”妖精の悪戯”なら仕方がない
ネタ被りあったらごめんなさい。
よろしくお願いします。
トリシヤは日々を絶望して生きてきた。
ヤーリデン伯爵家の長女として輝かしい生を受けたはずなのに、
「いやだ・・・お義母様そっくり!」
自らの腹を痛めて産んだ娘の髪と瞳の色を見て、忌々し気に吐き捨てた母。
「母上と同じ瞳の色で見られると気分が悪くなる」
言葉がわかるようになったトリシヤに向けて、憎らし気に呟いた父。
薄灰色の直毛に深紅の瞳は、トリシヤの両親が毛嫌いする前伯爵夫人とまったく一緒だった。
前伯爵夫人は”淑女の鑑”と称されるほど立派な貴婦人であり誰よりも厳格な人柄で知られ、子供たちはもちろんその伴侶となる者たちにも何かにつけ厳しく叱咤し、等しくヤーリデン伯爵家の名に恥じぬ知識と教養を身に付けさせた。
そんな今は亡き前伯爵夫人を誰よりも疎み憎んでいた彼らにとって、トリシヤは忌々しい存在でしかなかった。それでも、トリシヤのみが伯爵家の唯一の血統を受け継ぐ者であるうちはよかった。
トリシヤが3歳の頃、妹のマデリーンが生まれてからが本当の地獄の始まりだった。
母親とよく似た顔立ちに父親と同じエメラルドグリーンの瞳をして生まれてきた愛らしい天使のようなマデリーン。両親はもちろん、伯爵家に仕える者みながたちどころにマデリーンの虜となった。
両親の溢れんばかりの愛がマデリーンにのみ注がれる一方、4歳となった誕生会など開かれることもないトリシヤは、その日からすべての食事を自室で一人で摂るようにと決められた。
トリシヤ付の侍女はひとりのみ。
前伯爵夫人付きであった侍女で、前伯爵夫人とそっくりな厳格で融通の利かないその老女は、幼いトリシヤにも容赦なくマナーや勉強を徹底して教え込み、子供らしい遊びはおろか勉学以外の読書すらも禁じるような人だった。
「貴女様は、ヤーリデン伯爵家の御長女様。それをしかと胸に刻み、弱音も甘えも誰にも見せてはなりません。常に伯爵家の益となるべく生きるのです。そして、お婆様のような、どなたにも引けを取らぬ”淑女の鑑”とならなくては」
トリシヤが少しでも間違えたり、粗相をすれば容赦なく躾鞭で背中を叩かれた。時には痛みで眠れぬ夜を過ごしたが、そうして泣くことすら“甘え”と断じられた。案じてくれる者も誰もいなかった。
そんな厳しい侍女でも、まだいてくれるだけマシだったといえる。トリシヤが10歳のとき、その侍女が倒れ、間もなく老衰で亡くなると、
「我々はマデリーンお嬢様のお世話で忙しいので、食事は厨房まで自分で取りに来てください」
トリシヤをぞんざいに扱う侍女長の姿に、配下の侍女たちはもちろん、料理人や下男までも追従するようになるのは時間の問題だった。
食事はもちろん衣類の支度やベッドメイキング、部屋の掃除に至るまでトリシヤの世話をする者はいなくなってしまった。
「お父さま・・・!どうか、私にも新しく専属の侍女を付けてください・・・!」
裏庭をマデリーンと仲良く散歩していた父の伯爵になんとか直談判したトリシヤ。このころはまだ、わずかな希望を抱いていたのだ。
(お父さま・・・きっと今の私がどういう環境にいるのかわかっていらっしゃらないだけだわ!こんな格好の娘を見れば、どれほど嫌いなおばあ様にそっくりでも、きっと改善してくださるはず!)
よれて皴だらけの不格好なデイドレスに、質素に一つ結びとなったほつれ髪のトリシヤに、伯爵は目を見張って大声を張り上げた。
「まだコレを我が屋敷に住まわせていたのか!なんと汚らわしい!どこぞ離れにでも放り込んでおけっ」
「・・・は!只今、旦那様!」
「え?や、痛っ・・・やめて!離して!お、お父さまっお父さま!!」
家令の指示ですぐさま現れた大柄な下男に引っ立てられるようにして連れていかれるトリシヤに、伯爵は苦虫を嚙み潰したように顔をしかめた。
「アレの顔を見ずに平穏に暮らしていたというのに・・・まったく忌々しい」
「おとうさま?あの女の子は?」
「ああ、可愛いマディ。お前が気にすることはないんだよ」
「?はあいおとうさま!」
既にこちらを見向きもしない父であるはずの伯爵。自分を姉とも知らないであろう無邪気な笑顔のマデリーン。トリシヤはすがるように周りを見渡して、2階の窓辺から扇子で口元を隠しこちらを見下ろす貴婦人に気づいた。
「あ、おかあさま・・・お母さま!!お母さま助けっ」
トリシヤが必死に紡ごうとした救いの言葉は最後まで続かなかった。閉じられた扇子の先、その美しい顔がさも満足げに微笑みを浮かべていたからだ。幼いトリシヤにもわかる。あれは明らかな”嘲笑”。
父に罪人のように扱われたトリシヤを、母の伯爵夫人は一部始終見ていたうえで、きっと誰よりもトリシヤの現状を喜んでいるのだろう。
途端に全身から全ての力が抜けたトリシヤが、そのまま担がれるようにして連れていかれたのは屋敷から離れた、林に囲まれ蔦まみれで廃墟のような”離れ”だった。
「前伯爵様の愛妾が暮らしていた別宅だ。なんでも前伯爵夫人が愛妾の存在を疎んじて密かにこの離れで暮らしていた者全員毒殺したという曰くつきのな!夜な夜な白い炎があっちこっち飛び回っているらしい」
「恐ろしくて誰も近寄りたがらねぇ!」言葉とは裏腹に愉快そうに笑う下男は、トリシヤに今日からここで暮らすようにと言い残してさっさと帰って行ってしまった。
通常のトリシヤなら恐ろしくてすぐさま逃げ出すところだろうが、それ以上に今しがた久しぶりに会ったはずの両親の自分を見る目に、態度に心が壊れそうになっていた。
「私が・・・おばあ様の目と髪の色で、生まれてきたから?それで?それだけのことで、こんな仕打ちを受けなければならないの・・・?」
ポロポロと涙がとめどなく零れる。彼女を案じてくれる者など当然ながらどこにもいない。両親から見放され、ひとりこんなところに捨て置かれたトリシヤの心に真っ黒な絶望が生まれ落ちた瞬間だった。
*******
マデリーンは生まれた時からこの世の誰よりも幸せになることが定められたような女の子だった。
