表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『髪を変えたら、人生が追いついてきた件。 〜どんな絶望も似合う髪にしてみせます〜』社会人編  作者: talina
カルテ⑩市役所職員

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

63/70

第63話 「崩れない朝」

 朝の鏡の前で、佐倉美桜は、そっと前髪に触れた。


 指に引っかかることのない、滑らかな感触。


 ――今日も、大丈夫。


 それを確かめるように、小さく息を吐く。


 もう何度目だろう。

 この“確認”が、いつの間にか習慣になっていた。


 以前なら、朝は戦いだった。

 うねる髪。

 広がるシルエット。

 どれだけ整えても「きちんとして見えない」自分。


 けれど今は違う。


 完璧ではない。

 それでも、崩れない。


「……行ける」


 誰に聞かせるでもなく、美桜は呟いた。



 市役所の窓口は、今日も忙しい。


「佐倉さん、これお願いできます?」

「はい、大丈夫です」


 声が、前よりも自然に出る。

 相手の目を見ることも、怖くない。


「説明、分かりやすかったです」

「助かりました」


 そんな言葉を、当たり前のように受け取れる自分に、ふと気づく。


 ――前は、信じられなかった。


 好意も、評価も、全部「見た目が変わったから」だと思っていた。


 けれど。


「佐倉さんって、落ち着いてて安心しますよね」


 隣の席の同僚が、何気なくそう言った瞬間、胸の奥が、すとんと静かになった。


 “見た目”だけじゃない。


 そう言われた気がして。



 昼休み。


 美桜は、久しぶりに美容室の前まで来ていた。


 ガラス越しに見える、あの人。

 ハサミを持つ横顔。


 ――行こうと思えば、行ける。

 ――また整えてもらえる。


 でも、足は動かなかった。


 怖かったのだ。


 もし、もう頼らなくても平気だと、自分で認めてしまったら。


 それは、「魔法がなくなる」ということだから。


 けれど同時に、心のどこかで分かっていた。


 この髪が崩れないのは、“あの人がいるから”だけじゃない。


 毎朝、丁寧に向き合う自分がいる。

 人と話すことを、避けなくなった自分がいる。


 ――私、もう。


 ドアの前で、美桜は一度だけ深呼吸をして、踵を返した。



 その背中を、美容師は何も言わずに見送っていた。


 気づいていた。

 今日は、彼女が「来ない日」だと。


「……それでいい」


 小さく、誰にも聞こえない声で呟く。


 変えるための力は、留めるための鎖ではない。


 歩き出した人間の背中を、追いかけないこともまた、役目なのだと。


 美容師は、次の予約表に目を落とした。


 新しい名前が、そこにあった。


 また、誰かの朝が始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