第10話 「前に進んだ、その先で」
電話が鳴ったのは、
面接から三日後のことだった。
夕食の支度をしている最中。
フライパンの火を止め、
真理子は、少しだけ深呼吸してから出る。
「……はい」
『真理子さんですね。先日は、ありがとうございました』
あの声だと、すぐに分かった。
『社内で話し合った結果……ぜひ、来ていただきたいと思います』
一瞬、音が消えた。
「……はい?」
『週三日からで構いません。お子さんのことも、最優先で』
真理子は、ぎゅっとスマホを握りしめた。
「……ありがとうございます」
声が、少し震えた。
『こちらこそ。長く、続けてくれたら嬉しいです』
通話が終わったあと、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
――決まった。
小さくて、確かな一歩。
「ママ?」
男の子が、不安そうに覗き込む。
「……決まったよ」
「なにが?」
「お仕事」
一瞬の間。
「やったー!」
思いきり抱きつかれて、真理子は、思わず笑った。
「ママ、すごい?」
「すごいよ」
それは、誰かに言ってほしかった言葉でもあった。
初出勤の日。
真理子は、少し早めに家を出た。
鏡の前で、髪を整える。
迷いなく、手が動く。
もう、“どう見られるか”ばかり考えていない。
「行ってきます」
玄関でそう言うと、男の子は元気よく手を振った。
「いってらっしゃい!」
職場は、小さな会社だった。
派手さはない。
でも、人の声がちゃんとする。
「真理子さん、こちらお願いします」
名前で呼ばれる。
それだけで、背筋が自然と伸びた。
昼休み。
同僚の女性が、ふと笑った。
「真理子さん、雰囲気、いいですね」
また、だ。
でも今度は、照れずに言えた。
「ありがとうございます」
帰り道。
夕焼けの中を歩きながら、真理子は、ふと思う。
もし、あの日、あの美容室に入らなかったら。
きっと、同じ場所で立ち止まっていた。
夜。
久しぶりに、あの路地裏を通った。
木目の扉。
控えめな看板。
カラン、と鈴が鳴る。
「……あ」
店主は、すぐに気づいた。
「その後、どうでしたか?」
真理子は、少し照れたように笑う。
「……働き始めました」
「そうですか」
それだけで、十分だった。
「もう、大丈夫そうですね」
「はい」
真理子は、鏡に映る自分を見る。
癖は、少し戻ってきている。
でも、それはもう、敵じゃない。
「……あの」
帰り際、真理子は言った。
「ありがとうございました」
店主は、静かに答える。
「頑張ったのは、あなたです」
扉を出て、夜の空気を吸い込む。
真理子は、自然と背筋を伸ばして歩き出した。
その姿を、店主は、少しだけ長く見送った。
また一人。
人生が、自分の足で動き始めた。
次の扉を叩く人は、どんな想いを抱えているだろう。
店主は、静かに明かりを落とした。
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第2カルテ編・完




