第55話 「選ばれる、ではなく」
その変化は、静かすぎるほど、自然に始まった。
「佐倉さん、今週の土曜、空いてますか?」
声をかけてきたのは、総務課の男性職員だった。
三十代前半。
背は高くないが、清潔感がある。
これまでは、挨拶程度の関係。
美桜は、一瞬だけ、間を置いた。
「……どういうご用件ですか?」
言葉は、柔らかい。
でも、逃げ道を作らない聞き方。
「あ、いえ……もし良ければ、お茶でもと」
周囲の空気が、微妙に張りつめる。
数人の女性職員が、視線を投げてくるのが、分かった。
美桜は、曖昧に笑わなかった。
「ありがとうございます」
きちんと、一度受け止める。
「でも、今回は遠慮します」
はっきり、断る。
「……そうですか」
彼は、少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「失礼しました」
その態度に、美桜は、小さく頭を下げた。
それで終わり。
引き留めない。
言い訳しない。
そのやり取りを、周囲は、息を詰めて見ていた。
――断られたのに、空気が、悪くならない。
むしろ、少し整った。
昼休み。
女性職員の一人が、恐る恐る声をかけてくる。
「佐倉さん……さっきの、すごかったですね」
「……そうですか?」
「なんていうか……大人、って感じで」
美桜は、少しだけ考えてから答えた。
「選ばれるのは、嬉しいです」
「でも」
箸を置く。
「選ばれ続けると、自分が分からなくなる」
その言葉に、相手は、はっとした顔をした。
「……なるほど」
午後。
窓口は、相変わらず混んでいた。
でも、美桜は焦らない。
一人ひとりと、ちゃんと向き合う。
冗談を言うわけでもない。
媚びるわけでもない。
ただ、相手の言葉を、最初から信じている。それだけ。
「……あの」
年配の男性が、書類を持ちながら言った。
「あなた、なんだか……話しやすいね」
「ありがとうございます」
「いい意味で、公務員らしくないよね」
その一言に、美桜の胸が、少しだけ温かくなる。
帰り道。
夕焼けが、街を染めていた。
ガラスに映る自分を、見つめる。
髪は、今日も完璧だった。
指を通すと、さらりと揺れる。
でも。
大切なのは、そこじゃない。
自分が、自分を選べていること。
それに気づいた瞬間、胸の奥が、静かに満たされた。
美桜は、まだ知らない。
この「選ぶ感覚」が、これから先、彼女の人生を大きく変えていくことを。
そして。
あの美容室で、もう一人、静かに彼女を見ている存在がいることを――。




