第11話 「逃げないための椅子」
橘ひとみが、その美容室を見つけたのは、予定より一本、電車を逃した帰り道だった。
用事があったわけじゃない。
ただ、早く家に帰りたくなかった。
ガラス越しに見えた店内は、妙に静かだった。
派手なポスターも、流行りの音楽もない。
――こんなところ、入る気じゃなかったのに。
気づいたときには、ドアを押していた。
カラン、と鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
女性の声。
年は、自分より少し若いだろうか。
落ち着いた目をしている。
「あ……カット、お願いできますか」
ひとみは、できるだけ感情を乗せずに言った。
「はい。どうぞ」
それだけ。
理由も、世間話も、聞かれない。
それが、少しだけ楽だった。
椅子に座る。
鏡に映った自分は、相変わらず、地味だった。
黒髪をひとつに結び、無難な服。
昔の自分を知っている人が見たら、気づかないかもしれない。
「今日は、どうされますか?」
その問いに、ひとみは、少しだけ言葉に詰まった。
どうしたいか。
それを考える癖が、もうなかった。
「……短くしてください」
「どれくらい?」
「……仕事に差し支えないくらいで」
美容師は、少しだけ首を傾げた。
「それは、“なりたい”じゃなくて“困らない”ですね」
図星だった。
ひとみは、視線を逸らす。
「困らなければ、いいんで」
「本当に?」
責める声じゃない。
ただ、確認するみたいな声。
「……」
ひとみは、答えなかった。
過去のことを、話すつもりはない。
でも。
来月、同窓会がある。
顔も見たくない名前が、案内状にあった。
逃げたい。
でも、逃げ切れない。
「……ちょっとだけ」
自分でも驚くほど、小さな声が出た。
「逃げない感じに、してください」
美容師は、それ以上、踏み込まなかった。
「分かりました」
ハサミの音が、一定のリズムで響く。
髪が、肩に落ちていく。
昔は、切られるたびに、何かを失う気がしていた。
今は――
ただ、静かだった。
「強い目、してますね」
ふいに言われて、ひとみは、鏡を見る。
「……そうですか」
「はい。隠してるだけで」
胸の奥が、少しだけ、ざわついた。
仕上がった髪は、派手じゃない。
でも。
逃げてもいない。
鏡の中の自分は、下を向いていなかった。
「……これで」
ひとみは、立ち上がる。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
店を出る前、ふと、足を止めた。
この椅子に座った理由が、まだ、はっきりしない。
でも。
逃げないために、ここに来た。
それだけは、確かだった。
外の空気は、思ったより、冷たくなかった。




