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死に戻り悪役令嬢は転生聖女を絶対に許さない(修正予定)

作者: 東瓜
掲載日:2026/07/08

 ――ああ、この世界は、なんて不条理で狂っているのでしょう。


 王都の神殿前広場を埋め尽くす群衆の、耳を(ろう)するほどの怒号を浴びながら、私――リリィ・ブラックは冷たい石畳の上に(ひざまず)かされていた。


「ブラック公爵家令嬢リリィ・ブラック――聖女を害し、国を裏切った大逆罪の報いを受けよ。――よって処刑に処す!」


 神官が厳かに読み上げたその言葉に、広場は爆発的な歓声に包まれる。


「悪女め!」

「神聖なる聖女様を害するとは、魂を悪魔に売り渡した魔女め!」


 投げつけられる罵声と石礫(いしつぶて)。かつて公爵令嬢として、そして第一王子の婚約者として私を敬っていたはずの民衆の目は、今や濁った敵意に染まりきっていた。


「これ以上の詮議は不要。神の御前において、汝の罪はすでに明白である」


 神官は冷酷に、私を破滅へと追いやった「偽りの真実」を列挙していく。

「汝の寝所より押収された、毒の塗られた短剣」

(――私の部屋に、あらかじめ忍ばされていたもの)


「事件の夜、現場付近でその姿を目撃したという給仕の証言」

(――金で買収された、偽りの証言)


「そして、日頃から聖女様を妬んでいたという数々の不品行」

(――悪意によって歪められた、ただの噂)


 ――そして、何よりも決定的な「証拠」。


『……恐ろしゅうございました。リリィ様は、あの冷たい瞳で私を睨み、その刃を突き立てようとしたのです……』


 この国の守護者たる「聖女」本人の、涙ながらの証言。

 全部、仕組まれた罠だ。すべてはあの女が描いた筋書き通り。だが、あまりにも完璧に積み重ねられた偽りの城を、崩せる者など誰もいなかった。誰も、私の言葉に耳を貸そうとはしなかった。


「……リリィ」


 聞き慣れた声に、(すが)るような思いで顔を上げた。

 そこに立っていたのは、私の婚約者である第一王子、ヒース・フォン・バラキエルだった。彼は苦痛に顔を歪め、悲痛な面持ちで私を見下ろしている。


 一瞬だけ、胸の奥に淡い期待が宿る。彼だけは、幼い頃から共に過ごした私を信じてくれるのではないか、と。


「私は……婚約者として、君を信じたかった」


 ヒースは拳を固く握りしめ、そして、諦めたように視線を落とした。


「だが、これほどの証拠も、聖女様の証言も覆すことはできない。王族として、私情で法を曲げるわけにはいかないんだ。……リリィ・ブラック。君との婚約を破棄する」


 喉の奥が、ひび割れたように熱くなった。

 信じたかった、という言葉の残酷さに胸が抉られる。結局、あなたも私を見てはくれないのね。国の象徴たる聖女の言葉に、ただ盲従するだけ。私の視界から、すべての色彩が失われ、完全な絶望が塗り潰していく。


「リリィ様は無実です!!」


 その時、怒号を切り裂くように、張り詰めた叫びが響いた。

 見れば、数人の兵士に組み伏せられ、泥に塗れながらも必死にこちらへ手を伸ばす男がいた。我がブラック公爵家の執事、ローワンだ。常に冷静沈着で、私の手足となって動いてくれた、唯一無二の理解者。


「すべてはリリィ様を陥れる陰謀です! 騙されてはいけません、真の悪女は――」

「黙れ、大逆人の犬め!」


 兵士の無慈悲な蹴りがローワンの腹にめり込み、彼は吐血して地面に突っ伏した。

 神官が冷淡に、彼への刑罰を告げる。


「執事ローワン。聖女への虚偽中傷、並びに王命への反逆により身柄を拘束する。後日、厳格なる裁きを受けよ」


 ……ああ、そうか。

 理解してしまった。死ぬのは私だけではない。私を信じ、私のために動いてくれたローワンまでもが、あの女の手によって汚名を着せられ、殺されるのだ。


「ああ、なんていうことに……」


 群衆の同情を一身に集める、清らかな声が響いた。

 白の聖衣をまとい、可憐な容姿に涙を浮かべた少女――聖女ローズ。


「……私は、リリィ様を恨んでなどおりません。きっと、悪魔に心を惑わされてしまったのでしょう……。どうか、どうか罪深き彼女の魂に、主の慈悲深い救いがありますよう……」


 胸の前で手を組み、祈りを捧げるその姿に、民衆は再び涙を流して感動する。


「おお、神よ……! あのような悪女のために祈りを捧げられるなんて!」

「なんて慈悲深い聖女様だ!」


 誰もが彼女を聖き者として(あが)める中、私だけは、その仮面の裏を見ていた。

 祈りのために伏せられた長い睫毛(まつげ)の隙間から、ローズは私を見下ろしていた。

 その唇の両端が、ほんの一瞬だけ、愉悦(ゆえつ)に歪む。

 酷く醜悪な、勝利者の笑み。


(……悪役令嬢リリィ。お前の人生は完全終了)


