第46話「呼ばれていた場所」
その美容室は、気づいたら目に入っていた。
佐倉美桜は、市役所から駅へ向かういつもの道を歩いていた。
毎日通る道。
信号の位置も、街路樹の影も、貼り替えられたポスターの色さえ知っている。
なのに。
その日は、不意に足が止まった。
ガラス張りの小さな店。
派手な看板はなく、名前も控えめな文字でしか書かれていない。
中がよく見えるのに、不思議と中の様子が頭に入ってこない。
代わりに――
ガラスに映った自分の姿が、妙に気になった。
「……私?」
一瞬、歪んで見えた気がした。
輪郭が、というよりも、“自分の顔が自分じゃない”ような違和感。
疲れているのだろうか。
そう思って視線を逸らそうとしたのに、足が動かない。
理由は分からない。
予約もしていない。
今日でなければならない用事もない。
それでも。
ドアを押していた。
鈴の音が、静かに鳴る。
「いらっしゃいませ」
奥から現れた美容師は、年齢の判断がつかない女だった。
若いわけでも、老けているわけでもない。
ただ、そこに“居ることが自然”な人。
「ご予約は……」
「していません」
「大丈夫ですよ」
即答だった。
まるで、最初からそのつもりだったかのように。
席に案内され、鏡の前に座る。
改めて映る自分の顔。
地味。
整っていないわけではない。
けれど、人の記憶に残る要素がない。
市役所で十年。
正確に、真面目に、淡々と。
評価は「堅実」。
それ以上でも、それ以下でもない。
「今日はどうしますか?」
そう聞かれて、言葉に詰まった。
どうしたいのか、分からない。
変えたいわけじゃない。
変えないことを選んできた人生だ。
「……整える、くらいで」
「分かりました」
美容師は深く追及しない。
代わりに、髪に触れた瞬間――
美桜は、小さく息を呑んだ。
指先が、頭皮に触れただけ。
それなのに。
胸の奥で、何かが“緩んだ”。
「……あ」
声が漏れたのが、自分でも分かった。
「力、入ってますね」
「え?」
「ずっと」
言い切りだった。
鏡越しに目が合う。
責める色はない。
観察するようでもない。
理解している目だった。
「仕事、真面目な方でしょう」
否定しようとして、できなかった。
「周りに合わせるのも、得意。でも――」
はさみが、一定のリズムで動き始める。
「自分を後回しにする癖があります」
なぜ分かるのか。
問い返す前に、呼吸が深くなる。
肩が、ゆっくり下がっていく。
美容師は、何もしていない。
特別な薬剤も、派手な技もない。
ただ、
“切るべきでないところには触れず”
“触れるべきところにだけ、触れている”
そんな感覚。
気づけば、美桜は目を閉じていた。
学生時代。
目立たないようにしていたこと。
怒られないように、声を抑えていたこと。
期待されない方が楽だと、思ったこと。
それらが、映像ではなく、温度として胸を通り過ぎていく。
「……ここに来た理由、分かりますか?」
突然の問い。
首を横に振る。
「呼ばれてたんですよ」
冗談めかした口調なのに、不思議と笑えなかった。
鏡の中で、自分の表情が、少し柔らいでいる。
それに気づいて、心臓が跳ねた。
こんな顔、いつからしていなかっただろう。
施術が終わり、クロスが外される。
「大きくは変えていません」
そう言われて、鏡を見る。
確かに、派手じゃない。
髪型も、職場で浮くことはない。
でも。
そこにいる女性は、“背景に溶け込む人”ではなかった。
輪郭が、はっきりしている。
視線が、逃げていない。
「……私、こんな顔でしたっけ」
思わず、そう呟いていた。
美容師は微笑む。
「元からですよ」
支払いを終え、外に出る。
夕方の空気が、少し違って感じられた。
ガラスに映る自分は、もう歪んでいない。
その背中を、美容師は静かに見送っていた。
――この人は、まだ知らない。
自分が、どんな“扱われ方”をするようになるのかを




