第70話 「等価交換」
美容室の奥にある照明は、夜になると、少し色が変わる。
昼間よりも、柔らかく。
現実と、どこか違う色。
佐倉美桜は、その光の中に立っていた。
「……ここ、初めて入りました」
施術用の椅子ではなく、小さな丸椅子。
鏡はない。
代わりに、壁一面が、淡く反射する素材で覆われている。
「本当は、見せるつもりはなかったんです」
美容師は、静かに言った。
声は、疲れている。
けれど、逃げてはいない。
「でも……もう、気づいてしまいましたよね」
美桜は、小さく頷いた。
「私が変わった理由」
「ええ」
美容師は、息を整えるように、一拍置く。
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「この店は――“整える”場所です」
それは、当たり前の言葉。
でも。
ここで言われると、意味が違って聞こえる。
「髪だけじゃない」
「……分かってます」
美桜の声は、震えていなかった。
「私の“輪郭”ですよね」
美容師は、一瞬だけ、目を閉じた。
「望みが、はっきりしている人ほど、引き出せるものが多い」
「その代わりに?」
「……均衡が、必要になります」
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美容師は、古いノートを差し出した。
中には、短い言葉が並んでいる。
【自分で望んだ変化ほど、代償は重い】
【奪われるのは“時間”か“役割”】
【均衡は、必ず取られる】
「私の場合は、“時間”でした」
静かな告白。
「気づいたら、一日が短くなっていた」
「……老けた、とかじゃなくて?」
「ええ。生きている感覚が、薄くなる」
美桜の喉が、小さく鳴った。
「じゃあ……私は?」
美容師は、すぐに答えなかった。
代わりに、美桜の正面に立つ。
「佐倉さんは――“迷い”を、差し出しています」
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「迷い……?」
「本来なら、あなたはもっと、立ち止まる人だった」
美桜は、言葉を失う。
――その通りだ。
「不安になって、考えて、自分を疑って」
「……それが、普通だと思ってました」
「でも今は」
美容師は、美桜を真っ直ぐ見る。
「決断が、早すぎる」
胸が、痛んだ。
「それは、強さでもあります」
「でも同時に、“人間らしさ”でもある」
美桜は、拳を握った。
「じゃあ……私は、もう戻れないんですか」
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美容師は、首を横に振った。
「戻ることは、できます」
その言葉に、希望が灯る。
けれど。
「ただし」
次の言葉が、重い。
「均衡を、取り直す必要があります」
「どうやって?」
「――自分で、望むんです」
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「他人から、与えられる変化じゃなく」
「自分で、選び直す」
「迷うことを、恐れない」
美容師の声は、少しずつ、弱くなっていく。
「その間、私は……」
言葉が、続かない。
「あなたが、削られますか」
美桜は、はっきり言った。
美容師は、苦く笑った。
「それが、私の役目ですから」
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沈黙。
美桜は、ゆっくりと息を吸う。
「……私、すぐには答えを出せません」
「それでいいんです」
「でも」
美桜は、顔を上げる。
「これ以上、無自覚には、なりたくない」
美容師は、初めて、心から微笑んだ。
「それが、一番大事です」
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店を出る。
夜の空気は、澄んでいる。
世界は、何も変わっていない。
でも。
佐倉美桜は、知ってしまった。
幸福には、形があること。
奇跡には、重さがあること。
そして。
選ぶという行為こそが、人を“人”にすること。
――次は、私の番だ。
その覚悟だけを胸に、美桜は、夜道を歩いていった。
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第10カルテ編・完