 声は聞こえなかった。けれど、彼女の瞳がそう雄弁に語っていた。


 私は引きずられるようにして、冷たい断頭台へと連行される。

 頭上には、皮肉なほどに澄み渡った青空。


 群衆の容赦のない罵声が雨のように降り注ぐ中、ヒースは耐えかねたように目を逸らした。

 拘束されたローワンが、声を枯らして私の名を叫び続けている。


「リリィ様――! リリィ様ァーーっ!!」


 私の首が、冷たい台座へと固定された。

 ぎちぎちと、重い刃を吊り上げる鎖の音が響く。


 私は死ぬ。

 誰にも信じてもらえず、名誉も、未来も、大切な人も、すべてをあの女に奪われて、ここで惨めに首を落とされる。


 悔しい。

 憎い。

 許さない。


 もしも、もしも奇跡というものが存在するのなら。

 神ではなく、悪魔に魂を売ってでも、私は――。


(ローズ。あなたを、絶対に許さない)


 激しい金属音と共に、視界が急速に反転した。

 ごとり、と。

 自分の身体が遠ざかっていく感覚のあと、私の世界は完全な闇に包まれた。


 ◇


「――っ、は、あ……っ!」


 激しい呼吸と共に、弾かれたように跳ね起きた。

 肺に冷たい空気がなだれ込み、絶たれたはずの喉の奥が焼け付くように熱い。

 思わず、震える手で自分の首筋にしがみつく。

 冷たい刃が通り抜けたはずのそこには、傷一つなく、滑らかな肌の感触だけが残っていた。


「……、……ここは……?」


 見回した景色に、息が止まる。

 断頭台の冷酷な石畳でも、罵声を浴びせてくる群衆の姿でもない。

 陽光が柔らかく差し込む、広大で豪奢な寝室。淡いビロードのカーテン、見覚えのある黒檀の調度品。

 ――そんなはずはない。ここは、ブラック公爵家にある、私の部屋だ。

 

 震える足でベッドから這い出し、姿見の前へと進む。

 鏡の中にいたのは、白磁の肌に傷一つない、見紛うことなき私自身の姿。

 けれど、何かがおかしい。

 首を落とされたはずの私は十八歳。だが、鏡の向こうで怯えたようにこちらを見つめ返しているのは、それよりも頼りなく、幼い――十五歳の春の私だった。


「夢……? いいえ、そんなはずはないわ」


 首を落とされた瞬間の、あの骨が震えるような金属音。民衆の身の毛もよだつほどの罵声。そして何より、婚約者であったヒースのあの悲痛な声と、あの女――ローズの醜悪な勝ち誇った笑み。

 すべてが、今さっき起きたことのように鮮明に脳裏に焼き付いている。


 私は、死に戻ったのだ。あの忌まわしい処刑の、三年前の過去へと。


 じわじわと、胸の奥底から泥泥とした熱い感情がせり上がってくる。ローズへの底知れぬ憎悪と復讐心。


「神様、あるいは悪魔。私を戻したのが誰であれ……感謝するわ」


 鏡の中の私――リリィ・ブラックの瞳に、昏い炎が灯る。

 今度こそ、あんな惨めな結末は迎えない。私のすべてを奪い、ローワンまで巻き込んで処刑台へ送ったあの女を、今度は私が地獄へ叩き落としてあげる。自分の手で、絶対に。


 死に戻りから数日。私は誰にもこの秘密を明かさず、ただ一人の人間だけを私室へと呼び出した。

 ブラック公爵家の有能なる執事、ローワン。一度目の人生で、最後まで私の無実を信じて叫び続け、共に散っていった、私が世界で最も信頼する男。


「ローワン。誰にも知られず、秘密裏に動いてほしい案件があるの」

「何なりとお申し付けください、リリィお嬢様。私の全てを懸けてお応えいたします」


 まだ若さの残るローワンだが、その眼差しには一度目と変わらぬ絶対的な忠誠が宿っていた。その姿に胸が熱くなるのを抑え、私は淡々とした口調で命じる。


「貧民街を調べて。そこに、輝くような銀髪と蒼い瞳を持った、私と同じ年頃の少女がいるはずよ。――名前は、ローズ」


 この王国において、純粋な銀髪は極めて珍しい。いずれ聖女として神殿に担ぎ上げられ、私のすべてを奪う女。彼女が歴史の表舞台に現れる前に、その芽を摘む。


「その子を、何としても見つけ出してちょうだい」

「……承知いたしました。数日中に、必ず」


 ローワンは深く一礼し、影のように部屋を去っていった。


 それからわずか三日後の深夜。誰もが眠りについた静寂の中、ローワンは窓から私の寝室へと音もなく滑り込んできた。だが、その表情はいつになく険しく、衣服には微かに泥の匂いが染み付いていた。


「お嬢様、ご報告がございます。条件に一致する少女を発見いたしました。……ですが」

「……ですが?」

「少女は貧民街のゴミ捨て場に遺棄されておりました。全身に激しい暴行を受け、今夜を越せるかどうかも怪しい瀕死の状態です。あのままでは確実に命を落とすと判断し、私の独断で当家の別邸へと運び、医師の手配をいたしました。……無断での保護、何卒お許しください」


 ローワンは深く首を垂れ、静かに膝を突いた。

 瀕死? あの、後に国中を騙して聖女にのし上がるローズが?

