第51話 「視線の温度」
朝の改札を抜けるとき、佐倉美桜は、明確に気づいた。
――見られている。
ただ、視線が当たるのではない。
留まっている。
通り過ぎるはずの人が、一瞬、振り返る。
それが、一人ではない。
胸が、きゅっと縮む。
嫌な感じではない。
でも、慣れていない。
市役所に着く。
ロビーを歩くだけで、何人かの職員が、一拍遅れて挨拶をする。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
今までより、少し丁寧。
窓口に立つ。
開始早々、男性の来庁者が、番号札を握ったまま、美桜を見て固まった。
「……あ」
「どうされましたか?」
「いえ……あの、こちらで合ってますよね」
「はい」
声をかけると、慌てて一歩前に出る。
書類を受け取りながら、視線が、ちらりと上がる。
目が合う。
すぐに、逸らされる。
――さっきまでとは、違う。
その人は、説明を聞きながら、何度も頷いた。
「……助かります」
言い方が、妙に柔らかい。
隣の窓口から、小さな咳払いが聞こえた。
男性職員だ。
こちらを、気にしている。
午前中だけで、三度。
対応が終わった後、理由もなく、「ありがとうございました」と深く頭を下げられた。
昼休み。
食堂の空気が、少し変わっていた。
「佐倉さん、ここ空いてますよ」
今まで、そんな声をかけられたことはない。
「……ありがとうございます」
席に座ると、向かいの男性職員が、一瞬、言葉に詰まった。
「最近……忙しいですよね」
「はい。そうですね」
「……無理しないでくださいね」
それは、同僚に向ける言葉というより、個人的な心配だった。
美桜は、戸惑いながらも、小さく頷いた。
午後。
係長が、資料を持って近づいてくる。
「佐倉さん、この件なんだけど」
「はい」
「……いや、立ったままもなんだし」
空いている椅子を、引く。
そんなこと、今までなかった。
説明は、いつも通り。
内容も、変わらない。
それでも、係長の視線は、書類と美桜の顔を、行き来する。
「……頼りにしてるよ」
言い終わってから、少しだけ、照れたように目を逸らす。
定時。
美桜は、いつもより疲れていた。
肉体ではなく、心が。
――見られることは、エネルギーを使う。
帰り道、駅の階段で、男性に声をかけられる。
「すみません」
「はい?」
「あの……この近くで、おすすめの喫茶店って……」
質問自体は、自然だ。
でも、距離が近い。
声が、少し低くなっている。
「……詳しくなくて」
「そうですか。すみません」
残念そうに、微笑む。
去っていく背中を見て、美桜は、胸を押さえた。
――これは。
自分が、今まで知らなかった世界だ。
家に帰る。
ドアを閉めた瞬間、ほっと息が漏れる。
鏡の前に立つ。
そこにいるのは、確かに自分。
でも。
他人から見た自分という存在が、初めて、はっきり輪郭を持った。
「……綺麗」
呟いて、自分で驚く。
言ってはいけない言葉だと、思っていた。
でも、否定する理由が、見つからない。
ベッドに座り、スマートフォンを見る。
予約アプリ。
美容室のページが、自然と開いている。
次回予約。
日付を、迷わず選ぶ。
確定。
画面を閉じる。
胸の奥が、静かに高鳴る。
――これ以上、進んでいいのだろうか。
でも。
戻りたいとは、思わなかった。
佐倉美桜は、知らず知らずのうちに、“選ばれる側”の世界へ足を踏み入れていた。




