第50話 「鏡の中で、目が合う」
朝の身支度は、いつも通りだった。
洗顔。
化粧水。
最低限のメイク。
特別なことは、何もしていない。
それなのに。
洗面所の鏡の前で、佐倉美桜は、ほんの数秒、動けなくなった。
――あれ?
鏡の中の自分が、こちらを見返している。
“確認する視線”ではない。
“欠点を探す視線”でもない。
ただ、まっすぐ。
まるで、初めて会った人を見るような感覚。
「……私?」
声に出して、ようやく動けた。
顔立ちは、昨日と同じ。
目も、鼻も、口も、変わっていない。
でも、全体の印象が違う。
輪郭が、正しく出ている。
髪が、顔を隠していない。
逃げ道を、作っていない。
「……変なの」
そう呟きながら、家を出る。
駅までの道。
すれ違う人が、一瞬、視線を向ける。
見られている、というより。
“気づかれている”。
その感覚に、胸が、少しだけ早く打つ。
市役所。
窓口に立つと、今日は、初見の来庁者が多かった。
「こんにちは」
挨拶をする。
それだけで、相手の表情が、わずかに緩む。
女性。
三十代くらい。
「……あの、相談なんですけど」
「はい」
声が、自然に低く、落ち着いて出る。
説明を聞きながら、美桜は気づく。
――相手が、私の顔を、ちゃんと見ている。
書類ではなく。
番号札でもなく。
佐倉美桜という人間を。
「……ここ、間違ってますよね」
「はい。でも、大丈夫です」
そう言って、ペンを取り、ゆっくり説明する。
相手は、何度も頷いた。
「来てよかったです」
帰り際、そう言われる。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
――ありがとう。
その言葉を、正面から受け取ったのは、いつ以来だろう。
昼休み。
同僚の女性が、少し照れたように言う。
「佐倉さん、なんか、雰囲気変わりました?」
「……そうですか?」
「うん。話しかけやすい」
その言葉に、美桜は、一瞬だけ息を詰まらせた。
話しかけにくい。
とっつきにくい。
ずっと、そう思われてきた。
「……ありがとうございます」
午後。
窓口の列が、なぜか、自然と美桜の前に伸びる。
誰かが誘導したわけじゃない。
ただ、選ばれている。
――理由は、分からない。
でも。
怖くない。
それが、今までと決定的に違った。
定時。
外に出ると、夕焼けが、やけに綺麗だった。
帰り道、また、美容室の前を通る。
今日は、入らない。
代わりに、ガラスに映る自分を見る。
通りすがりの女性が、小さく囁く。
「……綺麗な人」
自分のことだと、理解するまで、少し時間がかかった。
胸が、ドキンと鳴る。
――別人じゃない。
でも、“今まで見えなかった私”ではある。
家に着き、ソファに座る。
スマートフォンが震える。
市役所の同僚からのメッセージ。
『今日の対応、本当に助かりました』
画面を見つめる。
評価された。
認められた。
それでも、苦しくない。
嬉しい。
ただ、それだけだ。
ベッドに横になり、天井を見る。
今日一日を、思い返す。
何も、無理をしていない。
背伸びも、していない。
ただ、整っていただけ。
「……私、変わっていいのかもしれない」
初めて、そんな言葉が、心の中に浮かんだ。
その瞬間。
胸の奥で、何かが、確かに、“動いた”。
それは、まだ、自覚されない力。
でも。
確実に、佐倉美桜の人生を、次の段階へ押し出そうとしていた。