 いや、まだこの時点ではただの貧民街の小娘だ。何か不測の事態でもあったのだろうか。


「……構わないわ、ローワン。適切な判断よ。その子のところへ案内して」


 私は夜着の上に厚手のマントを羽織り、ローワンの手引きで夜闇に紛れ、秘密裏に街外れの別邸へと馬車を走らせた。


 隔離された一室のベッドには、白いシーツに包まれた小さな身体が横たわっていた。

 包帯に覆われていない顔の部分を見て、私は息を呑む。


 間違いない。月光に照らされたその髪は、憎き銀色。そして、私を破滅へと追いやった、あのローズの顔そのものだった。


「……ローズ」


 名前を呟いた瞬間、私の手は自然と、マントの内に忍ばせた短剣の柄へと伸びていた。

 ようやく見つけた。私の人生を狂わせた元凶。まだ聖女の権力も、ヒースの寵愛も得ていない、ただの無力な子供。

 かつてあの女は、私が刃を突き立てようとしたと涙ながらに嘘を吐いた。なら、その悪夢を今ここで現実にしてあげましょう。

 今ここで、この刃を突き立てて肉を裂けば、私の復讐は一瞬で終わる。未来の惨劇はすべて回避される。


 殺す。今、ここで。


 私が静かに短剣を引き抜き、ベッドへ一歩近付いたその時、シーツの中の少女が微かに身じろぎし、その蒼い瞳を開いた。

 だが、その瞳には、私の知るローズの傲慢さや、底意地の悪い光など微塵もなかった。


「――っ! ひ、あ……っ!」


 少女は私の姿と、月光に鈍く光る刃を見るなり、喉を詰まらせて恐怖に顔を歪めた。

 激痛に顔をしかめながら、折れた腕を庇うようにしてベッドの隅へと身体を丸める。その姿は、まるで小さな動物がこれ以上の蹂躙を拒むかのように必死だった。


「ご、ごめんなさい……っ、ごめんなさい! おねがい、たたかないで、ごめんなさい……っ!!」


 ガタガタと全身を激しく震わせ、涙をボロボロと流しながら、少女はただひたすらに謝り続けた。逃げようとするわけでもなく、ただ暴力を防ぐように頭を抱え、怯え切って泣き叫んでいる。


 短剣を握る私の右手が、ピきりと止まった。


(……何、これ……?)


 違和感が、胸を刺す。

 私の知っているローズは、どんな時でも自信に満ち溢れ、可憐で、他者を惹きつける計算高さを持っていた。私に断罪を突きつけたあの処刑台の泥沼でさえ、民衆には聖女の涙を見せながら、私にだけは邪悪な勝利の笑みを浮かべてみせた。

 だが、目の前にいるこの少女はどうだ。まるで、日常的に凄惨な虐待を受け、尊厳を完全にへし折られた哀れな野良犬のようではないか。


 どうしてそんな風に、怯えて泣いているの?


 私を地獄へ叩き落とした、あの傲慢な牙はどこへ行ったの?

 ――本当に、この少女があの、私を殺した「ローズ」なの?


 激しい憎悪と、目の前の異常な光景に対する困惑が、頭の中で激しく衝突する。短剣を持つ手が微かに震えた。今ここで殺すのは容易い。けれど、もし何かが決定的に違っているのだとしたら?


 長い沈黙の末、私はゆっくりと息を吐き出し、短剣を鞘へと収めた。


「……この子は、今は殺さないわ」


 カチリ、と静かに響いた残響の中、背後に控えていたローワンが、押し殺していた息をそっと吐き出す気配がした。彼は私の葛藤も、殺意の理由も一切尋ねることなく、ただ深く一礼する。


「承知いたしました」


「治療を続けなさい。それと、この子はしばらく、この私の目の届く場所で預かります。ローワン、手配を」

「かしこまりました。お嬢様のご意思のままに」


 怯え、泣きじゃくる少女を冷たい目で見下ろしながら、私は胸の内で呟く。

 ――ローズ、あなたに何があったの?

 どちらにせよ、私はあなたを絶対に許さない。あなたが本性を隠しているのなら暴くだけ。


 ◇


 張り詰めた沈黙が流れていた。

 公爵家お抱えの医師が、ベッドで眠る少女の右腕に巻かれた汚れた包帯を、ハサミで慎重に切り進めていく。リリィはその様子を、腕を組んだまま冷徹な目で見つめていた。


「お嬢様、これは……っ!」


 不意に、処置を手伝っていた古参の侍女が、短い悲鳴のような声をあげた。

 医師の手が止まる。剥がされた包帯の先、少女の白く細い手の甲に、それは刻まれていた。


 傷だらけの肌の上で、淡い光を放つような、神聖なる十字の紋様――「聖痕」。


「お嬢様……これは、聖痕ではございませんか!?」

「……ッ」


 リリィは息を呑み、思わずベッドへ一歩踏み出した。


 顔はあの忌まわしいローズと瓜二つ。珍しい銀髪。年齢。そして、この手の甲に現れた聖痕。

 十五歳頃の少女にこれが現れるということは、世界の守護者たる聖女の証に他ならない。


(やはり……この子が、未来の聖女ローズだったのね)


 リリィの胸中で、すべてのピースが完全に噛み合った。一度目の人生で、あれほど国中から崇拝された聖女。その本物が、今はこうして私の目の前で、傷だらけになって横たわっている。


(……待って。殺すのは、得策ではないわ)


 リリィは再び短剣へ伸びかけていた手をそっと戻し、思考を巡らせた。

 一度目の人生で、私はこの聖女ローズと敵対し、すべてを奪われて処刑された。だが、今は違う。彼女が神殿に迎えられる前に、私がその命を救ったのだ。


(この凄惨な状況から救い出したのが私だと知れば、この子は私を盲信するはず。ブラック公爵家が聖女を保護したという実績を作れば、神殿も王家も我が家に対して強硬な態度は取れなくなる。ローズを私の絶対的な味方に――いいえ、忠実な『駒』に仕立て上げるのよ)


