第49話 「空気が、先に変わる」
朝の市役所は、いつも通りのざわめきに包まれていた。
コピー機の音。
靴音。
低く交わされる会話。
佐倉美桜は、いつもの席に立ち、いつものように準備をする。
――なのに。
「……あれ?」
隣の窓口の職員が、ふと、美桜を見た。
言葉にはならない。
ただ、一瞬、視線が止まった。
「どうかしましたか?」
「いえ……なんでもないです」
そう言って、首を振る。
自分でも、何に引っかかったのか分からない。
業務が始まる。
「次の方どうぞ」
美桜の声が、フロアに落ちる。
それだけで、列の動きが、わずかに整った。
偶然だ。
気のせいだ。
でも、人の流れが、彼女の前だけ、少し穏やかになる。
「こちらにご記入をお願いします」
書類を差し出す。
男性が、不意に顔を上げた。
「……分かりやすいですね」
「ありがとうございます」
それだけの会話。
なのに、男性は、何度も頷きながら書き始めた。
クレームになりやすい手続き。
時間もかかる。
――本来なら。
だが、声を荒げる人がいない。
苛立ちが、美桜の前で、形になる前にほどけていく。
「佐倉さん」
後ろから、係長が声をかけた。
「ちょっといいですか」
「はい」
小声で言われる。
「……なんか、窓口の空気、落ち着いてない?」
「……そうですか?」
「佐倉さんの列だけ、妙に静かなんだよね」
褒めているわけでも、疑っているわけでもない。
ただ、事実を口にしただけ。
「別に、特別なことはしていません」
それは、本当だった。
やっていることは、昨日までと同じ。
ただ、違うのは。
――自分が、自分を雑に扱っていない。
それだけだ。
昼休み。
同僚たちが、自然と美桜の近くに集まってくる。
「佐倉さん、その口紅、変えました?」
「いえ……特に」
「そう?なんか、顔、はっきりしてる」
「髪、きれいにしてますよね」
質問が、責めではない。
探るでもない。
ただ、“見ている”。
美桜は、少し困って笑った。
「美容室に、行っただけです」
「ああ……なるほど」
なぜか、全員が納得した顔をする。
午後。
窓口に立つと、初めて来た高齢の男性が言った。
「……あんた、ここ、長いのかい?」
「いえ、特別長いわけでは」
「そうか。でも、安心するな」
その言葉は、評価ではなく、感覚だった。
美桜は、少しだけ、目を伏せた。
――安心。
それは、自分が、ずっと欲しかったものだ。
定時。
今日は、疲れが少ない。
不思議なくらい。
帰り道、ガラスに映る自分を、また見る。
――別人じゃない。
でも、同じでもない。
肌の質感。
目の奥の光。
“ちゃんと存在している”という感じ。
美容室の前を通る。
今日は、予約はない。
それでも、足が止まる。
ガラス越しに、美容師と目が合った。
向こうが、小さく頷く。
言葉は、いらない。
店に入る。
「いらっしゃいませ」
「……今日は、予約じゃないんですけど」
「大丈夫ですよ」
その一言で、全てが整う。
鏡の前に座る。
ライトが当たる。
美桜の顔が、はっきり映る。
――綺麗だ。
自分で、そう思ってしまったことに、少し驚く。
「……何か、変わりましたか」
美容師が、静かに言った。
「……分かりません」
正直な答え。
「でも、周りが、少し優しくなった気がします」
美容師は、何も言わない。
ただ、髪に触れた。
その瞬間。
胸の奥で、何かが、静かに広がった。
――これは。
変身じゃない。
奇跡でもない。
整った結果、本来の輪郭が、表に出ただけ。
外に出る。
夜の街が、少しだけ、鮮やかに見えた。
世界は、変わっていない。
でも。
世界が、美桜を、ちゃんと認識し始めている。
その感覚が、確かに、そこにあった。