ハニーブロンドのふわふわと柔らかな髪に、父親譲りの宝石のようなエメラルドグリーンの瞳。母親に瓜二つのその端正な顔立ちでニッコリ微笑めば、誰もがどんな無理をしてでも願いを叶えたくなる、そんな天性の魅力がマデリーンにはあった。事実、マデリーンがおねだりすれば大抵のことが望み通りになった。
”ヤーリデンの天使”いつからかそう呼ばれるようになったマデリーンには、3歳年の離れた姉がいる。
一緒に暮らしているわけではなく、10歳の頃から”離れ”でひとり暮らしているという姉・トリシヤ。
会ったのは一度きり。晴れた庭園を父と仲良く散歩していた時に突然共も付けずに現れた姉の姿を、マデリーンは今も鮮明に覚えている。
「おとうさまぁ、マディのお姉さまって、いまも”離れ”で暮らしてるのぉ?」
12歳になったマデリーンは、今でも自分のことを愛称で呼び、舌足らずで幼げな話し方をする。
”貴族令嬢としてふさわしくないのでは”と家庭教師が苦言を呈してきたが、すぐさま父の伯爵に泣きついて、即刻解雇してもらった。それから似たようなことを言う者が新たに続いたが、最初の家庭教師同様追い出してやった。
今マデリーンを教える家庭教師とはとても仲良くしている。どんなにマデリーンが勉強せずに遊び惚けていても叱らず笑っていて、なんなら一緒に買い物や観劇に付き合ってくれる優しい家庭教師だ。
あまり美人ではなく、貧乏な男爵家出の出戻り女な故か、常にマデリーンの顔色を窺っているところが好ましく、小心者のくせに他人の陰口をするのが大好きなところも気に入っていた。
「ああ・・・心優しいマディ。アレのことは気にしなくていいんだよ。一人ぼっちでいるのが好きで、使用人にもつらく当たる心の醜い娘だから、ああして”離れ”で暮らしているんだ」
「まあ、そうなのですかぁ?」
父親の言葉が真実ではないことをマデリーンは既に知っている。トリシヤが両親の大嫌いな祖母と同じ髪と目の色をしているからと疎まれ、侍女も下男も付けずにあんな恐ろし気な”離れ”に嬉々として住まわせていることも。気に入りの家庭教師をはじめ、マデリーン付きの侍女たちが楽し気に教えてくれた。
しかしそんなことはマデリーンにとっては些末な事である。マデリーンは哀れな境遇の姉とは違い、両親から大層大事に愛され可愛がられ、何不自由ない幸せな生活を送ることが出来ているのだから。聞きたいのは、そんなことではない。何故、そんな疎ましい姉を育ててやっているのか、という事だ。
(顔も見るのも嫌なら、さっさとどこかに売り払っちゃうか、始末しちゃえばいいのに・・・)
何不自由ない裕福な伯爵令嬢として生活するマデリーンの唯一の不満は、自分に上がいることである。どれだけ酷い境遇だろうと生きた姉がいることが、マデリーンは我慢ならない。
ヤーリデン伯爵家の長女は幼い頃から持病持ちで長らく”離れ”で療養中である、と広く巷では認識されており、マデリーンがどれほど”ヤーリデンの天使”と持て囃されようとも、彼女はあくまで次女なのだ。そんな不満はもちろん”天使”なマデリーンが父の前で口に出すことはしないが、そこは腐っても血の繋がった肉親、全てを承知したように鷹揚に頷くと、
「アレはねマディ?お前の嫌な事をやらせるための便利な道具なんだよ」
「べんりなどうぐ?」
「そう。私の愛おしいマディは、あまりお勉強が好きではないだろう?」
「っ・・・好きじゃないっていうかぁ、本当はできるからついつい後回しにしちゃうだけだもの!」
「ふふ、もちろんだ。マディは私たちに似てとっても賢い子だからね?だがこの先、マディが女伯爵としてヤーリデンの当主となった時、色々煩わしいことを代わりに出来る者が必要だろう?」
「あ!」
父の悪戯っ子のような瞳に、マデリーンも同じ色の双眸を輝かせた。
「だからね?あれには必要最低限の衣食住を与え、勉強だけは誰よりも出来るよう厳しい教師も派遣している。お前が大きくなっても、今の通り好きなことだけ出来るように、幸せな人生を送れるように」
「お、おとうさまぁ!あのねあのねぇ、マディそしたらぁ他の貴族令嬢たちみたいに、お家の為の政略結婚もしなくてい~いぃ?」
「もちろんだとも!そんなものはそれこそアレに任せたらいいんだ。なんたって我が伯爵家の長女だからね」
「まあ!うふふ!おとうさまぁだあいすきぃ!!」
満面の笑みを浮かべたマデリーンを高い高いして、その場でくるくると伯爵は上機嫌に回ってみせた。
マデリーンは誰よりも幸せな貴族令嬢であった。
その後も、15歳以上の高位貴族は王都の王立学園に通わねばならなかったが、”姉の看病がしたいから”とマデリーンは進学を拒否した。シンプルに学力が全く足りなかっただけであったが、その話は瞬く間に美談として王都中を駆け巡り、感激した国王の差配により、半年に一度の定期試験をクリアすれば学園生であることを認めるという特例が出された。マデリーンと伯爵夫妻は当然のようにトリシヤを替え玉にして試験を受けさせた。
瞳と髪の色を同じくすれば姉妹の顔立ちはよく似ている。3歳差とはいえ幼い頃から乏しい食事しか与えられていなかったトリシヤは、マデリーンと同じくらいの背格好であり、マデリーンを演じさせるのは容易だった。
暴力まがいのスパルタ教育を受けてきたトリシヤは毎度満点の成績を叩き出し、マデリーンの評判は何もせずとも上がっていった。
ヤーリデン伯爵家の財政事情も同じく良好なものとなっていた。あまり領地経営などが好ましくない父に執務の大半をトリシヤが押し付けられるようになってからだ。日の上がる前から皆が寝静まる夜更けまで、馬車馬のように酷使され、それでもトリシヤが寝ることを許されるのは曰くつきの“離れ”のみであったが。
「マデリーン・・・君のように心身ともに美しくまっさらで、その上聡明な女性を妻と出来たら、僕はどれほどの果報者だろう」
「あ、王子様ぁいけませんわ、そんな・・・マディ、こんなことはじめてで、恥ずかしいぃ」
