第22話 「変わらなかった理由」
土曜日の朝。
高瀬 恒一は、珍しく早く目を覚ました。
仕事があるわけでもない。
予定も、特にない。
ただ、目が覚めてしまった。
リビングに行くと、妻が洗濯物を畳んでいた。
「おはよう」
「おはよう」
会話は、それだけで終わる。
テレビをつけると、ニュースが流れる。
若い起業家。
成功事例。
“挑戦”。
高瀬は、音量を下げた。
「ねえ」
妻が、何気なく言う。
「昔の写真、出てきたんだけど」
テーブルに置かれたのは、一冊のアルバム。
娘が生まれた頃。
その少し前。
ページをめくる。
そこに写っている自分は、今よりずっと、表情があった。
髪型は――
ほとんど同じだ。
「この頃さ」
妻が、アルバムを見ながら言う。
「もうちょっと、覇気あったよね」
責める口調ではない。
懐かしむような声。
だからこそ、胸に刺さる。
「……そうかな」
「うん。話すとき、ちゃんと前見てた」
前。
高瀬は、何も言えなかった。
自分でも、分かっていた。
いつからか、下を向く癖がついた。
失敗しないように。
目立たないように。
傷つかないように。
昼前。
娘が、リビングを通り過ぎる。
「出かけるのか?」
「友だちと」
「そうか」
それだけ。
昔は、写真を撮ったり、送り迎えをしたり。
距離は、いつの間にか、自然に空いていた。
午後。
高瀬は、クローゼットを開けた。
スーツ。
シャツ。
ネクタイ。
全部、似たような色。
似たような形。
冒険をしなくなったのは、いつからだろう。
失敗が、怖くなったから。
評価が、下がるのが嫌だったから。
でも。
何もしなければ、評価は、上がりようがなかった。
夕方。
近所を歩く。
商店街の角に、小さな美容室があった。
ガラス越しに見える、落ち着いた内装。
若者向け、という感じでもない。
でも、敷居は低くない。
高瀬は、足を止めた。
――今さら、何を変えるんだ。
――もう、遅いだろう。
そう思う一方で。
鏡の中の自分の顔が、脳裏に浮かぶ。
下を向いたままの、あの表情。
「……変わらなかった、だけか」
呟く。
変われなかったんじゃない。
挑戦できなかったわけでもない。
変えなかった。
それだけだ。
高瀬は、深く息を吸い、美容室のドアに手をかけた。
開ける前に、一度だけ、立ち止まる。
怖い。
でも。
このまま、透明なまま終わるのは、もっと怖かった。
カラン、と鈴の音が鳴る。




