
「建物は、あんなにお上手なのに」
「動くものは、難しいのです」
私はその絵を捨てなかった。
ほかの二枚と一緒に、机の横へ置いた。
仕事の途中で目に入ると、宿場の門のことより先に、彼の笑い声を思い出した。
五月のある日、彼から、今度の休日に庭園を歩かないかと誘われた。
仕事の見学ではなく、と付け加えられたので、私は返事の前に少し笑ってしまった。
「ええ。お庭を見たいです」
「ありがとうございます」
正式な交際の申し込みではない。
それでも、母へ話すとき、自分の声が少し明るくなるのがわかった。
母は頷き、付き添いを誰に頼むか、いつもと同じように相談してくれた。
庭園では、珍しい草木より、道を歩くのが楽しかった。
彼はよく立ち止まり、私は隣で同じものを見た。
描きたいと思う景色があったらしい。
ただ、その日は帳面を出さなかった。
「お描きにならないの?」
「今日は、歩くつもりで来たので」
私を見る目が真面目で、私は返事に困った。
目を逸らすと、彼も少し慌てたように道の先を見た。
その不器用さが、あとで何度も胸に蘇った。
*
六月、婚約解消から一年が経った。
婚礼の準備に追われていた季節が巡り、私は去年の予定を思い出していた。
玄関の端に積んだ荷箱は、もうない。
白い刺繍は、別の箱で保管している。
川沿いの案内書には、母と泊まった宿の名が増えた。
その日、私はフェルディナント様と、屋敷の庭を歩いていた。
父が彼と仕事の話をしたあと、お茶まで少し時間があった。
窓からは、母と侍女の姿が見えた。
「昨年、宿のことでお力を貸していただいたのも、この月でしたね」
私が言うと、彼は頷いた。
「あの宿は、その後も、使わせてもらっています。出発前に御者をまとめて休ませられるので」
「こちらも、宿主から聞いています」
私は道の先で立ち止まった。
「私、あの部屋が空いたままだったら、ずっと思い出すたびに、つらかった気がするの」
彼は何も言わず、私を見た。
「損をしたことだけではなくて、あそこへ誰も来なかったことを。自分で選んだ場所だったから」
「……はい」
「使う方がいらして、よかった。あなたが、無理に喜ばせようとしなかったことも」
フェルディナント様は少し眉を寄せた。
「あのときは、仕事としてできることしか、思いつきませんでした」
「それが、ありがたかったのです」
彼が視線を下げた。
私は、自分がこれから言うことを、口の中でもう一度確かめた。
「今は、それだけではなくて。お会いするのが、楽しみです」
彼の顔が上がった。
私も目を逸らさなかった。
「もし、お心に決まった方がいらっしゃらないのでしたら」
言い終わる前に、彼が一度、大きく息を吸った。
その反応を見て、私は怖くなった。
「すみません。お困りでしたら」
「違います」
彼はすぐに首を振った。
「ほかに、心に決めた方はいません。私も、あなたにお伝えしたいと思っていました」
私は、息を吐くのを忘れていた。
「ヨゼフィーネ様。旅から帰るたび、あなたに絵を見せて、話を聞いてほしいと思っていました。お父上に、交際のお許しをいただきたいです」
私は頷いた。
一度では足りなくて、もう一度頷いた。
「私も、お話ししたいです」
彼がようやく笑った。
私も笑ったら、少しだけ涙が出た。
彼はそれを見て慌てたが、私は首を振った。
「嬉しいのです」
そう言うと、彼の手が私へ差し出された。
私はその手を取った。
窓の向こうで母が顔を逸らすのが見えて、私は笑いながら、泣いてしまった。
交際の申し入れは、その日のうちに父へ伝えた。
婚約解消から一年。
私は、別の人と一緒に、先の予定を考え始めた。
*
交際を始めてから、彼の絵が増えた。
会う日に持ってきてくれるものもあれば、短い手紙と一緒に届くものもある。
全部が景色の絵ではなかった。
宿の窓辺に置いた水差しや、荷馬車にくくりつけた籠もあった。
私は、その日に彼が何を見たかを知るのが好きになった。
自分からは、絵を描いて送れなかった。
一度だけ試したが、橋の端と川の岸が重なり、どこを渡ればよいのかわからなくなった。
仕方なく、言葉で説明することにした。
ある日、彼の絵の馬の足について、私が尋ねた。
これでは片方だけ短く見える、と。
彼はしばらく紙を眺め、どうもそうらしい、と認めた。
二人で笑ったあと、彼は紙を鞄へ戻そうとした。
「それも、いただけませんか」
「描き直してからでは?」
「このままが、好きなの」
彼は少し困って、それから私へ渡した。
私が気に入ったと言えば、それで受け取らせてくれることが嬉しかった。
十二月、彼から、見せたいものがあると誘われた。
侍女を伴って訪れたのは、王都にある子爵家の邸だった。
これまで玄関と応接室へは来たことがあったが、庭に面した小さな部屋へ通されたのは初めてだった。