「すまないマディ・・・君のあまりの可愛さに僕は我を忘れてしまいそうだよ」
王立学園2年次にもなると、当初の設定も忘れたように、マデリーンは自分の好きな時に気ままに学園に顔を出すようになっていた。
先月の試験でも相も変わらず満点で首席の成績を収めたマデリーンを咎める者など誰もいない。それどころか、こうしてたまにしか現れない”天使”と交流を持とうと、様々な男子生徒が、人知れずマデリーンと二人きりになりたがる。
有力貴族の子息はもちろん、最近ではこの国の第一王子までがマデリーンに魅了されていた。
第一王子と同じく婚約者がいる者も多いが、純真無垢なマデリーンを前にして、ついつい“真実の愛”なるものを唱えだす輩は後を絶たない。
(王子のお妃かぁ・・・今よりもっと贅沢できそうだけど、さすがにお姉さま一緒に連れてけないしなぁ)
どれだけ高貴で美青年でも婿に取れる男でなければ、マデリーンの今まで通りの幸せは続かない。マデリーンなりに妥協点を探している最中である。
とはいえ、こうしたほどほどの戯れは楽しいので止められない。初心な振りをして数多の男子生徒を手玉に取るマデリーンは、第一王子の腕の中から健気な風情で見上げると、たまらないとでもいうように第一王子が顔を近づけてきた。次の瞬間、
グチュウッ・・・と唇、どころか顔全体にねっとりへばりつくような感触。慌てて開こうとした瞼もなにかに塞がれて開けられない。
「は・・・って、くっっっさあああ!!!」
「へべ、べむっ!??」
先ほどまでの甘い雰囲気はどこへやら、第一王子の渾身の叫びが鼓膜が破れるような近さで発せられた。それと同時に手が振りほどかれる。何もわからないマデリーンは勢いのまま床に倒れるしかなかった。
(くさ、は?くさい??臭いって言ったこの王子!!?なにが、なんで、まさかわたしが??!ていうかこの男わたしを突き飛ばしたわね!??)
「はぐぐ、ぐべ、べっべべっ!!」
文句を言おうと口を開こうにも瞼と同じく何かに遮られてうまく言葉が発せられない。それどころか段々呼吸すら苦しくなってきた気がする。
(なになになんなの!??口も目も、鼻の穴も何かネットリしたのに塞がれてる!!苦しい何よこれ一体急に何が、)
パニックに陥るマデリーンを尻目に、周りに続々と人が集まってきた。どうやら第一王子の奇声が聞こえたのだろう。
「どうされました殿下!くさっ!!!と、これは・・・!!」
「殿下・・・一緒にいらっしゃるこの方は、マデリーン嬢!?」
「何故殿下とマデリーン嬢が・・・いや!それよりも彼女の顔のこれは」
「この壮絶な鼻がもがれるような匂いはもしや・・・テェあドダッドwぇヌのパイ!」
「なんと!まさかあのテェまヤツッツア$ヌの肝を砂糖漬けにしてサワークリームと一緒に包んだというあの!」
「世界最大の珍味と言われるティドヤッパツ§Δアの肝の砂糖漬けを使ったパイ・・・ということはまさか!」
「「「“妖精の悪戯”がマデリーン嬢に・・・!!」」」
(さっきから全員言えてないソレなによっっ!!!)
―テェヤドダッドェッツエンヌのパイ。それは妖精の大好物である。
大陸一の大きさを誇るセンネル湖にのみ生息する幻の超巨大魚・テェヤドダッドェッツエンヌ。
虹色模様の鱗を持つその魚の肝は強力な毒を持ち、砂糖漬けにすることで古代の人々はそれを食したという伝承があり、“世界最大珍味”としても有名である。
そんな砂糖漬けした肝をサワークリームと和え発酵させ包み焼きにした大変な激臭漂わせるパイは、万物の事象一切を動かしていると信じられている”妖精”が愛してやまない好物であり、それを妖精たちに献上することで、古代の人間たちは”魔法”を扱うことが出来ていたのだという。
現在の世界で魔法を扱えるのはごく限られた一部の人間のみであり、“妖精の好物”テェヤドダッドェッツエンヌのパイを知らぬ者も少なくはない。
しかし、それは確かな史実であり、今現在も“妖精”がこの世界のありとあらゆる事象を動かしているのは紛れもない事実なのである。
そんなテェヤドダッドェッツエンヌのパイ、ごくごく稀にソレを顔面目掛けて投げ付けられる者が現れることがある。
回数はまちまち。状況も十人十色。どこからともなくその場の雰囲気も何も一切考慮せずに出現したテェヤドダッドェッツエンヌのパイが顔にめり込まれている。
誰も理由はわからない。誰が、どんな意図で、なんのために。古代から度々発生するこの摩訶不思議な事象を、いつしか人々はこう捉えるようになった。
“妖精による悪戯”であると。
古代から“妖精の大好物”と知られているとはいえ、人間にとってはあまりにも臭いテェヤドダッドェッツエンヌのパイ、それを突然なんの前触れもなく顔面に投げ込まれているのだから、これが妖精の仕出かした悪戯以外のなんであるというのか。
テェヤドダッドェッツエンヌのパイを食らう人間に貴賤の別はない。時には王族の人間もいたのだという。だからといって誰に怒りを向けることもできない。なぜならこれは万物の事象に干渉する”妖精”の仕業なのだから。
「・・・だからぁ、仕方ないってぇ?」
「そうだ“妖精の悪戯”なら仕方がない・・・昔からトあyデッゥテン〇ヌのパイを投げられた者は等しく諦めるしか術はないんだよ」
「そうよ、どれだけ臭かろうと、どれだけ汚かろうと、テッデ%ンうRッエヌムのパイを避けることが出来た人間はいないの。どれほど高貴な、それこそある国の王様が幾重にも厳重な王宮の中、何十人もの兵士に守らせてもパイが顔面に投げ込まれるのを防げなかったというの・・・“妖精”が飽きてくれるまでは」
「おとうさまもおかあさまもぉ全っ然言えてないんだけどぉ」
マデリーンは額に青筋立てながらも、なんとかいつもの“天使”な笑顔を浮かべていた。内心どれほど怒りにのたうち回っていようとも。
