第32話 「名前で、呼ばれる」
朝の申し送りは、いつもと同じだった。
夜勤者からの報告。
体調変化。
注意事項。
藤原 恒一は、黙ってメモを取る。
五十二歳。
ベテランと言われる年齢だが、自分から前に出ることはない。
「じゃあ、今日もよろしくお願いします」
主任の言葉で、それぞれが持ち場に散る。
藤原は、いつものように、入浴介助から入った。
「寒くないですか」
「大丈夫ですよ」
声をかけ、手を添える。
特別なことは、していない。
ただ、昨日と違うのは――
自分の中に、余裕があることだった。
急がない。
焦らない。
すると不思議なことに、相手も落ち着く。
「今日は、気持ちいいね」
利用者が、そう言った。
それだけで、十分だった。
昼前。
食堂で、配膳をしていると。
「あぁ」
後ろから、声がした。
藤原が振り向く。
「……藤原さん、でしょ?」
一瞬、耳を疑った。
「はい?」
「この前、お風呂、入れてくれた人」
高齢の男性利用者だった。
いつもは……。
「あぁ」
「ちょっと」
そう呼ばれるだけの存在。
「藤原さん」
もう一度、はっきりと。
名前を。
藤原は、反射的に、背筋を伸ばした。
「はい」
声が、少しだけ、明るくなる。
「あんた、静かでいいね」
褒め言葉なのか、よく分からない。
でも。
「急かさないから、安心する」
その一言で、胸の奥が、じんわりと温かくなる。
午後。
別の利用者が、職員を呼ぶ。
「藤原さん、ちょっと来て」
また、名前だった。
偶然じゃない。
そう、はっきり分かる。
夕方、記録を書いていると、主任が近づいてきた。
「藤原さん」
その呼び方に、少し驚く。
「最近、利用者さんから、指名が増えてます」
「……そうですか」
「ええ。“落ち着く”って」
主任は、それ以上、深く踏み込まなかった。
評価表も、貼り紙も、ない。
でも。
確かに、何かが変わっている。
仕事終わり。
ロッカー室で、鏡を見る。
昨日と、同じ髪。
同じ顔。
それなのに、目だけが、少し違う。
自分は、ここにいていい。
そう、書いてあるような目。
藤原は、小さく息を吐いた。
誰かの一日を、支える仕事。
それは、誰かの名前に、自分が含まれる、ということなのかもしれない。
明日も、ここに来よう。
藤原は、自然に、そう思えた。




