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『髪を変えたら、人生が追いついてきた件。 〜どんな絶望も似合う髪にしてみせます〜』社会人編  作者: talina
カルテ⑩市役所職員

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第46話「呼ばれていた場所」 

 その美容室は、気づいたら目に入っていた。


 佐倉美桜は、市役所から駅へ向かういつもの道を歩いていた。

 毎日通る道。

 信号の位置も、街路樹の影も、貼り替えられたポスターの色さえ知っている。


 なのに。


 その日は、不意に足が止まった。


 ガラス張りの小さな店。

 派手な看板はなく、名前も控えめな文字でしか書かれていない。

 中がよく見えるのに、不思議と中の様子が頭に入ってこない。


 代わりに――

 ガラスに映った自分の姿が、妙に気になった。


「……私?」


 一瞬、歪んで見えた気がした。

 輪郭が、というよりも、“自分の顔が自分じゃない”ような違和感。


 疲れているのだろうか。

 そう思って視線を逸らそうとしたのに、足が動かない。


 理由は分からない。

 予約もしていない。

 今日でなければならない用事もない。


 それでも。


 ドアを押していた。


 鈴の音が、静かに鳴る。


「いらっしゃいませ」


 奥から現れた美容師は、年齢の判断がつかない女だった。


 若いわけでも、老けているわけでもない。

 ただ、そこに“居ることが自然”な人。


「ご予約は……」


「していません」


「大丈夫ですよ」


 即答だった。

 まるで、最初からそのつもりだったかのように。


 席に案内され、鏡の前に座る。

 改めて映る自分の顔。


 地味。

 整っていないわけではない。

 けれど、人の記憶に残る要素がない。


 市役所で十年。

 正確に、真面目に、淡々と。


 評価は「堅実」。

 それ以上でも、それ以下でもない。


「今日はどうしますか?」


 そう聞かれて、言葉に詰まった。


 どうしたいのか、分からない。

 変えたいわけじゃない。

 変えないことを選んできた人生だ。


「……整える、くらいで」


「分かりました」


 美容師は深く追及しない。

 代わりに、髪に触れた瞬間――


 美桜は、小さく息を呑んだ。


 指先が、頭皮に触れただけ。

 それなのに。


 胸の奥で、何かが“緩んだ”。


「……あ」


 声が漏れたのが、自分でも分かった。


「力、入ってますね」


「え?」


「ずっと」


 言い切りだった。


 鏡越しに目が合う。

 責める色はない。

 観察するようでもない。


 理解している目だった。


「仕事、真面目な方でしょう」


 否定しようとして、できなかった。


「周りに合わせるのも、得意。でも――」


 はさみが、一定のリズムで動き始める。


「自分を後回しにする癖があります」


 なぜ分かるのか。

 問い返す前に、呼吸が深くなる。


 肩が、ゆっくり下がっていく。


 美容師は、何もしていない。

 特別な薬剤も、派手な技もない。


 ただ、

 “切るべきでないところには触れず”

 “触れるべきところにだけ、触れている”


 そんな感覚。


 気づけば、美桜は目を閉じていた。


 学生時代。

 目立たないようにしていたこと。

 怒られないように、声を抑えていたこと。

 期待されない方が楽だと、思ったこと。


 それらが、映像ではなく、温度として胸を通り過ぎていく。


「……ここに来た理由、分かりますか?」


 突然の問い。


 首を横に振る。


「呼ばれてたんですよ」


 冗談めかした口調なのに、不思議と笑えなかった。


 鏡の中で、自分の表情が、少し柔らいでいる。


 それに気づいて、心臓が跳ねた。


 こんな顔、いつからしていなかっただろう。


 施術が終わり、クロスが外される。


「大きくは変えていません」


 そう言われて、鏡を見る。


 確かに、派手じゃない。

 髪型も、職場で浮くことはない。


 でも。


 そこにいる女性は、“背景に溶け込む人”ではなかった。


 輪郭が、はっきりしている。

 視線が、逃げていない。


「……私、こんな顔でしたっけ」


 思わず、そう呟いていた。


 美容師は微笑む。


「元からですよ」


 支払いを終え、外に出る。


 夕方の空気が、少し違って感じられた。


 ガラスに映る自分は、もう歪んでいない。


 その背中を、美容師は静かに見送っていた。


 ――この人は、まだ知らない。

 自分が、どんな“扱われ方”をするようになるのかを

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