第26話 「笑顔の置き場所」
鏡の前で、女は笑った。
口角を上げる角度は、もう体が覚えている。
「ありがとうございます」
「ご検討、よろしくお願いします」
声の高さも、間の取り方も、全部、仕事用。
保険外交員の結城 里穂は、そうやって今日も一件、契約に至らなかった客の家を後にした。
数字は、悪くない。
全国トップではないが、支店内では中の上。
「もう一押しが足りない」
上司は、いつもそう言う。
押しているつもりだった。
笑って。
頭を下げて。
相手の話を聞いて。
それでも足りないと言われると、どこを直せばいいのか、もう分からなかった。
帰り道、ガラスに映った自分の顔を見る。
――誰だろう。
口元は笑っているのに、目が、動いていない。
スマートフォンが震える。
『今日の数字、どうだった?』
同僚からのメッセージ。
『まあまあ』
そう返して、画面を伏せた。
誰にも、聞かれないことがある。
「今日は、疲れた?」
その一言を、もう何年も、かけられていない気がした。
駅前の美容室。
看板は控えめで、華やかさはない。
通り過ぎるつもりだった。
でも、ガラス越しに見えた椅子が、妙に落ち着いて見えて、足が止まる。
「……今日は、この後予定、入ってたっけ」
独り言のように呟いて、ドアを押した。
ベルが、小さく鳴る。
「いらっしゃいませ」
美容師の声は、営業用の明るさではなかった。
必要な分だけ、丁寧な声。
「予約は……」
「してません」
里穂は、少しだけ、素の声で答えた。
「大丈夫ですよ」
それだけ言われて、席に案内される。
鏡の前に座る。
自分の髪は、きちんと整っている。
仕事で困らないように。
年相応に見えるように。
――でも。
「今日は、どうされますか」
その質問に、答えが出なかった。
いつもなら、即答できる。
「軽く整えてください」
その一言で済む。
でも今日は、言葉が喉で止まった。
「……分からなくて」
思わず、本音が出た。
美容師は、驚いた顔をしなかった。
「分からない日も、ありますよ」
それだけ言って、タオルを肩にかける。
里穂は、鏡の中の自分を見る。
営業用の笑顔は、もうしていなかった。
それに気づいて、少しだけ、胸が軽くなる。
ここでは、売らなくていい。
説得しなくていい。
数字も、評価も、置いていっていい。
そんな場所が、あることに、初めて気づいた。
ハサミの音が、静かに響く。
里穂は、目を閉じた。
――この店が、今日の最後の予定で、よかった。
そう思いながら。




