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『髪を変えたら、人生が追いついてきた件。 〜どんな絶望も似合う髪にしてみせます〜』  作者: talina
カルテ⑦介護施設職員

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第31話 「誰かの一日を、支える人」

 朝の空気は、

 少しだけ湿っていた。


 介護施設の玄関で、藤原 恒一は、深く息を吸う。


 五十二歳。


 若くはない。

 でも、まだ老け込むには早い。


「おはようございます」


 誰に向けたともなく、声を出す。


 返事は、ほとんど返ってこない。


 それが、いつものことだった。


 入浴介助。

 食事介助。

 排泄介助。


 藤原が、名前で呼ばれることは、めったにない。


「ねえ」

「ちょっと」


 そう呼ばれることの方が、圧倒的に多い。


 仕事としては、間違っていない。


 事故もない。

 遅刻もない。

 文句も言わない。


 だから、評価も、特にない。


「藤原さんって、優しいですよね」


 新人職員が、そう言ったことがあった。


 でもそれは、会話の流れで出た言葉で、深い意味はない。


 分かっている。


 この仕事は、“目立たない人”が一番向いている。


 だから、自分は向いているのだと、思うようにしてきた。


 休憩時間。


 制服のまま、外に出る。


 ガラスに映った自分の髪は、いつも同じ形。


 整っているが、主張はない。


「……まあ、こんなもんだよな」


 独り言は、誰にも聞かれない。


 その帰り道だった。


 たまたま目に入った、小さな美容室。


 派手な看板も、割引の文字もない。


 でも、なぜか、足が止まった。


 理由は、分からない。


 ただ、中の明かりが、やけに落ち着いて見えた。


 ベルが鳴る。


「いらっしゃいませ」


 声は、静かだった。


 丁寧で、でも距離を詰めすぎない。


「予約は……」


「してません」


「大丈夫ですよ」


 それだけで、案内される。


 椅子に座ると、肩の力が抜けた。


 理由は、分からない。


「どうされますか」


 鏡越しに、聞かれる。


 藤原は、一瞬だけ考えてから言った。


「……いつも通りで」


 美容師は、少しだけ首を傾けた。

 初めての来店である事は指摘されなかった。


「じゃあ、整えますね」


 その言い方が、なぜか、胸に残った。


 ハサミの音は、規則正しい。


 切りすぎない。

 変えすぎない。


 でも、雑じゃない。


 髪を通して、扱われている、という感覚がある。


「お仕事、介護ですか」


「はい」


「大変ですね」


 決まり文句のはずなのに、軽くなかった。


「……でも、嫌いじゃないです」


 それが、本音だった。


 施術が終わる。


 鏡の中の自分は、昨日と、ほとんど同じ。


 それなのに。


「あれ……」


 藤原は、思わず声を漏らした。


 疲れて見えない。


 若返ったわけでもない。


 ただ、“ちゃんと人に見える”顔をしていた。


「ありがとうございました」


 会計を済ませる。


 値段は、特別安くも高くもない。


 でも、妙に納得できた。


 外に出ると、空気が軽い。


「……悪くないな」


 そう思えたことが、今日一番の出来事だった。


 翌日。


「藤原さん、昨日の対応、利用者さんが喜んでましたよ」


 上司が、そう言った。


 それだけ。


 でも。


 藤原は、小さく頷く。


 胸の奥に、静かな温度が残る。


 この仕事を、今日も続けよう。


 そう思える朝だった。

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