学園にて、テェヤドダッドェッツエンヌのパイまみれのマデリーンと第一王子の密会場所に現れたのは、どれも第一王子の側近候補である高位貴族令息な男子生徒で、全員と過去に戯れた事があったマデリーンは、深く追及される前にさっさと自家の馬車に乗り込んで帰ってきていた。そんな聞いたこともない“悪戯”のせいで、危うくマデリーンはそれぞれと戯れていたことが明るみになる所だったのだ。怒りが収まらないのも仕方がなかった。
ちなみに三人とも手早く湯あみを済ませた後である。マデリーンと同じころ、場所が離れていたにしろ、両親にも“妖精の悪戯”が起きていたらしい。父は王宮にて出仕中、母は侯爵夫人主催のお茶会の最中であったとか。ヤーリデン伯爵家の三人が揃ってテェヤドダッドェッツエンヌのパイを顔面に投げ込まれたことは、瞬く間に貴族の間に知れ渡ることとなった。
「“妖精”が、飽きるまでぇ?それってぇいつなのおかあさまぁ?」
「わからないわ・・・たった一度の事もあるし、一年以上続いた人も過去にはいたとか」
「い、いちねん・・・!?」
「頻度もわからない。数か月開くこともあれば、日に何度もパイの餌食になることも」
「そ、そんなぁ・・・」
どれだけ途方に暮れようと、マデリーン達には為す術もなかった。なぜならそれが“妖精の悪戯”なのだから。
それから、マデリーンの幸せな日々は劇的に一変した。
朝の目覚めと共にテェヤドダッドェッツエンヌのパイが顔面にめり込む日もあれば、楽しい買い物の最中、店で一番高価なネックレスを付けようとした瞬間、テェヤドダッドェッツエンヌのパイに視界も何もかも遮られている日もあった。伯爵令嬢といえど、他の客の迷惑になるからと即座に退店させられた。
父と母も同じらしい。伯爵家の家令や侍女長、マデリーン付きの家庭教師もマデリーン達より少ない頻度とはいえ、何度かテェヤドダッドェッツエンヌのパイを食らったと聞く。
気ままに顔を出していた王立学園でも変わらず、マデリーンはテェヤドダッドェッツエンヌのパイを無差別にお見舞いされた。“妖精の悪戯”をされるマデリーンに近づく者はいなくなった。当然誰か都合の良い男子生徒と戯れるなんて出来ようもない。
「し、仕方ないよ“妖精の悪戯”なんだから」
逃げ腰でマデリーンの手を振り払った第一王子が言った。あの鼻がもげるような匂いを二度と間近で味わいたくないというのか、マデリーンは恨めしげに奥歯を噛み締めた。
真相を言うと、側近候補たちと第一王子の間で“天使”について認識の齟齬をすり合わせた結果、既に彼らにとってマデリーンは関わるべきではない存在と判断されていただけのことである。しかし、彼らを手玉に取っていたマデリーンを糾弾する資格は婚約者持ちの彼らにあるはずもなく、彼ら以外とろくな交流を持っていなかったマデリーンにも知る由もない。
なんの規則性もないといわれている“妖精の悪戯”ではあるが、対象者に関していえばある法則を唱える者は一定数いる。
それは“妖精の悪戯”に遭う者は、“妖精”が気に入った誰かしらに何らかの損失を与えているということ。“妖精の悪戯”に遭う者は相応の行いを誰かにしている、という推測である。
普段は人の目に触れることなく、姿を現すことも滅多にない“妖精たち”は、基本的に人間に無関心で、人間たちがどれほど愚かな行いをしても頓着することもない。
しかし時折“妖精”の存在に気付く人間がいる。そうした人間は“妖精たち”に興味を持たれ、気に入られた希少な存在として、“妖精の愛し子”などと呼ばれることもあるという。そんな人間に故意にしろ無意識にしろ、害なす存在と見做された故“妖精たち”が悪戯を仕出かすのだと。
「そんなのっひとりしかいないじゃない!!」
顔を真っ赤にして詰め寄るいつもの“天使”とは程遠い形相をしたマデリーンに、ベッドに臥せった父の伯爵はげんなりと溜息を吐いた。
ヤーリデン伯爵家の者が“妖精の悪戯”に悩まされるようになって一月近く。貴族たちには距離を取られ、どこか白い目で見られるようになった。
外出先で幾度となくテェヤドダッドェッツエンヌのパイを顔面に投げ込まれたため、馴染みの店や劇場はどこも出入り禁止となり、訪ねてくる商人もパッタリいなくなった。暇を申し出る使用人も半数以上に及び、今屋敷に残っているのは、同じくテェヤドダッドェッツエンヌのパイをお見舞いされた者達ばかりである。
母の伯爵夫人は自室に籠って誰にも会いたがらず塞ぎ込んでおり、時折“妖精の悪戯”による金切声が上がる以外に生存確認が出来ていないような始末。
父の伯爵もまた、先日書面にて当面の間王宮への出仕は控えるようにと命じられ、気鬱に寝込むようになったところだった。ひとり納得いかず元気に怒り狂っているマデリーンだが、父の伯爵には愛娘の願いを叶えてやることは出来なかった。
「お姉さまをどうにかしてよっ!!そしたらこんなパイッ!!!?」
言った傍からマデリーンの顔面がテェヤドダッドェッツエンヌのパイまみれになっている。途端に充満する激臭に慌てて使用人を呼ぶべく呼び鈴を鳴らしても駆けつける者はいない。父の伯爵は忸怩たる思いでいっぱいだった。
「それだけは認めてはならない・・・トリシヤが“妖精の愛し子”であると知られれば、ソレにどんな仕打ちをしてきたかが明るみになるのと同義なんだ・・・そのときは、こんな“悪戯”では済まされない、真にこのヤーリデン伯爵家の破滅の時なのだ」
「っ、ぞむ、ぞむなこどっでぇ!!」
マデリーンは悔しさで涙がこぼれるかと思った。顔面に受けたテェヤドダッドェッツエンヌのパイのせいで、涙腺は見事にせき止められていたが。
以前の華やかで賑やかだった伯爵邸とは思えないほど、どんよりと空気が淀み、静まり返った廊下を歩く。
(なんでよ・・・なんでこんなことに・・・ずっと幸せだったのに、ずっと楽しい事ばっかりだったのに)
現実を受け入れられずふらふらと当てもなく徘徊していたマデリーンは、気づけば屋敷から出て姉が一人きりで暮らす”離れ”に来ていた。
林に囲まれた薄暗く蔦まみれの廃墟のような”離れ”の館。かつての伯爵当主の愛妾が隠れるように暮らしていたが、愛妾の存在を疎んだ伯爵夫人が”離れ”に暮らす全員を悋気に任せて毒で皆殺しにしたと伝えられる。
