第66話 「教えるということ、削られるということ」
研修初日。
会議室の椅子は、いつもより少しだけ固く感じられた。
前列に並ぶのは、四月配属の新人職員たち。
まだスーツに着られているような、ぎこちない背中。
その前に立つ自分を、佐倉美桜は、少しだけ現実味のない気持ちで見ていた。
「……本日は、窓口業務の基本について説明します」
声が、震えない。
それに、自分で驚く。
原稿は、頭に入っている。
制度も、注意点も。
何百回も、“される側”で見てきたから。
――だからこそ。
“教える側”になることが、こんなにも、胸にくるとは思わなかった。
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「お客様は、不安を抱えて来られます」
美桜は、そう言った。
新人たちが、一斉にメモを取る。
「怒っているように見えても、大半は、制度が分からないだけです」
自分が、何度も浴びてきた言葉。
でも今は、守るための言葉として口にしている。
不思議な感覚だった。
――削られてきたものが、形を変えて、外に出ていく。
それは、痛みではなかった。
むしろ。
少しだけ、報われる感覚に近かった。
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研修が終わると、新人の一人が声をかけてきた。
「あの……佐倉さん」
「はい」
「さっきの話、すごく分かりやすかったです」
言葉は、素朴だった。
お世辞でも、評価でもない。
ただの感想。
それなのに。
胸の奥で、何かが、静かにほどけた。
「ありがとうございます」
美桜は、ちゃんと笑って答えていた。
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その日の帰り道。
足取りは、軽い。
疲れていないわけじゃない。
でも、“消耗した”感じがしなかった。
――削られるだけじゃ、なかった。
その事実が、じんわりと効いてくる。
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いつもの美容室。
今日は、予約が入っている。
理由が、ある来店。
それが、前よりも自然だった。
扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
美容師の声。
でも、今日は。
その声を聞いた瞬間、少しだけ、違和感を覚えた。
――疲れてる?
ほんの一瞬。
気のせいだと、すぐに思い直す程度のもの。
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椅子に座る。
「今日は、どうされますか」
「……整えるだけで」
もう、迷わない。
美容師は、いつも通り頷いた。
けれど。
指先の動きが、どこか、重い。
雑ではない。
丁寧だ。
それでも。
前よりも、時間がかかっている。
まるで、何かを“引き出す”ような――
そんな感覚。
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鏡の中。
美桜の顔は、また少し変わっていた。
目線が、上がっている。
口元に、余計な力が入っていない。
美人になった、というより。
“芯が浮き上がってきた”そんな印象だった。
「……変わりましたね」
今度は、美容師の方が言った。
「はい」
美桜は、即答した。
「少しだけ、前に出ました」
美容師は、一瞬、目を伏せた。
そして、小さく微笑んだ。
「それなら、今日は、これで十分です」
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仕上がり。
鏡の中の自分は――
誰かに守られている顔ではなかった。
誰かを守れるかもしれない顔だった。
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店を出る。
夜風が、心地いい。
振り返ると、美容室の灯りが、いつもより少し、弱く見えた。
――気のせいだろうか。
美桜は、そう思いながら歩き出す。
気づいていない。
“整えられた分”、どこから来ているのか。
まだ。