「ローワン」

「はっ」

「すぐに神殿へ連絡を入れなさい。『我が公爵家が、聖痕を持つ少女を保護した』と、内々に届け出の準備を」

「かしこまりました。ただちに書状を認めます」


 しかし――運命の歯車は、リリィの予測を遥か斜め上へと踏み外していく。


 数日後。王都の町中が、地鳴りのような騒がしさに包まれた。

 別邸の窓から外を窺えば、神殿の鐘が祝福の乱打を響かせる中、平民たちが歓声をあげて広場へと走っていくのが見える。


「聖女様が現れたぞ!」

「神殿が、新たな聖女候補を正式に認定されたんだ!」


 広場に張り出された触れ書きの写しを手に戻ってきたローワンの顔は、かつてないほどに青ざめていた。

 彼が差し出した羊皮紙の一行を見た瞬間、リリィの全身の血が凍りついた。


『神殿、新たな聖女候補を認定。その名は――ローズ』


「……どういう、こと?」


 リリィは呟き、ベッドでまだ怯えたように眠る少女を見た。

 聖女ローズは、ここにいる。私が保護している。

 なのに、なぜ神殿が「ローズ」という名の聖女を同時に認定しているのか。世界に聖女は一人のはず。理解不能な事態に、リリィの爪が手のひらに深く食い込んだ。


「お嬢様……神殿への届け出は、いかがいたしますか?」


 ローワンの問いに、リリィは即座に、鋭く首を振った。


「駄目よ、中止して。――絶対に、神殿へ漏らしてはならないわ」


リリィの声は冷たく、そして硬かった。


「既に神殿が『ローズ』を本物と認めて国中に布告した以上、後から出てきたこちらは『偽聖女を担ぎ上げて神殿を欺こうとした大逆の徒』として処理されるのがオチよ」


 一度目の人生で、自分を弁護する声が誰にも届かなかったあの断頭台の光景が脳裏をよぎる。神殿という巨大な権力が一度「正義」を決めてしまえば、個人の真実など簡単に圧殺されるのだ。最悪の場合、この少女ごとブラック公爵家が歴史から消される。


「……この子の存在は、当面の間、完全に秘匿します。ローワン、別邸の雇い人たちの口を塞ぎなさい。情報は、あなたと私だけで止めるのよ」

「御意。直ちに」



 それから数週間。

 少女は公爵家の手厚い治療を受け、少しずつ身体の傷を癒していった。

 だが、心の傷は深かった。重度の精神的ショックからか、自分の名前すら思い出せない状態が続いていた。それでも、毎日欠かさず見舞いに訪れ、果物を剥いてくれるリリィにだけは、少女は少しずつ、小動物のような信頼を寄せるようになっていった。


 そしてある、静かな午後のこと。

 窓辺の椅子に座った少女が、小さな、震える声でぽつりぽつりと話し始めた。


「私には……双子の、お姉ちゃんがいました……」

「双子?」


 果物を刻んでいたリリィの手が止まる。


「お姉ちゃん、ある日……すごく高い熱を出して倒れて……。そのあと、目が覚めたら、全然ちがう人になっちゃったの……。聞いたこともない国の言葉を喋って……私のことを『モブ』って……」

「モブ……?」


 少女は耳を塞ぎ、ガタガタと震えながら涙を溢れさせた。


「お姉ちゃん、変な言葉ばかり言うの……。『ここは乙女ゲームの世界だ』って……。『攻略対象』とか、『イベント』とか……。私を見て、ニタって笑って……それで、お姉ちゃんに、何度も、何度も叩かれて……」


 少女の告白を聞きながら、リリィの脳内に激震が走った。


 双子。

 高熱の後の、人格の変貌。

 そして、聞いたこともない奇妙な単語の数々。


(双子……? じゃあ、私が保護したこの子は……)


 目の前の少女が流す、血を吐くような涙。それが演技ではないことなど、リリィには痛いほど分かった。


 王立学園の入学式。厳かな空気のなか、神殿の最高幹部が壇上へ上がり、全校生徒に向けて声を張り上げた。

「今年度、我が国に新たなる救いの光がもたらされた! 神殿が認めた新たなる聖女候補――ローズ嬢である!」


 割れんばかりの拍手のなか、壇上に現れた少女を見た瞬間、私は息を呑んだ。


(……同じ、顔……)


 そこに立っていたのは、私の別邸で怯え、眠っている少女と寸分違わぬ容姿だった。

 光を浴びてきらめく銀髪。吸い込まれそうな蒼い瞳。

 だが、その瞳に宿る傲慢なまでの光だけは決定的に違っていた。壇上のローズは完璧な笑みを浮かべ、大衆の視線を浴びて陶酔するように胸を張っている。足音一つでガタガタと震え、心を壊された別邸の少女とは、中身が完全に「別物」だった。


 公の場で動くことはできない。私は胸に冷たい疑問の楔を打ち込まれたまま、その日を終えた。


 帰宅後、私はいつものように別邸の客室を訪れた。私の姿を見るなり、少女の表情が少しだけ和らぐ。数週間の看病を経て、彼女は私にだけは小さな信頼を寄せるようになっていた。


「ねえ……あなたの名前、思い出せそう?」

 枕元に腰掛け、優しく問いかける。少女は長い沈黙の末、小さな、今にも消えそうな声で呟いた。


「私……アマリリス、です……」


 初めて明かされた、本当の名前。

 私は一つの仮説にたどり着いた。神殿にいる「ローズ」は、本物の聖女候補である妹のアマリリスを暴行し、その存在を歴史から抹消して成り代わったのだと。まだ証拠はない。けれど、私が一度目の人生で戦い、敗れた相手は、想像を絶する怪物であることだけは理解できた。


