第68話 「与えられる側、奪われる側」
閉店後。
美容室には、機械の低い音だけが残っていた。
ドライヤーのコードを巻きながら、美容師は、小さく息を吐く。
――重い。
体ではない。
頭でもない。
もっと、奥のほう。
名前のつかない部分が、鈍く沈んでいる。
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今日、客は多くなかった。
それなのに。
妙に、疲れている。
理由は、分かっていた。
佐倉美桜。
今日も、彼女の輪郭は、はっきりしていた。
最初に来た時とは、別人のようだ。
背中。
視線。
声の通り方。
――整いすぎている。
本来、時間をかけて獲得するはずのもの。
それを、短期間で引き出してしまった。
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美容師は、手を止め、鏡を見る。
自分の顔。
目の下に、うっすらと影がある。
照明のせい、と言い聞かせる。
でも。
最近、増えている。
こういう“言い聞かせ”。
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思い出す。
最初の頃は、もっと軽かった。
ただ、髪を整えるだけ。
ほんの少し、“望み”に触れるだけ。
でも、客の数が増え、変化が大きくなるにつれて――
“引き出す量”が、増えていった。
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美容師は、カウンターの奥から、一冊のノートを取り出す。
古い、革張り。
中には、短い走り書きが並んでいる。
【望みが強いほど、反動も大きい】
【外見だけでは済まない】
【整える=削る】
自分の字だ。
いつ書いたか、正確には覚えていない。
でも、書いた時の感覚は、まだ残っている。
――忘れないで。
そう、自分に言い聞かせるための言葉。
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一方。
佐倉美桜は、家で、鏡を見ていた。
部屋の照明の下。
顔が、はっきり映る。
以前より、確実に整っている。
化粧をしていなくても、目元に力がある。
――綺麗だ。
自分で、そう思える。
それが、何よりも大きい。
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スマートフォンが震える。
新人からの、メッセージ。
【佐倉さん、今日もありがとうございました】
【本当に、憧れてます】
美桜は、画面を見つめる。
悪い気は、しない。
むしろ、誇らしい。
でも。
胸の奥に、小さなざらつきが残る。
――私は、誰の力で、ここに立っているんだろう。
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ベッドに横になる。
天井を見つめる。
最近、眠りが浅い。
夢を見る。
知らない誰かが、椅子に座っている夢。
鏡の前。
髪を整えられている。
その横で、誰かが、静かに削れていく。
目が覚める。
胸が、少しだけ苦しい。
――気のせいだ。
そう思う。
まだ、確証はない。
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翌朝。
美容師は、開店準備をしながら、一瞬だけ、よろめいた。
視界が、揺れる。
すぐに、元に戻る。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、呟く。
だが。
鏡に映った自分は、昨日より、ほんの少しだけ、薄く見えた。
――奪われている。
その自覚が、はっきりと、胸に落ちる。
それでも。
今日も、誰かが来る。
望みを、抱えて。
美容師は、ハサミを取った。
それが、自分の役割だと、知っているから。




