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『髪を変えたら、人生が追いついてきた件。 〜どんな絶望も似合う髪にしてみせます〜』社会人編  作者: talina
カルテ⑩市役所職員

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第65話 「選ばれる側から、選ぶ側へ」

 研修の話は、その日一日、頭の隅に残り続けていた。


 帰宅しても、夕食を作っても、テレビをつけても。


 ふとした拍子に、思い出す。


 ――前に出てもいい。


 課長の言葉は、命令でも期待でもなかった。


 ただの事実確認のようで、だからこそ、逃げ場がなかった。



 翌日。


 美桜は、昼休みに資料室へ向かった。


 研修用のマニュアルを探すため――ではない。


 「研修」という文字を、もう一度、現実のものとして見るためだった。


 棚に並ぶファイルの背表紙。


 どれも、見慣れた文字だ。


 けれど。


 “教える側”として想像すると、少しだけ、景色が違って見えた。


 ――私に、できるんだろうか。


 問いは浮かぶ。


 でも、不思議と「無理だ」という結論にはならなかった。



 その日の帰り道。


 自然と、足が向かう。


 理由は、もう考えない。


 美容室の灯りは、今日も控えめに点いていた。


 扉を開ける。


 控えめな音。


「いらっしゃいませ」


 あの声。


 それだけで、心拍が一段、落ち着く。


「今日は……予約ではないんですけど」


「大丈夫ですよ」


 前と同じ言葉。


 でも、今日は少し違う。


「カットは、必要ないです」


 自分で言って、少し驚いた。


 美容師は、一瞬だけ考え、頷いた。


「じゃあ、整えるだけにしましょうか」


 否定しない。

 決めつけない。


 ただ、受け取る。


 椅子に座ると、ケープが軽くかけられる。


 鏡の中の自分は、以前よりも、はっきりして見えた。



 美容師の指が、髪に触れる。


 切らない。

 梳かすだけ。


 けれど、その動きは、明らかに“見る”ことから始まっていた。


 輪郭。

 流れ。

 首元。


 まるで、今の美桜に合う形を、探しているようだった。


「最近、少し変わりましたね」


 不意に言われる。


「……そうですか?」


「姿勢が」


 それだけ。


 でも、核心だった。


 美桜は、思わず小さく笑ってしまう。


「仕事で……少しだけ」


「そうなんですね」


 深くは聞かない。


 でも、分かっている気がした。



 鏡の中で、髪が整えられていく。


 不思議なことに、顔立ちまで、違って見えた。


 目元が、少しだけ強く。


 それは、化粧でも、髪型でもない。


 “選ぶ覚悟”が、外に滲み出ているようだった。


「完成です」


 ケープが外される。


 そこに映っていたのは――


 “市役所の窓口の人”ではなかった。


 誰かに呼ばれるのを待つ人でもない。


 選ぶ人の顔だった。



「……変えなくて、よかった」


 美桜は、前と同じ言葉を口にした。


 でも、意味は違う。


「ええ」


 美容師は、静かに頷く。


「今は、整えるだけで十分です」


 その言葉が、なぜか、未来を肯定してくれた気がした。



 店を出る。


 夜の空気は、澄んでいる。


 歩きながら、美桜は決めていた。


 研修の話を、受けよう。


 怖いからこそ。

 不安だからこそ。


 それは、誰かに選ばれたからではない。


 自分で、選んだからだ。


 美容室の灯りが、背後で小さく遠ざかる。


 でも。


 もう、依存する場所ではなかった。


 立ち戻れる場所がある、という確信だけが、静かに、背中を支えていた。

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