 だからこそ、私は徹底しなければならない。


 学園生活が始まると、私は一度目の人生と全く同じ「高慢な公爵令嬢」を演じ続けた。

「ふん、貧民街上がりの聖女様が、随分と偉そうになさるのね」

 ローズと廊下ですれ違いざまに冷徹な嫌味を放ち、彼女の取り巻きの貴族たちと激しく対立してみせる。誰の目から見ても、私はただの嫉妬に狂った「悪役令嬢リリィ・ブラック」そのものだった。


 あの女にそう思い込ませるため。リリィは警戒に値しない無能な悪役だと油断させるため。

 そして夜、私は牙を研ぐ。


 別邸ではアマリリスへの極秘の貴族教育が始まっていた。

 ローワンと私が教師となり、礼儀作法、読み書き、歴史、神学の知識を叩き込む。かつて地獄を見たアマリリスは、必死にそれに食らいついた。しかし、どれだけ知識を身につけ、環境が変わろうとも、彼女の根底にあるものだけは変わらなかった。


 夏の暑い日のことだった。公爵家の老庭師が、作業中に熱中症で倒れた。

 周囲の使用人たちが慌てるなか、誰よりも早く駆け寄ったのは、身元を隠すために侍女の服を着ていたアマリリスだった。


「おじいさん、しっかりしてください……!」

 彼女は自身の服が泥にまみれるのも厭わず、必死に井戸から水を運び、濡らした布で彼の汗を拭い、医師が到着するまで懸命に声をかけ、介抱し続けた。包帯の隙間から淡い光を漏らしていたことに、彼女自身は気づいていなかった。その献身的な姿に、屋敷の使用人たちは自然と彼女に心を寄せるようになっていった。


 またある日、私はローワンを通じて、名を伏せたまま孤児院への支援と炊き出しを行った。アマリリスもそれに同行した。

 彼女は、かつて自分が置かれていた境遇を思い出すかのように、誰よりも子どもたちの目線に合わせて泥だらけになりながら笑いかけた。スープを配り、優しく話を聞く彼女の手を、子どもたちは別れ際に名残惜しそうに握りしめていた。

「また来てくれる?」という純粋な言葉に、アマリリスは「ええ、必ず」と聖母のような微笑みを返した。その場にいた職員たちも、彼女の無償の愛に深く胸を打たれていた。


 馬車の窓からその光景を見つめながら、私の胸に温かく、けれど強固な感情が湧き上がってきた。


(……聖痕があるから、聖女なのではないわ)


 神殿でふんぞり返り、人々の崇拝を貪っているあの偽物とは違う。

 目の前で傷つき、それでもなお他者を愛し、自然と人々を救い、寄り添うことができるこの在り方こそが――本来、この世界で「聖女」と呼ばれるべき姿なのだ。


 私は、ただ復讐のためだけに生きていこうと考えていた。あの女を殺し、全てを奪い返すためだけに。

 けれど、今は違う。


「ローワン」

「はっ、ここに」

「あの子の居場所を取り戻す。何があっても、絶対に」

 濁った復讐の炎のなかに、私を突き動かす本当の「大義」が宿った。



 王立学園での日々、聖女候補として崇められるローズの胸中は、かつてない焦燥感に焼かれていた。


(おかしい。何かが、私の知っているシナリオとズレてる……!)


 前世で人生のすべてを費やし、隅々までやり込んだ乙女ゲームの世界。イベントも台詞も完璧に暗記しているはずだった。しかし、目の前の現実は微妙に歪み始めている。

 本来なら、私の可憐さに激昂してヒステリックに暴れるはずの悪役令嬢リリィ。彼女は確かに嫌がらせをしてくるが、その言動のタイミングや質が、どこか噛み合わない。ゲームで発生するはずの恋愛イベントでも、ヒースが予定通りの台詞を言ってくれない。


「……どうして? このイベントなら、ヒース様が私を完璧に庇って、リリィを徹底的に蔑むはずなのに……っ」


 ゲームを遊び尽くした自分の知識が間違っているはずがない。

「――この世界、バグってるの?」

 ローズは次第に追い詰められ、恐ろしい考えを抱き始める。しかし、彼女の歪んだ転生者としての傲慢さは、「ゲームが間違っている」のではなく、「バグを起こしている世界の方がおかしい」のだという狂信へとすり替わっていった。


 一方、第一王子ヒースもまた、胸の奥の小さな違和感を拭えずにいた。

 神殿に迎えられたローズは、確かに民衆を魅了している。しかし、最も重要な、魔物を霧散させる浄化能力がいつまで経っても覚醒する気配を見せないのだ。

 不審に思ったヒースは、極秘裏に神殿へ確認を取った。しかし、神官から返ってきたのは冷ややかな回答だった。


「聖女の覚醒には個人差がございます。聖痕が存在する以上、何ら問題はございません。……それとも殿下は、神に選ばれし聖女様を疑っておられるのですか?」


 暗に不敬を咎められ、それ以上の追及は不可能だった。違和感はある。だが、神殿の権威と提出された聖痕の前には、王子といえど決定的な証拠なしに動くことはできない。ヒースは公にはローズの側に立ち、婚約者であるリリィを冷遇するしかなかった。嫌みたらしく付きまとうリリィの、どこか冷めた瞳を思い出しながら、ヒースは無力感に奥歯を噛み締めた。


