第9話 「誇っていい背中」
その日は、保育園の行事だった。
年に一度の、保護者参加の日。
子どもたちの歌と、簡単な発表会。
真理子は、少しだけ迷ってから、クローゼットの前に立った。
派手な服は、持っていない。
新しい服も、買っていない。
それでも――
鏡の前に立つ自分は、以前ほど不安そうではなかった。
髪を整える。
指で、軽く流す。
それだけで、形になる。
「……行こう」
男の子は、いつもより少しだけそわそわしていた。
「ママ、ちゃんと来た?」
「来たよ」
「ほんと?」
何度も確認するその様子に、真理子は小さく笑った。
園に着くと、いつもより人が多い。
父親、母親、祖父母。
賑やかな声。
――浮かないかな。
一瞬、そんな考えがよぎる。
でも。
「あ、真理子さん」
声をかけられて、顔を上げた。
同じクラスの保護者だった。
「雰囲気、変わりましたよね」
にこやかに、自然に。まるで、前から知っていたかのように。
「……そうですか?」
「うん。なんか、安心感ある」
安心感。
思ってもみなかった言葉だった。
発表会が始まる。
子どもたちは、小さな声で歌い、ときどき振り付けを間違える。
その中で。
「……ママ!」
男の子が、舞台の上からこちらを見つけた。
一瞬、目が合う。
にぱっと、笑った。
胸が、ぎゅっとなる。
終わったあと、子どもたちは親の元へ駆けてくる。
「ママ、ちゃんと見てた?」
「見てたよ。すごかった」
頭を撫でると、誇らしげに胸を張る。
「このひと、ぼくのママ」
隣にいた別の保護者に、そう紹介された。
真理子は、思わず言葉を失った。
「あ、そうなんだ」
相手の女性が、にこっと笑う。
「素敵なお母さんですね」
その言葉は、評価でも、同情でもなかった。
ただの、事実みたいに言われた。
――私が?
帰り際。
担任の先生が、声をかけてくる。
「最近、お子さん、すごく落ち着いてるんです」
「……そうですか?」
「はい。お母さんが安定してるの、ちゃんと伝わってますよ」
その一言で、胸の奥に、じんわりと熱が広がった。
帰り道。
男の子は、手をぶんぶん振りながら歩いている。
「ママ、きょう、かっこよかった!」
「……え?」
「みんなに、ママって言った!」
真理子は、足を止めた。
夕暮れの中、小さな背中が振り返る。
「ぼくのママ、すき」
それは、何よりも大きな“成功”だった。
夜。
家で写真を整理しながら、真理子は思う。
私は、誰かと比べて勝ったわけじゃない。
でも。
ちゃんと、ここに立っている。
母として。
一人の人として。
鏡に映る自分は、もう、下を向いていなかった。




