第69話 「望みの正体」
その違和感は、朝の窓口で、突然やってきた。
「佐倉さん」
名前を呼ばれる。
以前なら、それだけで背筋が少し固くなった。
でも今は、違う。
「はい」
声が、自然に前へ出る。
その瞬間――
背後のガラスに映った自分の姿を、美桜は見てしまった。
――誰?
一瞬、本気でそう思った。
姿形は、自分だ。
でも。
立ち方が違う。
目線の高さが違う。
“場を支配する側”の空気を纏っている。
周囲の人間が、無意識に一歩、間合いを取っている。
――私、こんなふうだった?
胸が、静かにざわつく。
⸻
「説明が、分かりやすいですね」
対応を終えた後、年配の男性がそう言った。
「あなたが担当で助かりました」
まただ。
感謝の言葉。
以前なら、どこか現実味のないものだった。
でも今は。
相手の声色に、“信頼”が混じっているのが分かる。
――私が変わったから?
それとも。
⸻
昼休み。
窓際の席。
ガラスに映る自分を、改めて見る。
髪は、完璧に整っている。
でも、それだけじゃない。
表情が、迷っていない。
決断を、恐れていない顔。
――望んでた?
ふと、胸に問いが落ちる。
自信が欲しかった。
軽く扱われたくなかった。
ちゃんと、見てほしかった。
それは、確かに“望み”だった。
でも。
ここまで、だっただろうか。
⸻
その夜。
美桜は、美容室の前に立っていた。
今日は、予約はない。
それでも。
どうしても、確かめたいことがあった。
扉を開ける。
控えめな音。
「……いらっしゃいませ」
美容師の声が、少しだけ、遅れて届く。
カウンターの奥。
彼女は、以前よりも、明らかに疲れていた。
顔色が、悪い。
「今日は、予約じゃないんですけど」
「……大丈夫です」
そう言いながら、美容師は、ほんの一瞬だけ、視線を逸らした。
⸻
椅子に座る。
鏡の前。
沈黙が、いつもより重い。
「……私」
美桜は、意を決して口を開いた。
「変わりましたか?」
美容師の手が、一瞬、止まる。
ほんの一瞬。
でも、見逃せなかった。
「変わった、と思います」
慎重な答え。
「それは……良い変化、ですか」
問いは、自分に向いていた。
美容師は、鏡越しに美桜を見た。
その目に、迷いがある。
「……佐倉さんは、ちゃんと望みを持っていました」
選ぶ言葉が、遅い。
「だから、形になった」
「じゃあ……」
美桜の喉が、少しだけ詰まる。
「その代わりに、何か、失われてますか」
空気が、止まった。
⸻
美容師は、答えなかった。
代わりに。
そっと、自分の手を見せた。
指先。
かすかに、震えている。
「……すべての“整え”には、均衡があります」
低い声。
「それだけです」
それ以上、語らなかった。
⸻
帰り道。
夜風が、やけに冷たい。
美桜の胸に、答えは、もうあった。
――私の望みは、誰かから“持ってきた”ものだ。
それが、善意であっても。
奇跡であっても。
代償が、ないはずがない。
⸻
自室。
鏡の前に立つ。
美しい。
確かに。
でも。
その美しさの奥に、見えない“線”が走っている。
越えてしまった線。
戻れない線。
「……私、どうしたいんだろう」
初めて。
その問いが、はっきりと、自分に向いた。
望みは、叶った。
では、これからは?
その答えを、まだ、知らないまま。
美桜は、鏡の前で、静かに立ち尽くしていた。