 思い通りに動かない世界にしびれを切らしたローズは、凶行を決意する。


「シナリオが狂っているなら、私の手で『強制イベント』を起こせばいいのよ」


 ゲームに用意された、最大の没落ルート。悪役令嬢リリィが完全に破滅する断罪イベントを、自ら演出し、現実のものとする。それさえ起きれば、リリィは退場し、自分は名実ともに完全なヒロインになれるはずだ。


 ローズは神殿の一部神官を丸め込み、買収した公爵家の使用人を利用して、綿密な偽証工作を開始した。

 リリィの私物から盗み出した短剣に毒を塗る。

 事件の夜の偽の目撃証言を固める。

 聖女暗殺未遂という悲劇の舞台を作り上げ、神殿側がそれを全面的に補強する。


 一度目の人生でリリィを死へ追いやったあの完璧な罠が、再び、静かに張り巡らされていった。


 学園最大の舞踏会。

 きらびやかなシャンデリアの下、多くの貴族や王族、神殿関係者が集まる華やかな夜。その歓談を切り裂いたのは、鋭い悲鳴だった。


「――きゃああああっ!」


 会場の視線が一斉に一角へと集まる。そこには、胸元を押さえ、涙を流しながら床へと倒れ込むローズの姿があった。彼女は震える指先で、毅然と佇むリリィを指差す。


「リリィ様に……毒の刃で、殺されかけました……っ!」


 会場は一瞬で騒然となった。直後、待機していたかのように神殿の神官たちが割って入り、次々と「証拠」を突きつける。


「これが現場に落ちていた、ブラック公爵家令嬢の紋章が入った毒短剣です!」

「私は見ました! リリィ様がローズ様の後を追い、人気のないバルコニーへ向かわれるのを!」


 神殿側の強固な証言の補強。聖女候補の哀れな涙。あまりにも揃いすぎた証拠。

 神官は勝ち誇ったように、周囲の貴族たちを威圧しながら声を高らかに張り上げた。


「神に選ばれし聖女を害そうとした者は、教会法における大逆の徒! 第一王子殿下、この場で大罪人リリィ・ブラックを捕らえ、即刻断罪すべきです!」


 会場の空気は一瞬にして反転し、全ての貴族たちがリリィを「大罪人」の目で睨みつけた。ローズは床に伏したまま、前世と同じく、誰にも見えない邪悪な笑みを浮かべていた。


(さあ、これで終わりよ、悪役令嬢!)


 全ての視線が、中央に立つ第一王子ヒースへと集まる。

 ヒースは苦痛に顔を歪め、リリィを見つめていた。彼の胸には未だに違和感が燻っている。ローズの言葉を、提出された証拠を、完全には信じ切れていない。

 だが、ここは公の場だ。神殿が公式に提示した証拠と複数の証言、そして国の守護者たる聖女候補本人の告発を、王子という立場で無視することは、法と秩序の崩壊を意味する。


 ヒースは拳を血がにじむほどに握りしめ、最後に静かに問いかけた。


「……リリィ。お前がやったのか」


 リリィは動じなかった。取り乱すことも、怯えることもなく、ただ冷徹なまでに澄んだ瞳で、真っ直ぐにヒースの瞳を見返した。


「私は、やっていません」


 凛とした声が響き、短い沈黙が流れる。

 しかし――ヒースはゆっくりと、絶望に満ちた目を閉じた。

「……そうか。」


「……だが、証拠がある以上、王族として見過ごすことはできない。リリィ・ブラック。兵士よ、彼女を拘束せよ!」


 会場に歓声と、リリィへの罵声が沸き起こる。

 それは、一度目の人生でリリィが味わい、絶望した断罪劇と全く同じ光景だった。


 ローズの瞳に完全な勝利の光が宿る。

 だが、リリィの唇は、わずかに弧を描いていた。


「――お言葉ですが、殿下。私を拘束なさる前に、こちらをご覧ください」


 その凛とした一言に、会場のざわめきがピタリと止まる。リリィが合図の視線を送ると、舞踏会場の巨大な大扉が、重々しい音を立てて左右に開け放たれた。


 静まり返る群衆の間を割って進んできたのは、公爵家の執事ローワン。そして、彼に導かれて歩を進める、一人の少女だった。

 会場にいた全員が、我が目を疑うように息を呑む。


 月光を浴びたように輝く銀色の髪。吸い込まれそうな蒼い瞳。

 その顔は、今しがた床に倒れ込んでいた聖女候補「ローズ」と、寸分違わぬものだった。しかし、そこに立つ少女は、背筋を美しく伸ばし、徹底された貴族教育による堂々とした礼儀と気品を全身に纏っていた。


「な……なんだと!? 双子……!?」

「どういうことだ、聖女様が二人いるというのか!」


 騒然となる会場の中で、ただ一人、ローズだけが劇薬を飲まされたかのように顔色を失っていた。ガタガタと顎を震わせ、見開かれた瞳が恐怖に染まる。


「……なんで、生きてるの……? 」


「あの日、確かに息をしてなかったのに!私が、この手で確実に――っ」


 リリィはゆっくりと、哀れな獲物を追い詰めるように一歩前へ出た。


「皆様にご覧いただきたいものがあります」


 リリィの言葉に従い、ローワンが次々と決定的な証拠を運び込んできた。

 まず提示されたのは、公爵家お抱えの医師による詳細な診療記録。そこには、少女が保護された当時に刻まれていた、長期間に及ぶ凄惨な虐待と暴行の痕跡が克明に記されていた。


