第33話 「静かな指名」
最初は、偶然だと思われていた。
「今日のお風呂、藤原さんでお願いできますか」
介護士の一人が、そう言われたのが始まりだった。
「え、藤原さん?」
「うん。この前の人がいいって」
理由は、それだけ。
藤原自身は、特に気にしていなかった。
仕事は仕事。
求められれば、応じる。
それだけだ。
だが、同じことが、二度、三度と続く。
「食事介助、藤原さんがいいって」
「今日、藤原さんいる?」
名前が、日常会話の中に、自然に混ざり始める。
騒がしくはない。
取り合いにもならない。
ただ、静かに、選ばれていく。
「藤原さん、最近忙しいですね」
同僚が、笑いながら言った。
「そうですか」
「うん。でも、悪い忙しさじゃない」
その言い方が、少しだけ嬉しかった。
午後のミーティング。
主任が、書類をめくりながら言う。
「最近、利用者満足度の自由記述欄に、名前が出てきています」
ざわつきは、起きない。
誰かが拍手することも、ない。
それでも。
「“藤原さんは、声が静かで安心する”」
「“急がされないから、落ち着く”」
淡々と、読み上げられる言葉が、胸に積もる。
藤原は、何も言わなかった。
誇る気持ちも、否定する気持ちも、湧いてこない。
ただ、受け取る。
それでいいと、思えた。
休憩時間。
自販機の前で、主任が隣に立つ。
「藤原さん」
「はい」
「……今の感じ、続けてください」
評価でも、命令でもない。
お願いに近い。
「はい」
それだけ答えた。
その夜、帰り道。
ふと、あの美容室の前を通る。
灯りは、変わらず、静かだ。
「……そういうこと、だったのか」
世界が、無理に変わったわけじゃない。
自分が、正しい位置に戻っただけ。
その結果、必要な人に、届いている。
それだけのこと。
家に着く頃には、一日の疲れが、心地よい重さに変わっていた。
誰かの役に立った。
そう言える日は、案外、少ない。
でも今日は、確実に、そうだった。
藤原は、靴を揃えながら、小さく息を吐く。
この仕事は、目立たない。
でも。
選ばれることは、ちゃんとある。
それを知れただけで、十分だった。




