第38話 「写真を、撮られる朝」
変化は、音もなく、しかし確実に広がっていた。
午前六時十五分。
理人がコーヒーを淹れていると、ドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
「おはようございます」
昨日来た女性だった。
仕事前だろう。
スーツに、控えめなメイク。
「昨日、すごく落ち着いたので」
そう言って、モーニングを注文する。
理由は、それだけ。
だが――
それだけで、十分だった。
トーストを出すと、女性は迷いなくスマホを取り出す。
カシャ。
コーヒー。
湯気。
朝の光。
写真を撮られる。
今まで、一度もなかったことだ。
「……撮るんですね」
思わず、口に出た。
「はい」
女性は、少し照れたように笑う。
「“朝が静かな喫茶店”って、好きな人、多いと思うので」
理人は、何も返せなかった。
七時。
常連の老人が、その様子を見て言う。
「最近、若い人、来るな」
「……そうですね」
「いいことだ」
それだけ言って、コーヒーを飲む。
肯定も、否定も、しない。
それが、理人にはありがたかった。
七時半。
さらに一人。
今度は、スーツ姿の男性。
「ここ、前から気になってて」
席が、一つずつ、埋まっていく。
八時。
理人は、初めて思った。
「……忙しいな」
嫌な忙しさじゃない。
追われない。
焦らない。
ただ、必要とされている忙しさ。
九時前。
カウンター越しに、昨日の女性が声をかける。
「店主さん」
「はい?」
「……感じ、変わりました?」
一瞬、意味が分からなかった。
「前より、入りやすいです」
その一言が、胸に残る。
入りやすい。
味の話じゃない。
値段の話でもない。
“人”の話だ。
閉店後。
理人は、椅子に腰を下ろした。
売上表を見る。
「……増えてる」
劇的じゃない。
でも、確実に。
スマホを見ると、通知が一件。
――「#朝が落ち着く喫茶店」
見覚えのある写真。
自分の店だった。
理人は、しばらく画面を見つめたまま、動かなかった。
何かを、足したわけじゃない。
何かを、変えただけだ。
しかも、ほんの少し。
それなのに。
朝は、確実に、満ち始めている。
理人は、静かに立ち上がった。
明日は、もっと早く、起きよう。
そう思えた。