それ以来人が住むことはなく、代わりに夜な夜な白い炎が館のあちこちを飛び回るようになった、まさに”幽霊屋敷”。
「愛妾憎さに皆殺しとか・・・それのどこが”淑女の鑑”よ、おばあ様」
マデリーンは鼻で嗤った。
誰よりも厳格で恐ろしかったという前伯爵夫人。そんな祖母を毛嫌いしていた両親。その両親と血がつながっているにも関わらず祖母と同じ髪と瞳の色に生まれただけで疎まれ虐げられ搾取されるばかりだった姉。どいつもこいつもろくなものではない。
「わたしだけ、わたしだけがまともだったのに。なぁんにも悪いことしてないのにぃ」
”ヤーリデンの天使”と持て囃され、誰よりも愛らしく誰より幸せになるはずだったマデリーンは、突如”離れ”の玄関を蹴破るようにして押し入った。
「ひとりぼっちの嫌われ者のおねえさまぁ!あんたのせいよ!!アンタがいるからこんなわけわかんない意味不明な理由でわたしの幸せが壊れそうになってんの!滅茶苦茶になろうとしてんの!!!出てってよ!!今すぐ伯爵家から出てってよこの疫病神ぃぃぃっ!!!」
ドン!!と。
顔面に勢いよくめり込んだテェヤドダッドェッツエンヌのパイ。それでも尚マデリーンが叫ぼうとするのを遮るように、ドン!ドン!!ドドドドドドドドド!!!とめどない大量のテェヤドダッドェッツエンヌのパイが絨毯爆撃よろしくマデリーンの身に襲い掛かった。
「・・・なんだ、これは」
”離れ”の玄関ホールに突然現れた空間転移の魔方陣から姿を現したとある青年は、空気を歪ませるほどの悪臭にまみれ、テェヤドダッドェッツエンヌのパイの小山から両足だけ飛び出たナニかの姿を目撃し、鼻を摘まみながら首を傾げたのだった。
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時は遡り、10歳のトリシヤが”離れ”に連れてこられて数日たった頃。
「これが・・・”白い炎”」
真っ暗闇の中、仄かな光を帯びて浮遊するいくつもの塊。あまり娯楽本を読んだことのないトリシヤでも想像がつく、この地で毒殺されたという死者の魂か何かが浮かばれずに”離れ”の中を飛んでいるのだろう。聞いた時にはそんな恐ろしいイメージをしていたのだが。
「”白い炎”って羽生えてるのね・・・」
全てに絶望していたトリシヤにとって、その”白い炎”は最早恐怖の対象ではなかった。なんなら冷静に、よく目を凝らして観察することも出来る程度には怖くはない。
『あれ?』『みえるの?』『わかるの?』『ぼくら?』『このこみえてる?』
ほどなくして、蝶のような羽を生やした”白い炎”たちがトリシヤを囲むように近づいてきた。
恐怖するでもなく、ただじっと静かな眼差しでそれらを見つめるトリシヤの耳に、そんな幼子のような声が聞こえてくるようになったのはわりとすぐのことだった。
『あれ?こわがらない?』『にげてかないね』『しょうきたもってる?』
「話も出来るんだ・・・」
『わ!』『きこえてる!』『へんなの!』『はじめて!』『こわくないんだ』『へんなの!』
「・・・本当、へんよね」
どこか気の抜けたようにトリシヤは笑った。
”離れ”でのひとりきりの生活は、はじまってしまえばそれほど苦ではなかった。
今までの本邸での暮らしも、他人がいたとはいえ孤独であったことに変わりはない。自分が誰にも頼ることの出来ない一人ぼっちの存在だと認めてしまえば、案外他人の視線や気配を気にせずに過ごせる”離れ”の居心地は悪くない。
食料や衣服、勉強のための教本は週に一度乱雑に玄関前に届けられており、必要最低限の衣食住は確保できている。
掃除をはじめ食事や自分の身の回りの支度なども否応なしに慣れてきた。
そうして二月も経ったころから、以前の老齢の侍女よりも厳しく恐ろしい家庭教師が2日おきに訪ねてくるようになった。躾鞭は更に丈夫なものを携え、毎度帰り際に出される膨大な“宿題”を全て解き終えておかなければ背を10回鞭で叩かれる。“宿題”の内容を覚えていなくても同じく叩かれる。服の上からとはいえ皮膚が破けるほどの威力に、それまで以上に我武者羅に勉強に打ち込むようになった。
“白い炎”はというと、あれから特に仲良くなることもなく、互いに“いる”と認識し合っている程度である。
一度会話が成り立つか試したこともあるが、何を話しているかは聞こえても、“白い炎”たちにトリシヤと対話する気はないらしい。元よりすべてに絶望し、なんの期待も抱かないようになってしまったトリシヤも、それ以上“白い炎”と距離を狭めようなどと考えもしなかった。
しかしそうした付かず離れずの存在が傍にあることを、トリシヤは心のどこかで安堵していた。たとえそれが、他の人間が怖がる“幽霊”であったとしても。案外恐ろしいものではないのだな、なんて思ったぐらいだ。
“白い炎”は普段なにをするでもなく、その辺を浮遊している。集団で群れていることもあれば、単独行動が好きな個体もいたりと、実に自由気ままで、時々甘いものが減っているときがある。
週に一度の最低限届けられる食材のなかに甘味など滅多にない。それでも調味料の砂糖の量が減っていたり、外の林から調達してきた木の実がなくなっていたり。
「幽霊が甘いもの好きだなんて・・・私にとっても甘味は希少なんだから、せめて対価を払ってほしいものだわ」
トリシヤがつい零した愚痴でも聞いていたのか、家庭教師の鞭で負った傷が、次の日綺麗に治っていたのには驚きを隠せなかった。
その後も、なにかしら甘いものが無くなったと思えば、詰まって困っていた水洗トイレが解消していたり、嵐で“離れ”の二階部分に倒れ込んでいた大木が跡形もなく消えていたり―壊れた窓も元通りになっていた―、何かしらの対価が支払われるようになったのはありがたかった。
やがて月日は経ち、トリシヤは誰に祝われることもなく成人を迎えた。
以前にも増して何の希望も持たなくなったトリシヤは、一般的な貴族令嬢なら縁談のひとつでも舞い込んでおかしくないが、既に自分が結婚できるとも思っていない。
