第27話 「仮面の重さ」
ハサミの音は、思っていたよりも、静かだった。
保険の説明資料をめくる音や、キーボードを叩く音とは違う。
誰かを説得するための音ではなく、ただ、整えるための音。
結城里穂は、目を閉じたまま、それを聞いていた。
「お仕事、保険関係ですか」
唐突だが、踏み込みすぎない声。
「……はい」
反射的に、営業用の明るさで答えそうになり、途中でやめた。
「外交員です」
それだけ言う。
「大変そうですね」
同情でも、励ましでもない。
ただの事実確認のような一言。
「……慣れました」
慣れた、という言葉が、こんなにも軽く出ることに、自分で驚く。
慣れた、というより、諦めたのかもしれない。
鏡越しに、美容師の手元が見える。
大胆に切るわけではない。
形を変えるわけでもない。
でも、不要な部分だけを、迷いなく落としていく。
「いつも、すごくちゃんとしてますよね」
不意に言われて、里穂は、少しだけ肩を強張らせた。
「仕事柄、ちゃんとしてないと」
条件反射の返答。
「それって、疲れませんか」
里穂は、返事ができなかった。
疲れているかどうかを、考える余地が、もうなかったからだ。
疲れていても、笑う。
元気でも、笑う。
結果、いつも同じ顔になる。
「……疲れてる、んだと思います」
口から出た言葉に、自分が一番驚いた。
美容師は、「そうですか」とだけ言って、手を止めなかった。
慰めない。
解決しない。
それが、妙に心地いい。
「仕事の時、ずっと笑ってるんです」
誰に頼まれたわけでもなく、里穂は話し始めていた。
「怒られないように。警戒されないように。この人なら大丈夫だって、思ってもらえるように」
それが、いつからか、外せなくなった。
「家でも、同じ顔してました」
誰も見ていないのに。
美容師の手が、一瞬だけ止まる。
「……それは、重いですね」
里穂は、小さく笑った。
「ですよね」
その笑いは、営業用ではなかった。
鏡を見る。
髪型は、ほとんど変わっていない。
でも、顔が違う。
眉間の力が、少し抜けている。
「今日は、これくらいで」
美容師が言う。
「大きくは、変えてません」
「……はい」
それでいい、と心から思えた。
立ち上がった時、里穂は、ふと気づく。
今の自分は、誰にも売り込んでいない。
それが、こんなにも楽だとは、知らなかった。
「ありがとうございました」
店を出る時、声が自然に出た。
駅へ向かう道。
ガラスに映った自分は、相変わらず地味で、年相応だ。
それでも。
「……この顔で、いいか」
そう思えたことが、今日一番の収穫だった。
仮面を外す勇気は、まだない。
でも。
仮面が重いと、気づけた。
それだけで、明日は少し違う気がした。




