第48話 「名前が呼ばれる音」
その日は、朝から窓口が混んでいた。
番号札の電子音。
書類をめくる音。
人の気配が、いつもより濃い。
佐倉美桜は、カウンターの内側で、背筋を伸ばして立っていた。
無理をしているわけではない。
ただ、立ち方を思い出しただけだ。
次の番号が点灯する。
「――三四番の方」
声が、少しだけよく通った。
やって来たのは、三十代くらいの女性だった。
少し疲れた顔。
書類を握る手が、わずかに強張っている。
「これ、合ってますか……?」
不安が、そのまま声に出ていた。
美桜は、書類を受け取り、軽く目を通す。
「大丈夫です。ここまで、きちんと書けていますよ」
女性の肩が、ほんの少し下がった。
「本当ですか?」
「はい。あとは、こちらだけ確認しましょう」
説明を進める。
途中で、女性が小さく息を吐いた。
「……助かります。前に来た時、なんだか責められてる気がして」
美桜は、一瞬だけ言葉を探す。
「……そう感じること、ありますよね」
共感しすぎない。
でも、否定しない。
ちょうどいい距離。
手続きが終わる。
「ありがとうございました」
女性は立ち上がり、一度、振り返った。
「……あの」
「はい?」
「担当の方、お名前、伺ってもいいですか?」
一拍。
胸の奥で、何かが鳴った。
「佐倉です」
「佐倉さん。本当に、ありがとうございました」
深く頭を下げられる。
その動作が、やけにゆっくり見えた。
――名前を呼ばれた。
仕事の中で、“役割”ではなく。
昼休み。
席に戻る途中、別の窓口の職員が声をかけてきた。
「さっきの人、佐倉さんのところ、すごく安心したって言ってましたよ」
「……そうですか」
「なんか、空気が違うって」
空気。
見えないものを、人は確かに感じ取る。
午後。
先ほどの女性が戻ってきた。
番号札を持たずに、少し困った顔で立っている。
「佐倉さん、いますか?」
係の誰かが、美桜を見た。
「呼ばれてますよ」
カウンターの内側で、小さく胸が跳ねる。
「どうしましたか?」
「さっきの続きで……やっぱり、あなたに聞きたくて」
――指名。
対応を終えると、女性は笑った。
「やっぱり、安心しますね」
その言葉は、飾り気がなくて。
だからこそ、胸に残った。
定時。
今日は、少し疲れているはずなのに。
足取りは、軽かった。
帰り道。
ガラスに映る自分を、何度か確認する。
顔が、違うわけじゃない。
でも。
輪郭が、はっきりしている。
輪郭。
それは、髪だけじゃない。
自分の存在の。
家に着き、照明をつける。
静かな部屋。
鏡の前に立つ。
「……私、こんな顔、してたっけ」
少しだけ、目が強い。
怖さじゃない。
芯のようなもの。
スマートフォンが震える。
通知。
――次回予約:確定。
美容室からだった。
指が、自然に動く。
キャンセルしない。
理由を考えない。
ただ、そこへ行く未来を、当たり前のように受け取る。
世界は、何も変わっていない。
でも。
美桜の名前が、今日、ちゃんと響いた。
それだけで。
明日が、少しだけ、楽しみになっていた。