最低限の衣食住と勉強のみ保証された“離れ”での暮らしも早数年。没交渉な伯爵家には、15歳を迎えた妹・マデリーンの替え玉として、王国では珍しい魔導士を雇って髪と瞳の色を変え、マデリーンのふわふわ髪とは異なる直毛をきつく結い上げ変装を施され王立学園の定期試験を半年ごとに受けさせられるようになった。
それに合わせるかのように、かねてより書類仕事など諸々の雑事を回されていたトリシヤは、当主代行のような役割も強制的に負わされるようになり、朝から晩まで問答無用で酷使されるようになった。
亡き前伯爵から仕える家令からは「これが伯爵家長女としての務めである」そんな白々しい言葉しか向けられることはなく、相も変わらず両親はもちろん誰からも顧みられることのない日々が続いている。
トリシヤ本人にしても、何故そんな環境から逃げ出すことなく、唯々諾々と従っているのかと聞かれれば、物心ついた時から刷り込まれてきた“伯爵家のため”“伯爵家長女としてふさわしい振る舞いを”、そんな呪いまがいの考えから抜け出せていないせいであった。
(“伯爵令嬢”として以外、なんにも持たない私にどんな生き方が選べるというのだろう・・・)
妹のマデリーンと直接会話をしたことはないが、彼女もまたひとりで“離れ”に住まわされ、言い様にこき使われているトリシヤのことを姉とも認識していないのだろう。時折こちらを楽しそうに見ていることがある。その顔は、あの日見た母の伯爵夫人の嘲り笑いによく似ていた。
そんなある日のこと。
その日は翌朝から10日間避暑地へ旅行に行くという伯爵家族ー当然トリシヤは含まれないーに大半の使用人が随行するため、1週間本宅へ来ることを禁じられたー好き好んで出入りしていた覚えはないがートリシヤ。彼女が薄暗い三日月夜のなか、本邸から“離れ”に戻ろうとしていた道中、人間が倒れていたのだ。
「・・・だれ?死体?」
赤黒く血に染まった高価そうな白いマントを羽織った長身の男性と思われる。蹲って動かない、意識がないらしい。
非日常な事態にパニックになりそうになったが、すぐに合点がいく。
「・・・もしかして、あなたたちが連れてきたの?」
男性の周りに浮遊する“白い炎”たちに尋ねる。彼らが進んで人間の近くを浮遊しているのを見るのは、これが初めてだった。
『そう』『このままじゃやばいかも』『にんげんどうしおせわして』『かんびょうー』
相変わらずトリシヤの意思を伺うつもりはないようだ。何事も諦めの境地が身についているトリシヤは、溜息ひとつ返事として、“白い炎”たちに指図した。
「別に構わないけれど、こんな大柄な方私では運べないわ。お湯の用意もしたいから適当なベッドに運んでくださる?あ、私の寝室以外のお部屋よ?」
『そっかー』『たしかに』『はなしはやい』『やっぱへんなの!』
時刻はすっかり真夜中。ようやく男の汚れた服を着替えさせ―“白い炎”がどこからか持ってきた―、傷の手当ても行い―目も当てられない深い刀傷だったが“白い炎”があっという間に塞いだ―、ベッドに寝かしつけることに成功したトリシヤに、見計らったように声がかけられた。
「・・・“妖精”と喋れるのか」
「・・・ようせい?」
いつの間に起きていたのか。男の見たこともない金色の瞳がトリシヤを映している。
こうして誰かとまともに目を合わせて会話するのはいつぶりだろう。トリシヤはどこか早まる胸の鼓動を不可思議に思いながら、慎重に尋ね直した。
「ああ、アンタも“妖精”なのか?」
「?なにをおっしゃっているのか」
「わからないわ」続けようとした言葉は、不意に掬い取られた髪に意識が奪われて続かなかった。
男の大きく無骨な褐色の手が、トリシヤの毛先をそっと優しく握り込み、指先で手遊む。
「そうだ・・・こんなに綺麗な人間はいないか、“妖精”か、それとも上位の“精霊”か」
まだ覚醒しきっていないのか、男はトリシヤに話すというよりまるで独り言のようにぼそぼそ呟いて、しばらくするとまた静かな寝息を立てて眠ってしまった。
「こ、この人・・・なんなの??」
訳もわからず真っ赤に染まった頬を抑え、困惑するトリシヤに”白い炎”が答えをくれるはずもなかった。
次に目を覚ましたとき、男は昨夜の事が記憶にないようにトリシヤに向け丁重に頭を下げた。
「突然現れたにもかかわらず、傷の手当に看病まで・・・誠に感謝する。お嬢さん」
クロードと名乗った青年は、帝国直属魔導騎士団に籍を置く軍人であるという。
トリシヤ達の住む王国とは長年友好的な関係にある帝国だが、数年前から東方の異種族国家とは幾度となく小競り合いが起こる緊張状態にあった。今回辺境地域での大規模な戦闘が開始され、クロードもまた戦地に赴いていたそうで。
「そうか、ここはセンネル湖を超えた隣国・・・どうやら俺は“妖精の気まぐれ”に助けられたらしい」
「“妖精の気まぐれ”?」
「我ら高位魔導士の身に、極々稀に起こるといわれる現象だ。今回の俺のように、不測の事態で窮地に立たされた時、”妖精”どもが気まぐれを起こして危機を救ってくれることがあるんだ。一部の限られた人間しか“魔法”を扱うことができなくなった現在、我らのような存在を失うのはつまらんのだろう」
「そんなことが・・・」
幼い頃から色々な分野の勉学を叩き込まれてきたトリシヤも、この世界のあらゆる事象を動かす存在が“妖精”であることは知っている。さらに上位存在として火・雷・水・土・風・闇を司る“精霊”がいることも。しかし本来人間には無関心とされる“妖精”が一人の人間を助けることがあるなんて、トリシヤは今まで聞いたことがなかった。
「高位の魔導士様ともなれば、“妖精”たちと意思の疎通を図ることも可能なのですか?」
「は?」
「・・・え??」
先ほどまでの精悍な顔立ちからは想像も出来ない、ハトが豆鉄砲食らったようなクロードの呆けた顔にトリシヤもまた目を見開いた。
(なにか、変な事を尋ねたかしら?)
