第29話 「世界が、噛み合わなくなる」
数字が、合わなかった。
結城里穂は、月次成績の一覧を、何度も見返す。
見間違いではない。
先月より、はっきりと落ちている。
「……ですよね」
支店長の声は、低かった。
「今月、動きが鈍い」
責める口調ではない。
だが、評価を下す声だった。
「以前の結城さんなら、この程度の落ち込み、すぐ戻していた」
――以前。
その言葉が、胸に刺さる。
「笑顔が減った、って声もある」
誰からの声か、言われなくても分かる。
同僚。
上司。
客。
全員が、同じ“型”を求めている。
「無理は、してませんか」
最後に、そう言われた。
気遣いの言葉の形をした、警告だった。
席に戻ると、電話が鳴る。
――断られる。
そう直感した。
「今回は、見送ります」
予感通りの言葉。
続けて、もう一本。
「他社で、決めました」
三本目。
「結城さん、悪くはないんだけどね」
その“悪くはない”が、一番、首を絞める。
夕方。
机に突っ伏しそうになるのを、必死でこらえた。
――戻せばいい。
笑顔を。
声のトーンを。
間の取り方を。
あの頃の、完璧な仮面を。
そうすれば、数字は戻る。
でも。
指が、動かなかった。
あの美容室の椅子。
ハサミの音。
「分からない日もありますよ」
その一言が、頭から離れない。
帰り道、足は自然と、あの店の前に来ていた。
看板の灯りが、やけに明るく見える。
中に入ると、美容師は、すぐに気づいた。
「こんばんは」
前よりも、少しだけ低い声。
「……もう一度、お願いできますか」
何を、とは言わなかった。
美容師は、鏡越しに、里穂の目を見る。
「今、噛み合ってませんね」
はっきりと、そう言った。
里穂の喉が、鳴る。
「戻した方が、楽ですよ」
逃げ道を、示される。
それでも。
「……戻したく、ないです」
絞り出すように言った。
その瞬間。
美容師の手が、止まった。
そして、ほんの一瞬だけ、空気が変わる。
説明できない。
でも、確実に。
「分かりました」
その声は、今までで一番、静かだった。
「じゃあ、一番合う位置に、固定します」
――固定?
聞き返す間もなく、ハサミが入る。
切っているのに、不思議と、減っている感覚がない。
むしろ、何かが“揃っていく”。
視界が、少し明るくなる。
頭の中の雑音が、消える。
「これで、しばらくは大丈夫です」
「……何が?」
美容師は、答えなかった。
ただ、こう付け加えた。
「世界の反応が、変わります」
帰り道。
スマートフォンが震える。
知らない番号。
「もしもし」
『結城さんですか?○○さんから、ご紹介いただいて』
心臓が、一度、大きく跳ねた。
続けて、もう一本。
また、紹介。
電車の中で、通知が止まらない。
――偶然?
そう思おうとした瞬間、ふと、ガラスに映る自分と目が合う。
笑っていない。
でも、迷ってもいない。
世界が、こちらを見ている。
そんな感覚。
里穂は、スマートフォンを握りしめた。
何かが、始まってしまった。
そう、はっきり分かった。




