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『髪を変えたら、人生が追いついてきた件。 〜どんな絶望も似合う髪にしてみせます〜』社会人編  作者: talina
カルテ⑩市役所職員

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第61話 触れた瞬間

 その日は、予約時間より少し早く、佐倉美桜は美容室の前に立っていた。


 理由はない。


 ――強いて言えば、落ち着かなかった。


 扉を開ける。


 控えめな音。


「いらっしゃいませ」


 あの声。


 それだけで、胸の奥が、すっと静まる。


 席に案内され、鏡の前に座る。


 今日の店内は、なぜか静かだった。


 他の客はいない。


 偶然だろうか。


「今日は、どうされますか」


 同じ質問。


 でも、美桜はすぐに答えられなかった。


「……分からなくて」


 正直に、そう言った。


 美容師は、少しだけ、手を止める。


「分からない、で大丈夫ですよ」


 その言葉が、妙に深く、胸に落ちた。


 クロスをかけられる。


 首元に、布が触れる。


 その瞬間。


 ――空気が、変わった。


 音が、遠くなる。


 店内が、薄い膜に包まれたような感覚。


 美桜は、息を飲んだ。


「……?」


 鏡の中の自分。


 輪郭が、わずかに、際立って見える。


 錯覚?


 そう思う間もなく、美容師の指が、髪に触れた。


 その瞬間――


 胸の奥で、何かが、ほどけた。


 理由のない緊張。

 抑え込んできた感情。

 「こうあるべき」という鎧。


 それらが、音もなく、崩れていく。


 涙は、出なかった。


 でも、呼吸が、深くなる。


「……あ」


 思わず、声が漏れる。


 美容師は、何も言わない。


 ただ、ハサミを入れる。


 切っているはずなのに、引っ張られる感覚はない。


 むしろ。


 “戻されている”。


 そんな感覚。


 鏡の中で、美桜の印象が、少しずつ、変わっていく。


 派手ではない。


 だが、目が、はっきりする。


 口元が、自然に上がる。


 首から肩にかけての線が、なぜか、柔らかく見える。


 ――別人?


 いや。


 “本来の自分”という言葉が、浮かんだ。


 美容師の手が、一瞬、止まる。


 眉が、ほんのわずかに、動いた。


 ――しまった。


 そんな気配。


 だが、すぐに、何事もなかったように動き出す。


 施術が終わる。


 鏡の中の美桜を見て、言葉を失った。


 美人。


 はっきりと、そう思った。


 作られた美しさじゃない。


 整いすぎてもいない。


 でも。


 目が離せない。


 自分で、自分を、直視できる。


「……これ、私ですか」


 思わず、そう聞いた。


 美容師は、少しだけ、視線を逸らす。


「はい」


 短い答え。


「……すごいですね」


 美桜の声は、震えていた。


「何が、すごいんですか」


 問い返される。


 美桜は、言葉を探した。


「……安心、するんです」


 美容師は、それ以上、聞かなかった。


 会計を済ませ、立ち上がる。


 足が、軽い。


 扉を開ける前、美桜は振り返った。


「……ありがとうございます」


 それは、髪に対してじゃない。


 人生に対してでもない。


 ただ。


 今日の自分に対して、言えた言葉だった。


 外に出る。


 夕方の街。


 すれ違う人が、一瞬、視線を向ける。


 今までとは、明らかに違う。


 でも。


 怖くない。


 美桜は、歩き出した。


 もう、引き返せない。


 けれど。


 進める。


 そう、確信していた。

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