第53話 「本来の姿」
美容室の扉を開けた瞬間、空気が、外とは違うことを、佐倉美桜ははっきりと感じた。
音が、少し遠い。
時間が、わずかに緩んでいる。
「いらっしゃいませ」
いつもの声。
なのに、今日は少しだけ、低く、深く響いた。
「……お願いします」
それだけで、言葉は足りた。
席に座る。
鏡の前。
ライトが点く。
美桜の顔が、くっきりと浮かび上がる。
――整っている。
でも、まだ“完全”ではない。
美容師は、いつもより長く、髪に触れた。
指先が、迷うことなく、一本一本を確認する。
「今日は、少しだけ……深く整えますね」
確認ではない。
提案でもない。
宣言だった。
ハサミが入る。
音が、澄んでいる。
切られているはずなのに、何かを足されている感覚。
――温かい。
胸の奥が、ゆっくりと、ほどけていく。
シャンプー台。
お湯が、頭皮を包む。
その瞬間、視界が、一瞬だけ、白くなった。
記憶でも、夢でもない。
「本当は、こう在りたかった」という感覚。
戻る。
席に。
ドライヤーの風が、髪を立ち上げる。
今まで、隠していた部分が、自然に現れてくる。
顔の輪郭。
首のライン。
目元の影。
美容師は、一切、派手なことをしない。
ただ、“あるべき場所”に戻していく。
「……目、閉じてもらえますか」
言われるまま、閉じる。
最後の仕上げ。
何かが、静かに、“カチリ”と噛み合う音が、確かに、聞こえた気がした。
「……どうぞ」
目を開ける。
そこにいたのは――
「……」
言葉が、出なかった。
自分だ。
間違いなく、佐倉美桜。
でも。
“今まで誰にも見せてこなかった私”が、正面からこちらを見ている。
肌が、明るい。
目が、強い。
笑っていないのに、惹きつける。
美人、という言葉では、足りない。
存在感。
「……私、こんな……」
美容師は、淡々と言った。
「元から、こうでした」
それだけ。
盛られていない。
作られていない。
戻っただけ。
立ち上がる。
身体が、軽い。
鏡越しではなく、空間に立っている感覚。
会計を済ませ、外に出る。
夕方の街。
視線が、一斉に集まる。
露骨なほど。
すれ違う人が、振り返る。
女性が、無意識に姿勢を正す。
男性が、息を飲む。
――別人だ。
そう思われている。
でも、違う。
本来の私だ。
胸が、高鳴る。
怖さは、ない。
ただ、静かな確信。
明日、市役所に行く。
何かが、決定的に変わる。
それが、分かっていた。
夜、家に帰り、鏡の前に立つ。
何度見ても、慣れない。
でも、否定できない。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、呟く。
世界は、優しくない。
でも。
この姿なら、ちゃんと、立っていられる。
佐倉美桜は、静かに、微笑んだ。
それは、今までで一番、自然な笑顔だった。




