第34話 「外から、届く声」
きっかけは、一枚の封筒だった。
差出人は、市役所。
施設宛ての、正式な文書。
「……講習会?」
主任が、眉を上げる。
「高齢者対応に関する、接遇研修。現場実例の共有……」
そこに、小さく書かれていた。
“藤原 恒一氏の対応事例を参考にしたい”
会議室が、一瞬だけ、静まる。
「藤原さん?」
誰かが、そう呟いた。
藤原は、何も言えなかった。
理由が、分からない。
特別な理論も、技術も、持っていない。
やっているのは、いつも通りの仕事だけだ。
「……お願いできますか?」
主任が、確認する。
「……はい」
断る理由は、なかった。
数日後。
市役所の会議室。
緊張で、喉が渇く。
前には、二十人ほどの職員。
視線が、一斉に集まる。
「藤原です」
それだけ言うと、深く息を吸った。
「特別なことは、していません」
最初に、そう言った。
「急がない。声を荒げない。相手のペースを、尊重する」
資料は、薄い。
エピソードも、地味だ。
それでも。
「……分かります」
誰かが、頷いた。
「現場だと、それが一番難しい」
共感が、広がっていく。
藤原は、少しだけ、肩の力を抜いた。
講習後。
「藤原さん」
市役所の職員が、声をかけてくる。
「次回、別の施設でも、お願いできますか?」
まるで、普通のことのように。
「……はい」
気づけば、返事をしていた。
帰り道。
夕焼けが、やけにきれいだった。
あの美容室で、鏡を見た日のことを、思い出す。
変わったのは、見た目じゃない。
“価値の置き場”だ。
誰かに合わせようとしていた自分が、いなくなった。
それだけで、世界は、こんなにも静かで、優しい。
施設に戻ると、利用者が手を振った。
「藤原さん、おかえり」
名前。
また、名前だった。
藤原は、自然に笑った。
ここにいる。
必要とされている。
その事実が、胸の奥で、しっかりと根を張る。
成功は、派手じゃない。
でも。
確かに、人生を一段、持ち上げる。




