第15話 「それでも、前へ」
翌朝。
橘ひとみは、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
頭は、驚くほど静かだった。
夢は見た気がする。
でも、内容は思い出せない。
それでよかった。
鏡の前に立つ。
昨日と同じ髪。
同じ顔。
でも――
どこか違う。
胸の奥に、張りついていたものが、少しだけ剥がれている。
「……行くか」
仕事へ向かう足取りは、いつもと変わらない。
誰かが急に優しくなるわけでもない。
世界が劇的に変わるわけでもない。
でも。
「橘さん」
昼前、上司が声をかけてきた。
「来月から、新人の引き継ぎ、お願いしてもいい?」
一瞬、言葉に詰まる。
「……私で、いいんですか」
「前から君のことは、ちゃんと見てるよ」
それだけ。
大きな評価じゃない。
拍手もない。
でも。
“信頼”だった。
「分かりました」
自分の声が、逃げていないことに気づく。
昼休み。
スマホを見ると、同窓会のグループ通知が溜まっていた。
懐かしい名前。
他愛のない写真。
少し前の自分なら、即、ミュートしていた。
今は――
画面を閉じるだけで済んだ。
午後。
仕事を終えて、帰り道。
気づけば、あの美容室の前に立っていた。
予約はしていない。
でも、迷いもなかった。
カラン、と鈴。
「いらっしゃいませ」
いつもの声。
「今日は?」
「……切らなくていいです」
ひとみは、少しだけ笑った。
「報告だけ」
「はい」
椅子に座る。
鏡に映る自分は、昨日と同じはずなのに、少しだけ、柔らかく見えた。
「行ってきました」
「どうでした?」
「……終わりました」
美容師は、それ以上、聞かなかった。
「もう、逃げなくていい気がしてます」
「それは、いいですね」
特別な言葉は、ない。
でも、それで十分だった。
店を出るとき、ひとみは、ふと思った。
過去は、なくならない。
忘れもしない。
でも。
それに縛られて立ち止まる必要も、もうない。
夕暮れの中を、ひとみは歩く。
背中は、少しだけ伸びていた。
誰かに許されたからじゃない。
世界が優しくなったからでもない。
自分で、前に進んだ。
それだけで、十分だった。
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第3カルテ編・完




