第6話 「次の扉を叩く人」
その美容室は、いつも同じ場所にあった。
派手な広告も、SNSの更新もない。
それなのに、必要な人だけが、迷わず辿り着く。
その日も、午後の静かな時間帯だった。
カラン、と鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
店主は、いつも通りの声でそう言った。
扉の前に立っていたのは、三十代半ばくらいの女性だった。
少し色あせたコート。
伏し目がちで、背中がわずかに丸い。
そして――
手を繋いでいる、小さな男の子。
「……あの」
女性は、言葉を探すように口を開く。
「予約、してなくて……」
「大丈夫ですよ」
店主は、視線を子どもに向けて、柔らかく笑った。
「お母さんと、一緒でいい?」
男の子は、こくりと頷いた。
椅子に座ると、女性は深く息を吐いた。
「……私、別に」
言いかけて、止まる。
「別に、綺麗になりたいとかじゃなくて」
その言葉に、店主は何も言わない。
急かさず、ただ待つ。
「……ただ」
女性は、ぎゅっと膝の上で手を握った。
「ちゃんとした母親に、見えたくて」
空気が、少しだけ重くなる。
「仕事も、うまくいかなくて。保育園の送り迎えで、毎日いっぱいいっぱいで」
鏡に映る自分を、女性は見ない。
「髪の毛なんて、どうでもいいって思ってました」
でも、と小さく続ける。
「……写真を撮るたび、この子の隣に立つ自分が、みすぼらしく見えて」
隣で聞いていた男の子が、不安そうに母親を見上げた。
「ママ、かわいいよ?」
その一言で、女性の目から、ぽろっと涙が落ちた。
店主は、静かに立ち上がる。
「どうなりたいか、決まってなくていいです」
そう言って、女性の髪に触れた。
乾いて、少し絡まりやすい髪。
「ただ――」
指先が、優しく動く。
「“ちゃんとした母親”じゃなくて」
店主は、鏡越しに女性を見る。
「あなた自身として、立っていたい。それで十分です」
女性は、驚いたように目を見開いた。
はさみが、静かに鳴る。
床に落ちる髪。
その音を聞きながら、女性は、少しずつ呼吸を整えていった。
『一ヶ月』
それは、魔法の期間。
でも同時に、踏み出すための猶予。
施術が始まったばかりの店内で、男の子は、椅子に座ったまま、小さく言った。
「ママ、笑って」
女性は、まだ鏡を見ない。
けれど、その口元は、確かに緩んでいた。
人生は、一度に変わらなくていい。
こうして、また一人。
次の物語が、静かに動き出していた。




