第8話 「小さな『大丈夫』」
翌朝。
真理子は、いつもより十分早く目が覚めた。
枕元の時計を見て、まだ眠れると分かっていても、目は冴えていた。
洗面所の鏡の前に立つ。
――まだ、いる。
昨日と同じ髪。
まとまりのある、落ち着いた形。
指で軽く整えるだけで、それ以上、手を入れる必要がなかった。
「……行ける」
誰に言うでもなく、そう呟く。
テーブルの上には、昨夜途中まで書いた履歴書。
空欄だった志望動機に、ゆっくりとペンを走らせた。
長く働ける職場で、人と関わる仕事がしたい。
ありきたりな言葉。
でも、今の自分には、嘘じゃない。
保育園へ向かう道。
「ママ、きょう、かみ、いいね」
後ろから、男の子の声。
「ありがとう」
真理子は、少しだけ胸を張って歩いた。
保育園の前。
いつもは事務的な先生が、ふと視線を止めた。
「あ、真理子さん」
名前を呼ばれたことに、驚く。
「雰囲気、変わりましたね」
一瞬、言葉に詰まる。
「……そうですか?」
「はい。なんだか、元気そう」
それだけ。
それだけなのに。
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
――ちゃんと、見てもらえてる。
子どもを預け、真理子は、その足で面接へ向かった。
小さな会社。
事務と接客を兼ねる仕事。
正直、期待はしていなかった。
でも。
「……失礼ですが」
面接官の女性が、少し首を傾げる。
「人と話すお仕事は向いてないって……?」
真理子は、目を瞬かせた。
「……あまり、得意じゃなくて」
「そう?」
面接官は、微笑む。
「話し方、落ち着いてますよ」
それ以上、褒め言葉はなかった。
合否も、その場では分からない。
それでも。
帰り道の足取りは、行きより、少し軽かった。
夕方。
保育園に迎えに行くと、男の子が駆け寄ってくる。
「ママ!」
「どうだった?」
「せんせいがね」
小さな手が、真理子の髪に伸びる。
「ママ、きれいって」
思わず、笑ってしまった。
夜。
スマホが、震える。
知らない番号。
「……はい」
『本日、面接を担当しました者です』
真理子は、息を止めた。
『すぐに、というわけではないですが』
一拍。
『前向きに検討させてください』
電話を切ったあと、真理子は、しばらく動けなかった。
決まったわけじゃない。
約束でもない。
それでも。
――ゼロじゃない。
鏡の前で、髪を触る。
さらり、と指が通る。
『一ヶ月』
確かに、期限はある。
でも、この一歩は、もう消えない。
「……大丈夫」
今度は、自分に向かって言った。
その頃、美容室では。
店主が、静かに帳簿を閉じていた。
救われたのは、人生そのものじゃない。
“踏み出してもいい”と、自分に許せたこと。
それが、一番、大きな変化だった。




