01.
重厚な扉を開けた瞬間、甘ったるい香水と微かな汗の匂いが鼻腔を突いた。
薄暗いアトリエの中央で、宮廷錬金術師である夫のミッフィオーレが、可憐な少女を強く抱きしめている。
「ミッフィオーレ様……」
リーゼロッテが、呆然とつぶやく。
彼女の名前はリーゼロッテ・ファート。現在、このミッフィオーレ・ファートの妻だ。
元々は伯爵令嬢だったが、代々宮廷錬金術師の家系であるファート家へと嫁いできたのだ。
夫が、自分を愛していないことは、前々から感じていた。
でもリーゼロッテは、彼を深く深く愛していた。
そんな夫が、他の女と浮気していたのである。
「どういう……ことですか、これは」
「見て分かるだろ。彼女は俺の愛しの女」
「ああ、ミッフィオーレ様ぁ……」
甘ったるい声で、夫の名前を呼ぶ。
その女の顔を、リーゼロッテは見たことがあった。
最近、宮廷入りした新人錬金術師だ。たしか、夫が教育係を務めていた気がする。
(うっ、頭が)
激しい怒りからか、あるいは裏切った愛への悲しみからか、リーゼロッテは激しい頭痛を覚えた。
一方、妻の心の痛みなどまるで意に介することなく、ミッフィオーレが続ける。
「お前のような地味で重い女、愛したことなど一度もない。俺の才能にふふさわしいのは彼女だけだ」
ミッフィオーレの腕の中にいる少女は、入り口に立つリーゼロッテを一瞥し、嘲るように唇を歪めた。
ごめんなさぁい、あなたってばただの当て馬なんですね、とでも言わんばかりの優越感に満ちた視線を送ってくる。
冷酷な言葉と態度に、妻であるリーゼロッテはその場にガックリと項垂れた。
これまで彼のために自分を殺し、毎晩徹夜で規格外のポーションを作り続けてきたのだ。
冷たい石の床の感触と、すり減った指先の痛みが、ただただ虚しい。
絶望で胸が張り裂けそうになった、その時だった。
ピシャーンと脳天に雷が落ちたような衝撃が走り、リーゼロッテの目が大きく見開かれる。
前世の記憶が、鮮やかな映像を伴って蘇ってきたのだ。
リーゼロッテはハッとのけぞる。
(そうだ、ここ。『天才錬金術師と運命のミューズ』の世界なんだ)
純粋無垢で可憐な貧乏令嬢ジータと、国に愛される若き天才錬金術師ミッフィオーレの恋愛を描く、人気恋愛漫画だ。
そして、自分がこの二人の恋を盛り上げるためだけの、惨めな当て馬妻リーゼロッテであるという事実に気づいてしまったのだ。
「どうしたのオバサン。あたしに愛しの夫を取られてショックでも受けてるの〜。受ける〜」
「……なんだ、私はただの当て馬だったのね」
ポツリとこぼした瞬間、心の底から泥のように湧き上がっていたミッフィオーレへの愛情が、スッと潮が引くように消え去っていく。
完全に憑き物が落ちたリーゼロッテは、パンッと両手を打って目を輝かせた。
「うん、もうどうでもいいわ」
にこっ、とリーゼロッテは可憐に笑顔を浮かべる。
「そういうことなら、お二人の邪魔はいたしませんわ」
「はっ」
「慰謝料も不要です。今すぐ出ていきますので、これにサインをお願いしますね」
リーゼロッテは執務机の引き出しからスッと離婚届を取り出す。
原作では、ここでミッフィオーレが離婚届を突き出すのだ。
激高した妻リーゼロッテがジータに殴りかかり、その事件がきっかけで離婚する、という流れである。
そのための離婚届だったのだ。
それを満面の笑みでミッフィオーレに突きつける。
「き、貴様、突然何をっ」
「その方が好きなのでしょう。なら私は身を引くとします」
さらさらと離婚届に名前を書いて、そして、彼に渡す。
「さ、あとは名前を書いてくださいませ。それとも、私にまだここに居て欲しいのです。私が居なくなったら、自分が天才ではないことがバレてしまうのが怖いのですか」
「なんだとっ」
(そう、漫画では描かれてなかったけど、実は天才錬金術師なのは、リーゼロッテのほうなのよね)
リーゼロッテの錬金術の才能は、文字通り規格外であった。
これまで彼女は、目立たない裏方としてずっと夫を支え続けてきたのだ。
彼が宮廷で発表した天才的な発明も、最高品質のポーションを作成する見事な腕前も、すべては妻であるリーゼロッテがいたからこそ成り立っていたのである。
しかし原作の漫画では、そのあたりの裏事情は見事にカットされていた。
離婚したあとのストーリーにおいても、リーゼロッテの仕事やその後の足取りについては、ほとんど描かれていない。
あくまで恋愛が主軸の漫画であるため、ヒロインの恋に直接関わらない部分が省略されてしまうのは、仕方がないことなのだろう。
「馬鹿にしやがってっ」
ミッフィオーレは顔を真っ赤にしてサインを書き殴った。
「これで満足か。さっさとでて行け。おまえのようなやつの顔は二度とみたくない」
「ありがとうございます。では……さようなら」
それを受け取ったリーゼロッテは、軽快な足取りで、あっさりと彼の部屋を後にする。