伯爵家からほとんど出た事のないトリシヤは、こうして初対面の人と話すのに慣れていない。そうでなくても日頃から孤独な生活を強いられているのだ。なにか知らぬ間に粗相でもしたとしたら、じわじわと顔色の悪くなるトリシヤにクロードは取り繕うように尋ねた。
「あ、いやすまん。我らであっても“妖精”を認識することは出来るが会話をしたことはない。それは、君がしていることを指すんだよな?」
「わたくしが???」
ますます訳の分からないトリシヤ、クロードはハッとした。
「まさか・・・君はアレがなんなのか知らないのか?」
「アレ?」
そうしてクロードが指さす方向、いくつかの“白い炎”が浮いている。トリシヤは当然のように応えた。
「はい、アレは“幽霊”ですわね」
「ゆ?」
「甘党の、蝶々の羽が生えた・・・」
「私も初めて見たときは驚きました」真顔で続けるトリシヤに、クロードは堪え切れずに噴出した。
「ハハハッ幽霊!?まさか、“妖精”を幽霊と思っていたとは・・・!!」
「な、え!“妖精”??!アレ“妖精”でしたの?!」
クロードと“白い炎”を何度も見返してトリシヤは愕然とした。
確かに蝶々のような羽に、幼子のような言葉遣い。今だって陽光の下を平然と浮遊している。
(だって、あの下男が“白い炎”って・・・そんなの死者の魂とかと思うじゃない!)
なにより此処はかつて惨劇のあったといわれる曰くつきの“離れ”。神秘の存在として、とある地方では信仰対象にもなっているという“妖精”が、こんな場所で呑気に屯しているなんて思うはずもない。
「ど、どうしてこんなところに“妖精”様が・・・」
「さて、自由気ままな“妖精”だが、太古の昔から育まれたような大樹を好んで寝床とするという。この屋敷の裏手、見たところなかなかの大木がいくつも生えているようだし、それでじゃないか?」
「大木・・・なるほど」
クロードの指摘にある通り、この“離れ”は鬱蒼とした林に囲まれている。大樹を寝床に好む“妖精”であれば確かにここは住処とするには都合の良い場所なのだろう。
色々と気が抜けたトリシヤは、未だにくつくつと笑いが止まらないクロードを恨めし気に見つめた。
若干涙目のトリシヤに、クロードは弁明する。
「すまん。決して馬鹿にしている訳じゃないんだ。ただ、君は“妖精”を“幽霊”と思っていても、平然と対峙して、会話して、さらには一緒に暮らしていたんだろう?見かけによらず豪胆だと思って」
「そ、それは別に・・・特に害にはなりませんし、単なる変な人間、ということでは」
「確かに変わってるが、俺は大層好みだ」
「へ?」
「ん?あ、いやちが・・・違わんが、突然すまなかった。とにかく君が肝の据わったいい女だと伝えたかっただけなんだ」
「はいっ??!」
真面目な顔して続けるクロードに、トリシヤは顔を真っ赤にして思いっきり声が裏返った。
これまでの人生において、対人関係は乏しくまともに同年代の異性と接触したこともなかったので無理もなかった。
「と、突然何を言い出されるのですか!?」
「俺としては突然、という訳でもないんだが・・・昨夜、意識が朦朧とするなか目にした君こそ“妖精”や“精霊”と錯覚するほど、俺の目には美しく映った。こうして言葉を交わして更に強く思ったんだ。君は滅多に出会うことの出来ない極上のいい女だと」
「お・・・そ、そんなこと決して」
クロードははっきり昨夜のことが記憶にあるらしい。トリシヤはどうしていいかわからず、立ち上がって背を向けた。
「あの、会ったばかりでよく知りもしない者にそんなことを仰るのはいかがなものかと・・・」
トリシヤはこんな時でも“伯爵令嬢として”毅然としていなければ、と必死に虚勢を張ろうとしていたが、尚もクロードの真っ直ぐな言葉は止められなかった。
「せっかちですまんな。しかしこのまま何も告げず、君のような女性と巡り会えたチャンスを逃せるほど俺は人間ができていない。”妖精のお導き”と感謝して、せめて俺の気持ちだけでも伝えておこうと思ってね」
「“妖精のお導き”・・・」
力強い響きと同じくらい鋭い金色の眼差しからも、クロードの気持ちがトリシヤに伝わってくるようだ。
いつまでも熱の引かない頬を隠すようにトリシヤは眼前に手を翳した。
「そうして困ったように恥ずかしそうにしているのもとてつもなくグッとくる」
「も、もうそれ以上仰らないで・・・」
“白い炎”改め、“妖精”のおかげで傷口は塞がったクロードであったが、失血した量が多くすぐ起き上がれるほどの体力は戻っていなかった。戦地でも膨大な魔力を消費したようで、戦地に赴くための空間転移の術式を構築できるような魔力量には到底足りていないと言う。
「“妖精の気まぐれ”で戻れたりはしないのですか?」
「あてにはできんだろうな。なんせ俺を助けたのは文字通り奴らの“気まぐれ”・・・本来我ら魔道士であっても“妖精”どもにとって興味の対象ではなく、俺の命を助けたところで、前線に戻って戦いたいというのは俺個人の問題で、それこそ“妖精”どもにとっては頓着する問題ではないんだろう」
「なるほど・・・」
「という訳で、誠に申し訳ないが、魔力と体力が戻るまでしばしこの屋敷に留まらせてもらいたい。礼は必ずする」
「は、はい。それは、もちろん構いませんわ」
「ありがとう・・・改めて、俺の名はクロード・デ・バルテルミ。帝国直属魔道騎士団第二師団長を務めている」
「ま、し、師団長?それでは尚のこと、1日も早くご回復してあなた様を待ち望んでいるであろう部下の方々の元へお返ししなくては」
「!」
「とりあえず、あなた様の無事だけでもどうにかお伝えする術があれば」
「あなたは・・・」
トリシヤは慌てたように辺りを見回した。クロードは“妖精”と話したことがないようだが、トリシヤは対話とまではいかずとも互いに話していることはわかる。ダメもとでトリシヤから“妖精”たちに頼んでみようか、そんな思案に駆られていたため、またもや熱い眼差しでじっと見つめられていることに気がついていなかった。