 続いて、ローワンが貧民街から連れてきた住民たちの証言が読み上げられる。

 そこに銀髪の双子の姉妹が暮らしていたこと。姉のローズがある高熱を境に、まるでまるで悪霊に憑りつかれたかのように不気味な人格へ変わってしまったこと。そして、それ以来、妹が日常的に凄まじい暴力を受けていたこと。


 極めつけに、ローワンが掲げたのは羊皮紙の鑑定書だった。

「――これは、神殿にある『聖女ローズ』の自室から採取された血痕と、彼女の衣服に付着していた乾燥血の、魔力波長鑑定書です。神聖なる魔術院の保証印もございます」

 厳重な神殿の警備を潜り抜け、そんな物証を揃えてみせたブラック公爵家の影の権力に、会場の貴族たちは恐怖で息を呑んだ。

 鑑定書が示す真実は一つ。神殿の聖女の部屋で流された血は、今しがた入場してきた本物の聖女のものである――すなわち、神殿の聖女は、妹を監禁・暴行し、その座を奪い取った大罪人であるという証明。


 会場の空気は、一瞬にして反転した。

 先ほどまでリリィに浴びせられていた疑惑と嫌悪の視線が、今度は一斉に、床にへたり込むローズへと突き刺さる。神殿の神官たちも、想定外の事態に顔を青ざめさせ、動揺を隠せない。


「違う……! 違う、違う、違う!!」


 完全に逃げ場をなくしたローズは、頭をむしり取るようにして絶叫した。清らかな聖女の仮面は完全に剥げ落ち、その顔は醜く歪んでいる。


「全部あの女の嘘よ! でっち上げよ! ゲームではこんな展開、絶対に起きない!!」


 その異常な単語に、周囲の貴族たちが眉をひそめる。

「げ、ゲーム……?」

「何を言っているんだ、彼女は?」


 周囲の不審の目を浴び、ローズの精神は完全に崩壊した。我を忘れ、前世の狂った記憶のままに喚き散らす。


「私は主人公なの! このゲームを百回もクリアしたのよ! 誰がどのタイミングでどう動くか、全部知ってるの! こんなのシナリオにない! バグよ! 全部、この世界がおかしいのよォオオオ!!」


 誰の目にも、それは神に仕える聖女候補などではなく、誇大妄想に取り憑かれた狂人の姿だった。


 極限まで追い詰められたローズの感情――絶望、執着、そして肥大化した狂気。その濁った負の感情に呼応するように、突如、彼女の身体から漆黒の瘴気が爆発的に噴き出した。

 かつて神聖な光を放つと謳われた彼女の手の甲の聖痕が、皮膚ごと腐り落ちるようにどす黒く変色し、そこからヘドロのような悪臭を放つ霧が溢れ出る。


「な、何だこれは……!?」

「ま、魔物の瘴気だ! 聖女候補の身体から、瘴気が出ているぞ!」


 会場を覆い尽くす禍々しい気配に、神官たちは腰を抜かし、貴族たちは悲鳴を上げて逃げ惑う。ローズ自身も、自分の身体から這い出てくる黒い霧に恐怖し、狂乱した。


「な、何これ……嘘でしょ!? 違う、私は聖女よ! こんなのゲームには――!」



 混沌とする会場の中心で、リリィは怯える銀髪の少女の肩へ、そっと優しく手を置いた。そして、諭すように語りかける。


「大丈夫よ、アマリリス。あなたならできます。あなたが守りたい人たちは、ここにいます」


 初めて公の場で自分の名を呼ばれた少女――アマリリスの脳裏に、この数ヶ月の記憶が鮮明に蘇る。

 熱中症で倒れた際、自分を必死に救ってくれたあの老庭師の泥まみれの手。

「また来てね」と笑顔で手を振ってくれた孤児たちの温もり。

 そして何より、闇の中にいた自分を救い出し、生きるための居場所と力を与えてくれた、目の前のリリィの気高い姿。


(守りたい。みんなを……私を救ってくれた、リリィ様を!)


 アマリリスは恐怖を打ち破り、胸の前で静かに手を組んだ。そして、心からの祈りを捧げる。


 その瞬間――。


 舞踏会場全体を、夜を昼に変えるほどの眩い黄金の光が包み込んだ。

 ローズから溢れ出ていた黒い瘴気は、悲鳴を上げるように一瞬で霧散し、禍々しい気配は跡形もなく消え去った。光が収まったあとには、ただ清浄で、息を呑むほどに神聖な空気が満ちていた。


「まさか……」


 一瞬の静寂。

 やがて、神殿の最高権力者である神殿長が、震える膝を突いて床に手をつき、深々と頭を垂れた。


「……間違いない。これこそが、悪しきを祓う神の奇跡。神に選ばれし、真の聖女様のお力です……!」


 その言葉を合図に、周囲の神官たち、そして貴族たちが次々と床に跪いていく。会場中の人々が、圧倒的な「本物の光」を示したアマリリスへと、至高の敬意を捧げた。


「違う、違う、違う……!!」


 地べたを這いずりながら、ローズはその光景を呆然と見つめていた。そして次の瞬間、髪を振り乱して、喉が千切れるほどの声で絶叫した。


「私がヒロインなの! 私は百回もクリアしたのよ! 主人公は私! モブのお前なんかが、聖女のはずがない! こんなのバグよ! シナリオにない! 認めない、認めない、認めないのよぉおおお!」