窓辺に、私が旅先から送った絵が立ててあった。
川辺の、低い屋根の続く町。
端を傷めないよう、細い枠に入れられている。
「ここへ置いても、よいでしょうか」
彼が尋ねた。
「ええ。もちろん」
私は窓へ近づいた。
庭の木々は葉を落としていたが、部屋にはよく日が入った。
「この部屋で、手紙を書くことが多いのです。あなたから届いたものを読んだときも、ここにいました」
私は、あの宿で封筒を閉じた夜を思い出した。
仕事の話を一行も書かなかった手紙。
彼がこの机で読んでいたのだとわかると、少し恥ずかしかった。
フェルディナント様は、私の隣へ来た。
「同じ場所へ、いつか一緒に行きたいと思っています。その前にも、そのあとにも、この部屋で、あなたと話したい」
私は彼を見た。
彼は小さな箱を開いた。
「ヨゼフィーネ様。私と結婚してください」
私は一度、窓辺の絵を見た。
最初に彼が見せてくれた絵とは、違う一枚だった。
私が自分で行って、選び、送ったもの。
それが、彼の暮らす部屋にあった。
「はい。お願いします」
彼は、ようやく息を吐いたようだった。
差し出した私の手に、指輪を通す。
指が少し震えていた。
私の指も同じだったので、二人で小さく笑った。
「父に、お会いしていただけますか」
「はい。今度の訪問は、仕事の件と一緒にはしません」
私は笑って頷いた。
婚約解消から、一年半が経っていた。
*
新しい結婚式の日を、翌年の七月に決めた。
最初にその案が出たとき、母は私を見た。
去年まで、避けたいと思っていた季節ではないかと気遣ってくれたのだろう。
「私は、その日がよいです」
自分で日を選んだ。
母はそれ以上尋ねず、予定表へ印をつけた。
両家では、婚姻後の住まいと、私の仕事をどう続けるかを話し合った。
実家の交易路の実務と、子爵家の輸送の契約は、同じ家になっても混ぜない。
父の領地の仕事は、父から私へ任される範囲を確かめ、子爵家の代理として判断する仕事とは分ける。
当事者が重なる取引には、それぞれ別の代理人を立てることにした。
難しいところもあった。
私が王都を留守にする時期と、彼が領地を離れられない時期が重なれば、会えない日もある。
「それなら、帰る日が決まったら、先に知らせましょう」
「予定が変わったときも」
「はい。絵を描く暇がなくても、それだけは書きます」
彼が真面目に言うので、私は笑った。
毎日一緒にいられる約束だけが、結婚なのではない。
帰る場所と、知らせを待つ人を、同じように大事にしたかった。
衣装は、新しく仕立てた。
前のものを全部使わないようにするのでも、無理に使い直すのでもなく、今、着たい形を選んだ。
保管してあった白い刺繍は、その一部を使ってもらった。
仕立屋が、試着した私の裾を直す。
「こちらの花は、残しますか」
「ええ。その花は、好きなの」
鏡の中の私は、前より少し肩の力が抜けていた。
母が後ろから見て、よく似合うと笑ってくれた。
*
七月の朝、父は廊下で私を待っていた。
私を見ると、何か言いかけて、やめた。
代わりに、差し出していた腕を少し上げる。
「行けるか」
「ええ」
私はその腕を取った。
礼拝堂には、母と伯母、親族、親しい人たちがいた。
前の式を中止したとき、返事をくれた人もいる。
誰かが気の毒そうに私を見るのではないかと心配した日もあったが、その日は、誰の顔にも笑みがあった。
フェルディナント様が待っていた。
私が近づくと、視線が合った。
彼が少し笑い、私も笑った。
父の腕から手を離す。
自分で選んだ相手の隣へ、私は進んだ。
誓いを終え、庭へ出ると、夏の光が白い裾に差した。
披露の席を待つあいだ、私たちは花壇のそばを少し歩いた。
窓の向こうには、客を迎える人たちがいる。
遠い宿から来てくれた伯母が、母と楽しそうに話していた。
「急いで戻らなくて、大丈夫ですか」
フェルディナント様が尋ねた。
私は、彼の手を少し握った。
「少しだけ、ここにいたいです」
彼は頷いて、私の隣に立った。
私は庭を見渡した。
前の結婚式のために選んだ場所ではない。
それでも、ここにも、誰かが整えてくれた道と、朝から用意された椅子がある。
その一つずつが、今日を待っていてくれた。
私も、今日を待っていた。
「旅に出る日、晴れるとよいですね」
彼が言った。
私は笑った。
「雨でも、お描きになるのでしょう?」
「ええ。でも、あなたにも見ていただきたい景色があるので」
今度は、私も一緒に見る。
それから帰って、この日のことも、旅先のことも話す。
部屋を空けて嫁ぐ日を、一度は失った。
今日、私は、自分で荷物を選んでここへ来た。
花壇の向こうで、母が私たちを呼んだ。
私は手を振り返し、彼と一緒に歩き出した。
~完~




