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『髪を変えたら、人生が追いついてきた件。 〜どんな絶望も似合う髪にしてみせます〜』社会人編  作者: talina
カルテ⑩市役所職員

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第57話 「名前で呼ばれる日」

 翌朝。


 市役所の廊下は、いつもと同じ匂いがした。


 コピー用紙。

 インク。

 少し古い建物の空気。


 でも、佐倉美桜の中は、昨日とは違っていた。


「おはようございます」


 自分から、少しだけ声を出す。


「おはよう」


「おはようございます」


 返事が、思ったより多い。


 席に着く前、係長が声をかけてきた。


「佐倉さん」


 ――名前。


 番号でも、役割でもない。


「昨日の提案、今日、簡単に共有してもいい?」


「……はい」


「助かる」


 その一言で、胸の奥が、静かに温かくなった。


 午前のミーティング。


 簡易案内の紙が、机に回される。


「待っている間に、“次にやること”が分かるのは、いいですね」


「質問も減りそう」


 同僚たちの声が、重なる。


 美桜は、前に立たない。


 説明も、最低限。


 でも、誰も遮らなかった。


 ――聞かれている。


 そう、はっきり分かった。


 午前の窓口。


 案内用紙を持った来庁者が、少し落ち着いた様子で並んでいる。


「これ、分かりやすいですね」


 若い女性が、そう言った。


「ありがとうございます」


 反射的に答えてから、美桜は、少し驚く。


 ――今、ありがとうって言われた。


 自分に。


 午後。


 別の職員が、声をかけてくる。


「佐倉さん、このケース、どう思います?」


 相談。


 依頼。


 頼られている。


 美桜は、一度、書類を見てから答えた。


「ここ、順番を変えると、伝わりやすいと思います」


「なるほど」


 相手は、素直に頷いた。


 ――否定されない。


 ――奪われない。


 仕事が、ちゃんと、自分の手の中にある。


 定時前。


 係長が、ぽつりと言った。


「佐倉さん、無理しなくていいからね」


「……はい」


 でも、その言葉は、“抑えるため”ではなかった。


 守るための、距離だった。


 帰り道。


 自然と、足が、あの美容室の前で止まる。


 今日は、入る。


 理由は、はっきりしていた。


 扉を開ける。


 控えめな音。


「いらっしゃいませ」


 あの声。


 鏡の前に座る。


 美容師は、少しだけ、美桜の表情を見てから言った。


「今日は、少し違いますね」


「……分かりますか」


「ええ」


 ハサミを持たずに、そう答える。


「背中が、前より、ちゃんと立ってます」


 美桜は、一瞬、言葉を失った。


「……名前で、呼ばれました」


 ぽつりと、それだけ言う。


 美容師は、何も言わない。


 ただ、静かに、頷いた。


「今日は、どうしますか」


「……少しだけ、変えてください」


 初めて、そう言った。


 美容師の目が、わずかに、細くなる。


「分かりました」


 ハサミが、動き出す。


 大きな変化じゃない。


 でも、輪郭が、少しだけ、はっきりする。


 施術後。


 鏡に映る自分は、確かに、昨日までと違った。


 別人ではない。


 でも。


 名前を持った顔をしていた。


 店を出る。


 夜の風が、頬に触れる。


 美桜は、小さく笑った。


 ――私は、ここにいる。


 誰かの代わりじゃない。


 佐倉美桜として。

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