 完全に理性を失い、床を掻きむしりながら狂い叫ぶ彼女を、もはや聖女と思う者など誰一人としていなかった。


 第一王子ヒースは、その光景をただ呆然と立ち尽くしたまま見つめていた。

 自分が信じ、守ろうとした聖女は、妹の立場を奪って虐げた偽物の怪物だった。

 そして、自分が「悪女」と決めつけ、冷酷に断罪した婚約者リリィこそが、真実を見抜き、本物の聖女を命懸けで守り抜いた高潔な存在だった。


 すべてが、逆だったのだ。

「私は……なんてことを……」

 ヒースの顔から血の気が完全に引き、絶望に身体が震える。王子としてのプライドも、正義感も、すべてが足元から崩れ去っていく。


 やがて彼は、罪を贖うように、ゆっくりと自らの剣を抜いた。

 その青ざめた切っ先が、床に這いずるローズへと真っ直ぐに向けられる。


「……兵士」


 静まり返る会場に、ひび割れた王子の声だけが響く。


「ローズを……いや、その偽聖女を拘束せよ。神殿を汚し、公爵家を陥れようとした大罪人として、地下牢へ連れて行け。――そして、ブラック公爵家令嬢リリィ・ブラックに対する一切の嫌疑を、この場で完全に撤回する」


 即座に兵士たちが動き、狂乱し叫び続けるローズを取り押さえ、引きずっていく。


 遠ざかっていく哀れな偽物の叫び声を聞きながら、リリィは静かに目を閉じた。

 一度目の人生で味わったあの理不尽な死、ローワンの叫び、胸を焦がし続けた暗い憎悪。そのすべてが、今、真実の光によって綺麗に洗い流されていくのを感じていた。


 目を開けると、隣には、黄金の残光を纏った少女が立っている。アマリリスは、リリィを見つめ、守られた小鳥ではなく、一人の気高き聖女として、信頼に満ちた微笑みを浮かべていた。


「終わったのね、ローワン」

「はい、お嬢様。見事なる幕引きでございます」


 背後に控える忠実な執事の言葉に、リリィは満足げに微笑んだ。


 狂乱の舞踏会から数日、王都を揺るがした大騒動は、冷酷なまでに迅速な処理によって幕を閉じた。


 ローズは、前代未聞の国家反逆罪および聖女詐称、さらには本物の聖女に対する殺人未遂の罪で、言い逃れのできない極刑を言い渡された。彼女は地下の最深部にある牢獄へと連行されるその瞬間まで、「私は主人公なの」「こんなのバグよ」と虚空に向かって叫び続けていたという。この世界を、ただの都合のいいゲームだと妄信し続けた哀れな偽物は、自らが「悪役」として没落したことすら理解できぬまま、歴史の暗闇へと完全に消え去った。


 第一王子ヒースは、聖女の偽物を見抜けなかった盲目さ、そして何より、無実の婚約者リリィを衆目の前で断罪しようとしたことは、王家としても看過できるものではなかった。

 ヒース自身、リリィへの深い罪悪感と自身の愚かさに打ちのめされ、自ら王位継承権の返上を申し出た。


 ――もう、誰の筋書き通りにもさせない。

 一度目の人生の因縁は、これで完全に精算されたのだ。


 数年後――。


 王都の大聖堂は、柔らかな光と清らかな祈りの歌声に包まれていた。

 真の聖女として神殿に迎えられたアマリリスは、その類稀なる浄化の力と、かつて貧民街や公爵家で培った深い慈悲の心で、今や国中から絶大な敬愛を受ける存在となっていた。


 魔物の脅威を完全に退け、民に微笑みかける彼女の隣には、常に「聖女の絶対的な守護者」であり「公爵家当主代理」となったリリィの気高い姿があった。


「今日の式典も、見事な立ち振る舞いだったわ、アマリリス」


 参拝客が去り、静寂が戻った二人きりの聖堂の奥。

 リリィは学園生活でずっと演じ続けていた、あの刺々しく堅苦しい「悪役令嬢」としての口調を完全に崩し、柔らかく微笑んだ。


「リリィ様が、ずっと傍で支えてくださったおかげです」


 アマリリスは照れたように頬を緩めると、仕立ての良い聖衣の裾を揺らし、愛おしそうにリリィの肩へとそっと寄り添った。その蒼い瞳に宿る光は、かつてゴミ捨て場で震えていた少女のものとは違う。自分の意志で他者を愛し、守ることを決めた、本物の強さがあった。


 誰かが気まぐれに作り、あの哀れな偽物が狂信していたゲームシナリオは、もう跡形もなく崩壊している。


 ここにいるのは、舞台装置としての聖女でもなければ、破滅を待つだけの悪役令嬢でもない。

 互いを唯一無二のパートナーとして選び合い、自らの足で未来を切り開いた、二人の少女だ。


 白の聖衣と、黒のドレス。

 真の聖女と、かつて悪役令嬢と呼ばれた少女。

 処刑台で終わるはずだった運命は、もうどこにもない。

 二人はこれからも、自ら選び取った未来を歩み続ける。

 対照的な二人の影は、夕暮れ時の聖堂の床に美しく重なり合いながら、どこまでも続く本当の物語を紡いでいく。

cluster amaryllis

白い彼岸花――花言葉は、「想うはあなたひとり」と「また会う日を楽しみに」

黒百合――花言葉は「恋」「愛」「呪い」「復讐」

ヒース――花言葉は「孤独」「寂しさ」「博愛」「幸運」

ローワン――花言葉は「慎重」「賢明」「私はあなたを見守る」


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リリィ・ブラックは―聖女を害し、国を裏切った大逆罪という冤罪で処刑に処されるのに偽聖女を名乗り本物の聖女を殺害しようとし、前代未聞の国家反逆罪なのに地下最深部の牢獄・・・ この理不尽の差にこの国の闇を…
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