第45話「当たり前になった奇跡」
その日も、美容室は、静かに始まった。
朝一番の客は、予約時間より五分早く来た。
「早すぎました?」
「大丈夫ですよ」
それだけの、やり取り。
特別な言葉は、ない。
鏡の前に座り、クロスをかける。
ハサミを取る。
いつもと、同じ動作。
それなのに。
この店を出た人の、人生は、少しずつ、変わっていく。
だが、それは、ここでは話題にならない。
美容師は、誰が成功したか、誰が幸せになったか、
考えない。
考えるのは、似合っているかどうかそれだけだ。
「どうですか」
鏡越しに聞く。
客は、一瞬、黙る。
それから、小さく笑う。
「……悪くないですね」
その反応が、一番いい。
大げさじゃない。
逃げてもいない。
ただ、受け入れている。
午後。
予約の合間に、外を見る。
通りを歩く人たちは、忙しそうで、楽しそうで、疲れてもいる。
誰もが、何かを抱えている。
その中の、ほんの一部が、ここに来る。
それでいい。
全部は、救えない。
でも。
入口を整えることは、できる。
夕方。
最後の客が、帰る。
「ありがとうございました」
ドアが閉まる。
静かになる。
美容師は、片付けをしながら、鏡を見る。
そこに映る自分は、いつも通りだ。
変わらない。
変わらないことが、仕事だから。
帳簿を閉じる。
明日の予約を確認する。
知らない名前。知らない顔。
それでいい。
また、新しい一日が、来るだけだ。
美容師は、灯りを落とした。
奇跡は、もう、珍しくない。
この店では、当たり前になっていた。
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第9カルテ編・完




