第25話 「名前で呼ばれる場所」
朝の通勤電車は、相変わらず混んでいた。
押される。
揺れる。
誰とも目を合わせない。
それでも、高瀬 恒一の気持ちは、不思議と落ち着いていた。
会社に着く。
エレベーターを降りると、背後から声がした。
「高瀬さん」
振り返る。
若手の社員だった。
「昨日の資料、助かりました」
「ああ」
それだけの会話。
でも、“高瀬さん”と、はっきり名前で呼ばれた。
それは、以前には、ほとんどなかったことだ。
午前中。
課長が、席にやってくる。
「次の案件なんだが」
自然に、話しかけられる。
「現場の調整、頼めるか?」
大役ではない。
出世でもない。
でも。
任された。
「分かりました」
声が、迷わず出た。
昼休み。
高瀬は、一人で弁当を食べていた。
そこへ、部下が腰を下ろす。
「一緒にいいですか」
「ああ」
仕事の話。
雑談。
取り留めのない会話。
気づけば、笑っていた。
――いつからだろう。
自分が、ここにいてもいいと、思えるようになったのは。
夕方。
ふと、ガラスに映る自分を見る。
派手じゃない。
若くもない。
でも、だらしなくはない。
ちゃんと、“ここにいる人間”だ。
帰宅。
「ただいま」
「おかえり」
妻が、キッチンから顔を出す。
「ねえ」
「ん?」
「今度さ、写真、撮り直さない?」
家族写真。
以前は、避けていた言葉だ。
「……いいよ」
自然に、そう答えていた。
夜。
風呂上がりに、スマホを見る。
予約完了の通知。
あの美容室の、次の予約だ。
理由は、もう分からない。
見た目のためだけじゃない。
そこに行くと、自分を、ちゃんと扱ってもらえる。
それだけで、十分だった。
布団に入る。
天井を見ながら、高瀬は思う。
人生が、一気に良くなったわけじゃない。
給料も、役職も、何も変わっていない。
でも。
自分の話を、聞いてもらえる場所がある。
名前で呼ばれる。
頼られる。
家に帰ると、居場所がある。
それでいい。
それがいい。
目を閉じる。
明日も、きっと同じ一日だ。
でも。
同じじゃない。
高瀬 恒一は、そう思いながら、静かに眠りについた。
⸻
第5カルテ編・完




