第30話 「名前を呼ばれる側へ」
月末の朝。
支店のドアを開けた瞬間。
空気が、違った。
視線が、集まる。
結城里穂は、思わず足を止めた。
「……おはようございます」
返事が、一拍遅れる。
「結城さん、ちょっと」
支店長の声。
――怒られる。
そう思った。
会議室に入ると、既に、数人の上司が集まっていた。
机の上には、紙の束。
見覚えのある、顧客名。
「数日前から、問い合わせが急増している」
支店長が言う。
「しかも、全て指名だ」
ざわめきが、広がる。
「……私、何か、しましたか」
絞り出すように言う。
支店長は、一枚の紙を差し出した。
そこには、紹介経路が、矢印で繋がれていた。
一本。
二本。
三本。
――連鎖。
「過去二年分の顧客だ。解約も少なく、クレームもない」
上司の一人が言う。
「しかも、全員が同じことを言っている」
「“結城さんは、ちゃんと話を聞いてくれる”」
その言葉に、里穂の胸が、ぎゅっと締まる。
――あの、笑顔をやめた日。
あれが、間違いじゃなかった。
「今月の成績だが」
支店長が、一呼吸置く。
「支店トップだ」
一瞬、音が消えた。
「……え?」
「全国でも、かなり上位だ」
机の上の資料に、赤丸がついている。
自分の名前。
現実味が、追いつかない。
昼。
電話が、止まらない。
「○○さんから、ご紹介で」
「以前、話を聞いてもらって」
「結城さんに、お願いしたい」
売り込んでいない。
急かしていない。
それなのに、相手が、前に出てくる。
――世界が、こちらを押してくる。
夕方。
一本のメールが届く。
件名:全国優績者表彰について
目を疑う。
何度も、開き直す。
名前が、そこにある。
「……私が?」
思わず、声が漏れた。
同僚が、振り向く。
「結城さん、すごいじゃん!」
拍手が起こる。
でも、里穂は、ただ立ち尽くしていた。
思い浮かぶのは、あの美容室。
「世界の反応が、変わります」
あれは、比喩じゃなかった。
帰り道。
駅のガラスに映る自分は、確かに、同じ顔だ。
派手じゃない。
若くもない。
それでも。
この顔で、勝った。
スマートフォンが震える。
予約通知。
――あの美容室からだ。
里穂は、小さく息を吐いた。
もう、疑わない。
あの人は、確かに、世界を少しだけ、ズラす。
髪を通して。
立場を通して。
そして、人の在り方を、正しい位置に。
電車が来る。
里穂は、前を向いた。
今度は、名前を呼ばれる側として。
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第6カルテ編・完




