第12話 「名前を呼ばない距離」
同窓会の案内状は、机の引き出しの奥に入れたままだった。
見なければ、なかったことにできる。
橘ひとみは、そうやって生きてきた。
会社では、必要以上に喋らない。
昼休みも、一人。
誰かと仲良くなれば、いつか、過去を聞かれる。
それが、怖かった。
「橘さん」
声をかけられて、ひとみは顔を上げた。
後輩の女性社員だった。
「来月の同窓会、行くんですか?」
――来た。
「……なんで、それ」
「担任に聞いたんです。同じ高校だって」
ひとみは、一瞬だけ言葉を探す。
「行かないよ」
即答だった。
「そうなんですね」
後輩は、それ以上踏み込まなかった。
でも。
「……昔、仲良かった人とか、いないんですか?」
悪気のない、純粋な質問。
ひとみは、視線を落とした。
「……さあ」
仲が良かった、なんて。
簡単に言える関係は、一つも思い出せなかった。
その夜。
引き出しを開けて、案内状を取り出す。
懐かしい名字。
忘れたはずの名前。
見た瞬間、胸の奥が、少しだけ重くなる。
あの頃、よく言い合った相手。
似ていたから、ぶつかった。
どちらも、引かなかった。
どちらも、弱さを見せなかった。
結果、周りが騒ぎ、空気が歪んだ。
誰が悪いと、はっきり言えないまま。
関係だけが、終わった。
「……今さら」
声に出してみる。
許されたいわけじゃない。
忘れてほしいわけでもない。
ただ。
逃げ続けている自分が、少しだけ、嫌になった。
週末。
ひとみは、あの美容室の前に立っていた。
予約は、していない。
でも、足が、自然と向いていた。
カラン。
「いらっしゃいませ」
同じ声。
「あ……この前の」
「はい」
それだけで、思い出してくれたことが分かる。
「今日は?」
聞かれて、ひとみは、少し考えた。
「……整えたいです」
「髪?」
「……気持ち、かも」
自分で言って、少し苦笑する。
「変えたいんじゃなくて」
続ける。
「誤魔化したくないだけで」
美容師は、鏡越しにひとみを見る。
「何か、ありますね」
「……あります」
それ以上は、言わない。
言えない。
でも。
「行くかどうか、まだ決めてない場所があって」
「はい」
「行ったら、何も変わらないかもしれない」
「はい」
「でも、行かなかったら――」
そこで、言葉が切れた。
美容師は、静かに言った。
「後悔するかもしれませんね」
断定じゃない。
でも、否定でもない。
ひとみは、小さく息を吐いた。
「……そうなんです」
髪を整える音が、ゆっくりと流れる。
大きくは変わらない。
でも、輪郭が、はっきりしていく。
「……」
鏡の中の自分は、相変わらず強そうだった。
でも。
以前より、逃げ道を作っていない顔をしている。
「名前を呼ばれたら、ちゃんと返事できるくらいには」
ひとみは、ぽつりと言った。
「それで、いいと思います」
美容師は、そう答えた。
帰り道。
案内状を、鞄に入れ直す。
行くかどうかは、まだ決めていない。
でも。
逃げるために、捨てることはしなかった。




