第63話 「崩れない朝」
朝の鏡の前で、佐倉美桜は、そっと前髪に触れた。
指に引っかかることのない、滑らかな感触。
――今日も、大丈夫。
それを確かめるように、小さく息を吐く。
もう何度目だろう。
この“確認”が、いつの間にか習慣になっていた。
以前なら、朝は戦いだった。
うねる髪。
広がるシルエット。
どれだけ整えても「きちんとして見えない」自分。
けれど今は違う。
完璧ではない。
それでも、崩れない。
「……行ける」
誰に聞かせるでもなく、美桜は呟いた。
⸻
市役所の窓口は、今日も忙しい。
「佐倉さん、これお願いできます?」
「はい、大丈夫です」
声が、前よりも自然に出る。
相手の目を見ることも、怖くない。
「説明、分かりやすかったです」
「助かりました」
そんな言葉を、当たり前のように受け取れる自分に、ふと気づく。
――前は、信じられなかった。
好意も、評価も、全部「見た目が変わったから」だと思っていた。
けれど。
「佐倉さんって、落ち着いてて安心しますよね」
隣の席の同僚が、何気なくそう言った瞬間、胸の奥が、すとんと静かになった。
“見た目”だけじゃない。
そう言われた気がして。
⸻
昼休み。
美桜は、久しぶりに美容室の前まで来ていた。
ガラス越しに見える、あの人。
ハサミを持つ横顔。
――行こうと思えば、行ける。
――また整えてもらえる。
でも、足は動かなかった。
怖かったのだ。
もし、もう頼らなくても平気だと、自分で認めてしまったら。
それは、「魔法がなくなる」ということだから。
けれど同時に、心のどこかで分かっていた。
この髪が崩れないのは、“あの人がいるから”だけじゃない。
毎朝、丁寧に向き合う自分がいる。
人と話すことを、避けなくなった自分がいる。
――私、もう。
ドアの前で、美桜は一度だけ深呼吸をして、踵を返した。
⸻
その背中を、美容師は何も言わずに見送っていた。
気づいていた。
今日は、彼女が「来ない日」だと。
「……それでいい」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
変えるための力は、留めるための鎖ではない。
歩き出した人間の背中を、追いかけないこともまた、役目なのだと。
美容師は、次の予約表に目を落とした。
新しい名前が、そこにあった。
また、誰かの朝が始まる。




