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『髪を変えたら、人生が追いついてきた件。 〜どんな絶望も似合う髪にしてみせます〜』社会人編  作者: talina
カルテ⑩市役所職員

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第47話 「視線の向き」

 翌朝。


 佐倉美桜は、いつもより五分早く家を出た。


 理由は特にない。

 ただ、鏡を見る時間が、少し長くなっただけだ。


 髪は、昨日と同じ形のはずなのに、整える手が、なぜか丁寧になる。


「……変なの」


 自分に向かって、小さく呟く。


 駅へ向かう道。

 視線を下げずに歩いている自分に、途中で気づいた。


 今までは、無意識に足元を見ていた。


 誰かと目が合うことを、避けるように。


 でも今日は、前を向いている。


 市役所の建物が見えてくる。


 見慣れたはずの灰色の壁が、少しだけ明るく感じた。


 ――そんなはずはないのに。


「おはようございます」


 出勤時の挨拶。


 返事は、いつもと同じはずだった。


「……あ、おはよう」


 一瞬の間。


 それだけで、胸がざわつく。


 今まで、挨拶は流れていた。


 声をかけても、視線は書類のまま。


 それが普通だった。


 席に着くと、隣の同僚がちらりとこちらを見る。


「佐倉さん、今日なんか雰囲気違いますね」


「え?」


「なんていうか……明るい?」


 言われた瞬間、返事に困った。


 明るい。

 そんな言葉、自分に向けられた記憶がない。


「そう、ですか?」


「うん。髪型かな。似合ってますよ」


 軽い口調。

 悪意も、下心もない。


 それなのに。


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 業務が始まる。


 窓口に立つと、高齢の男性が書類を差し出してきた。


「これ、分からんのだが」


 いつもなら、少し身構える場面だ。


 説明が長くなりがちで、途中で苛立たれることも多い。書類を顔に投げつけられた事も何度かある。


 でも。


「大丈夫ですよ。一緒に確認しましょう」


 声が、自然に出た。


 相手の目を見る。

 急がせない。

 でも、迷わせない。


 説明を終えると、男性は小さく笑った。


「助かったよ。あんた、分かりやすいな」


「ありがとうございます」


 その一言が、こんなにも素直に言えたことに、自分が驚く。


 昼休み。


 食堂で、向かいに座った後輩が言った。


「佐倉さんって、話しかけやすいですよね」


 箸が止まる。


「……そうかな」


「はい。ちゃんと聞いてくれる感じがして」


 “ちゃんと聞いてくれる”。


 それは、ずっと大事にしてきたことだ。


 でも今まで、それが評価された実感はなかった。


 午後。


 窓口が一段落した頃、係長が声をかけてきた。


「佐倉、さっきの対応、良かったな」


「……ありがとうございます」


「最近、落ち着いてる。余裕がある感じがする」


 余裕。


 自分には縁のない言葉だと思っていた。


 定時。


 席を立つとき、ふと、思う。


 ――今日、誰かに嫌な言葉を言われただろうか。


 思い返しても、浮かばない。

 いつもは数件、心無い言葉を投げかけられるのに……。


 もちろん、世界が変わったわけじゃない。


 ただ。


 自分が、世界に向ける顔が変わった。


 帰り道。


 昨日と同じ道を歩く。


 あの美容室の前で、少しだけ足を緩める。


 ガラス越しに、中は見えない。


 でも。


 そこに、“戻れる場所”があると思えた。


「……不思議」


 たった一度、髪を整えただけなのに。


 胸の奥で、何かが静かに、動き始めていた。

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