第2話 「鏡の中の、知らない私」
椅子に座ったまま、私は小さく息を吐いた。
美容室の鏡に映る自分は、いつもと同じはずなのに、なぜか今日は、逃げ場がない。
「緊張してます?」
美容師の女性――店主は、柔らかく笑った。
「……正直、はい」
「ですよね。人生を一ヶ月、預かるわけですから」
冗談めかした口調だったが、その言葉は妙に胸に残った。
彼女は私の髪を丁寧に濡らし、指で軽く梳く。
「強い天パですね。でも――」
はさみを置き、鏡越しに私を見る。
「この髪、悪くない」
思わず、聞き返した。
「……悪く、ない?」
「ええ。扱い方を知らなかっただけ」
その一言で、胸の奥に溜まっていた何かが、少しだけほどけた。
今まで、何人もの美容師に言われてきた。
「伸ばしましょう」
「まとめるしかないですね」
「この髪質は難しいです」
肯定されたことは、一度もなかった。
「篠宮さん」
名前を呼ばれ、背筋が伸びる。
「どうなりたいですか?」
どう、なりたい?
そんなこと、考えたこともなかった。
「可愛くなりたい、でもいいですよ」
少し困ったように、でも急かさずに待ってくれる。
私は、唇を噛みしめてから、正直に言った。
「……人の目を、気にせずに歩きたいです」
店主は、ゆっくりとうなずいた。
「それ、いいですね」
はさみが、動き出す。
髪が落ちる音が、やけに大きく聞こえた。
切られるたびに、不安が増すはずなのに、不思議と怖くない。
むしろ――
長年、重たい何かを削ぎ落とされていくような感覚だった。
途中、ドライヤーが当てられる。
いつもなら、ここで終わりだ。
膨らみ、うねり、広がる。
――どうせ、また。
そう思った瞬間。
「……え?」
鏡の中の髪が、指に吸い付くようにまとまった。
さらさら、と音がする。
嘘だと思った。
何度も、触った。
引っ張っても、うねらない。
広がらない。
「一ヶ月、持ちます」
店主は、さらりと言った。
「湿気の日も、雨の日も。
朝、軽く整えるだけで大丈夫です」
「……どうして」
声が、震えた。
「魔法、ですか?」
「秘密です」
彼女は、にっこり笑うだけだった。
最後に、鏡を正面に向けられる。
「……っ」
言葉を、失った。
そこにいたのは、私がずっとなりたかった“私”だった。
顔の輪郭が、はっきりしている。
目が、ちゃんと前を向いている。
髪が、私を邪魔していない。
「……私、こんな顔、してたんだ」
ぽつりとこぼすと、店主は、少しだけ視線を伏せた。
「みんな、そう言います」
会計を済ませ、店を出る。
夕暮れの空気が、やけに澄んで見えた。
駅へ向かう道。
――視線を、感じる。
気のせいだと思った。
でも、一人じゃない。二人、三人。
すれ違った男性が、振り返った。
胸が、どくんと鳴る。
「……あ」
初めてだった。
見られる側になったのは。
電車の窓に映る自分を見て、
私は、そっと笑った。
この一ヶ月で、
私の人生は、どこまで行けるんだろう。
そんなことを考えながら、私は、明日の仕事を……少しだけ、楽しみにしていた。




