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『髪を変えたら、人生が追いついてきた件。 〜どんな絶望も似合う髪にしてみせます〜』社会人編  作者: talina
カルテ⑩市役所職員

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第62話 代償の輪郭

 扉が閉まった後、店内は、しんと静まり返った。


 佐倉美桜の姿は、もうない。


 だが。


 彼女が残した空気だけが、まだ、そこにあった。


 美容師は、しばらく、動けずにいた。


 ――やりすぎた。


 胸の奥に、鈍い感覚が広がる。


 はっきりとした痛みではない。

 だが、確実に、何かが削れている。


 鏡の前に立つ。


 自分の顔を見る。


 変わってはいない。

 少なくとも、見た目は。


 それでも。


 目の奥が、少しだけ、疲れている。


 指先に、違和感があった。


 ハサミを持つ手が、微かに、震える。


「……大丈夫」


 小さく、声に出す。


 誰に言ったのか、分からない。


 自分か。

 それとも、店そのものか。


 椅子に座り、深く息を吸う。


 能力は、意識して使っているわけじゃない。


 ただ。


 “整えよう”とした時、相手の奥に、触れてしまう。


 それだけだ。


 でも。


 触れすぎると、戻ってくる。


 それが、分かっていた。


 過去にも、何度かあった。


 客が、劇的に変わった日。


 人生が、大きく動き出した日。


 その夜は、決まって、こうなる。


 体が、重い。


 気力が、削がれる。


 まるで、誰かの人生の“重さ”を、一時的に、引き受けたような。


 それでも。


 やめようとは、思わなかった。


 店の灯りを、ひとつずつ消す。


 最後に、鏡を見る。


 今日の客の残像が、一瞬、重なる。


 不安だった目。

 抑え込んだ感情。

 そして、解放された表情。


 ――あれで、良かった。


 そう、信じるしかない。


 鍵をかけ、夜の街へ出る。


 風が、冷たい。


 少し、ふらつく。


 だが、歩ける。


 歩けるうちは、続ける。


 一方。


 佐倉美桜は、駅へ向かう途中だった。


 ガラスに映る自分を、何度も、確認する。


 視線が合うたび、心臓が、跳ねる。


 知らない人みたいだ。


 でも。


 嫌じゃない。


 スマートフォンが鳴る。


 母からの、短いメッセージ。


『元気?』


 美桜は、少し考えてから、返信した。


『元気だよ』


 嘘ではない。


 初めて、そう言えた気がした。


 その頃。


 美容師は、自宅の玄関で、鍵を回していた。


 ドアを閉めた瞬間、力が抜ける。


 床に座り込み、しばらく、動けなかった。


「……またね」


 苦笑する。


 それでも。


 後悔は、なかった。


 誰かが、前を向けた。


 それだけで、十分だ。


 たとえ、自分が、少しずつ削れても。


 その夜、二人は、同じ月を見ていた。


 片方は、知らないまま。


 もう片方は、知った上で。


 それでも。


 物語は、まだ、続いていく。

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