第36話 「朝が始まる前に」
午前四時三十分。
目覚ましが鳴る前に、福原理人は目を覚ました。
もう何年も、同じ時間だ。
キッチンで湯を沸かし、顔を洗い、エプロンを手に取る。
無駄のない動き。
考える必要もない。
父の代から続く喫茶店――
喫茶ふくはら。
派手さはない。
だが、朝の時間だけは、誰にも負けないつもりでやってきた。
店に入ると、コーヒー豆の香りが鼻をくすぐる。
昨日と同じ。
今日も同じ。
それが、正しいと信じてきた。
六時、開店。
最初の客は、新聞を小脇に抱えた常連の老人。
次に、近所の自営業者。
数人分のモーニングを出して、七時半。
ピークは、ここで終わる。
カウンターの向こう側に立ちながら、理人は、ふと空いた席を見た。
「……少なくなったな」
独り言が、自然に漏れる。
昔は、もう少し賑やかだった気がする。
味が落ちたわけじゃない。
手を抜いた覚えもない。
それでも、人は増えない。
———
今日は、定休日だった。
鏡の前に立つ。
髪は短く、きっちり整っている。
十年以上、同じ髪型。
「……変じゃないよな」
誰に言うでもなく、確認する。
清潔感はある。
不快感もない。
でも、それだけだ。
店を出て、駅とは逆方向へ歩く。
偶然だった。
いつもは通らない道。
たまたま、工事で迂回しただけ。
そこで、目に入った。
――美容室。
朝なのに、灯りがついている。
「……早いな」
時計を見る。
まだ九時前だ。
理人は、少し迷った。
オシャレに興味があるわけじゃない。
ただ、ずっと後回しにしていただけだ。
仕事に支障が出ない時間。
それだけが理由だった。
ドアを開ける。
ベルの音が、静かに鳴る。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声。
若い女性美容師が、こちらを見た。
派手ではない。
でも、不思議と目を引く。
「……今、大丈夫ですか」
「はい。どうぞ」
理人は、椅子に座る。
「いつもと同じでいいですか?」
その問いに、一瞬、言葉が詰まる。
いつもと同じ。
それは、安心で、安全で、でも――。
「……お任せで」
自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。
美容師は、少しだけ目を細めて、笑った。
「分かりました」
鏡越しに、自分と目が合う。
理人は、なぜか、胸がざわついた。
何かが、始まる前の、朝のような感覚。
ハサミの音が、静かに響き始めた。
まだこの時、福原理人は知らない。
“朝が変わる”ということは、人生の景色が変わることだと。




