第7話 「ママは、ママのままで」
はさみの音が、一定のリズムで響いていた。
女性――真理子は、鏡を見ないまま、じっと前を向いている。
膝の上では、男の子が小さく足を揺らしていた。
「……ごめんね」
不意に、真理子が呟いた。
「待たせてばっかりで」
「ううん」
男の子は、首を横に振る。
「ママ、いいにおい」
シャンプーの匂いだろうか。
それとも、久しぶりに“自分のために座っている母”の匂いか。
店主は、そのやり取りを、鏡越しに静かに見ていた。
「真理子さん」
名を呼ばれ、真理子は少し肩を強ばらせる。
「今まで、誰のために頑張ってきましたか?」
即答だった。
「……この子です」
迷いはない。
「この子が、困らないように。恥ずかしい思いをしないように」
それから、小さく笑った。
「だから、自分のことは後回しでした」
店主は、うなずく。
「立派ですね」
でも、と続けた。
「それで、疲れませんでしたか?」
真理子の喉が、きゅっと鳴った。
「……疲れてました」
それを認めた瞬間、涙が、ぽろぽろと落ち始めた。
「ちゃんとしなきゃって。母親なんだからって」
髪が切られるたび、何かが削ぎ落とされていく。
「でも……」
真理子は、男の子を見る。
「この子の前で、ずっと下を向いてる母親でいいのか、分からなくなって」
男の子は、少し考えてから言った。
「ママ、いつもえらいよ」
その言葉は、どんな励ましよりも、真っ直ぐだった。
ドライヤーの音が止まる。
「……そろそろ、見てみましょうか」
店主が、鏡を正面に向ける。
真理子は、ゆっくりと目を上げた。
「……あ」
短く、整えられた髪。
重さを残しながらも、顔まわりは柔らかい。
派手ではない。
でも、疲れを隠すための髪型でもない。
「……私」
鏡の中の女性は、“母親”である前に、一人の人として立っていた。
「私、こんな顔、してたんだ」
店主は、静かに言う。
「ちゃんと、前を向く顔です」
男の子が、椅子から身を乗り出す。
「ママ!」
真理子が振り返ると、満面の笑顔が飛び込んできた。
「かわいい!」
その瞬間。
真理子は、声をあげて泣いた。
誰かに認められたくて泣いたのではない。
一番大切な存在に、今の自分を肯定されたからだ。
店を出た帰り道。
ガラスに映る二人の姿は、以前より、ほんの少しだけ胸を張っていた。
「ママ、どこ行くの?」
「……そうね」
真理子は、少し考えてから答える。
「帰ったら、履歴書、書こうかな」
「おしごと?」
「うん。もう一度」
男の子は、ぱっと笑った。
「がんばれー!」
夜。
鏡の前で、真理子は髪を整える。
手早く、迷いなく。
『一ヶ月』
それは、猶予であり、挑戦。
でも、もう分かっていた。
この髪がなくなっても、私は、前を向ける。
だって。
私は、ママである前に、私だから。
その頃、美容室では。
店主が、次の予約帳を閉じていた。
また一人、人生の歯車が噛み合い始めた。
それだけで、この仕事には、意味がある。