(大概の女性は、戦うことを忌避する・・・“恐ろしい”と感じるのは当然だ、誰も好んで戦地になぞ行きたくもないだろう。軍人の家に生まれた母上ですら、戦地に赴く俺に“誰か代わりの者に行かせればいい”などと平気で言ってくるのだから・・・だが戦わなければ、祖国が相手の好きに蹂躙されるだけ、戦わなければ、大事な同胞の命が無惨に散らされるのを防ぐことは出来ない・・・俺は高位魔道士として、軍人として、祖国のために戦うことに矜持と義務がある。お為ごかしに俺の身を案じる者や、無知を装い戦争などやめればいい、などと言ってくる者はいたが・・・)
「安心してくれ。既に俺の無事は念話で部下に伝えてある。俺が瀕死になった甲斐があったようで、今俺の部隊は活動拠点地の城砦まで一時撤退が済んでいる。あと数日の猶予はあるだろう」
「まあ、それではひとまずはよかった、のですね?」
「ああ・・・・・・しかし悲しいな。そんなに俺に早く出て行ってほしいなんて」
わざと皮肉交じりに言ったクロードに、トリシヤは眦を厳しくした。
「そうではありませんが、あなた様は仮にも“師団長”なのでしょう?実戦経験も何もない私ですので想像して推し量ることしかできませんが、あなた様が背負われているであろう軍人としての責務、そして数多の部下の命を預かる責任者としての矜持を思うと・・・きっと、こうしてこんなところで寝ている己をさぞ悔しく思っているだろうと・・・」
言いながら、確かに重傷人に対していささか冷たすぎるかも、とトリシヤは思えてきた。
傷口は塞がったとはいえあれだけの重傷を負い無くした血が戻ることも、使いすぎた魔力が戻ることもないクロード相手に、さぞ冷酷な人間と思われたことだろう。
(ずっと孤独でいたから?他人を思いやる気持ちが私の中にはないのかもしれない・・・こんな冷酷なところがあの人たちに嫌われる所以かしら)
気まずげに目を伏せたトリシヤだったが、その手を恭しく掬われた。驚いて見ると、クロードの大きな両手に包み込まれている。
「な・・・」
「冗談が過ぎた。本当は、とても嬉しかったんだ」
「え?」
トリシヤを見つめるクロードの瞳は、驚くほど真摯な光を湛えている。
「俺の立場を、心情を慮ってくれたことに心より感謝する、お嬢さん。君の言う通り、本当なら一秒でも早く戦地に復帰したいところだが、今の状態の俺が戻れたところで足手まといにしかならんからな。少しでも早く、体調と魔力を回復させなければ・・・」
「え、ええ。そうですわね、どうでしょうか?私の方から“妖精”たちになにか良い方法はないか聞いてみましょうか?」
「もし可能であるならば、とても助かる。お嬢さん、君の名を教えてもらっても?」
「あ、失礼。申し遅れました、私はヤーリデン伯爵が一の娘トリシヤと申します」
「トリシヤ嬢・・・ちなみに、将来を誓い合った相手などは?」
「え??」
変わらぬ真剣な眼差しでの問いかけに、
(そういうのを聞くのも帝国ではマナーなのかしら?)
はてなマークをいくつも頭に浮かべながら律儀に答える。
「お、おりませんわ」
それより今のトリシヤにとっては、いつまでも両手で優しく握ったまま離してくれない自分の手の方が気になって仕方なかった。
(なんだか、また顔が火照っている気がするわ・・・鼓動も速いし、風邪かしら?)
クロードに移さないようにしなくては。トリシヤがおずおずと手を引き抜こうとするが、離れそうで離れない。
(こ、こういうときはどうしたら・・・)
動転しているトリシヤに気づいているのかいないのか、クロードは構わず続ける。
「どなたか恋慕っている男は?」
「お、おりませんわ」
「では、俺が立候補しても構わないか?」
「は?」
続けられた言葉に、トリシヤの頭は真っ白になった。
「数日後には戦地に復帰せねばならない身でありながら浅ましく思われるかもしれない。だが、この機を逃して万が一君が誰か他の男の手を取ることがあればと思うと、それこそ俺は死地に行かずともどうにかなる自信がある。必ず生きて戻ってくるので、どうか口約束だけでも構わない。俺を将来の伴侶として考えてはいただけないか?」
「は?は??」
「ちなみに我がバルテルミ家は歴代軍人を輩出してきた侯爵家であり、俺は次男で、既に個の武功により子爵位を賜っているが、今後も武勲を立て必ず今以上に出世してみせる」
「あ!いえ、そ、その」
「年は26。当然だが婚約者も恋人もいない。結婚に関して周囲からしつこく言われてきたが、仕事を優先にして、気ままな次男坊とのらりくらりこの歳まで逃げ回っていた甲斐があった」
「ちが、そ、そうではなく」
「もしや・・・俺は、君の好みのタイプではないかな?体は資本なのであまり体格は変えられんが、長髪がいいなら髪を伸ばそう。それとも髭面が好きか?メガネか?なんでも言ってくれ」
「あ、あ、あの」
(好み?このみのタイプ??殿方のことなんてあまりよく考えたこともなかったけれど、クロード様の褐色の肌も、すっきり刈り上げられた雪のような銀髪も、太陽のような切れ長な金の瞳も、凛々しいお顔立ちも、見上げるような立派な体躯も、嫌なところなんてひとつもない・・・どちらかといえば、キラキラ輝いているようにしか、みえない???わ、わからないわ・・・歳近い殿方とはみなこういうものなの??)
かつてない事態にそろそろキャパオーバーになりそうなパニック状態のトリシヤだが、いつまでたっても振りほどかれることのない手に、クロードは更に顔を近づけた。
「どうか教えてくれないか?トリシヤ嬢・・・今、俺に手を握られているのは嫌か?」
「ひ、い、いいえ」
「近づいた顔に嫌悪が湧いたか?」
「け??ま、まぶしいですっ」
「(まぶ?)では、俺のことが嫌いではない。つまり、俺を将来の伴侶として考える余地あり・・・吝かではない、ということでいいか?」
いささか強引なこじつけであるとは、今のトリシヤにわかるはずもなく。
「そ、そういうことに、なるかと?」
「っ・・・ありがとうトリシヤ嬢!」
「!!!」
そうして恭しい仕草で手の甲にクロードの唇が落とされた衝撃で、トリシヤは目を回して倒れることとなった。
トリシヤの住む“離れ”に、クロードが滞在していたのはたった3日の間だけであった。
あの後、なんとか目覚めて―クロードと同じベッドに寝かされていたのでまたもや卒倒しそうになったが―“妖精”たちに少しでも早く回復する術はないかを尋ねたトリシヤ。
『テェヤドダッドェッツエンヌのにくは?』『てにはいんないよ』『ドラゴンは?』『もっとはいんない!』
(て、てやっど・・・え?なに?何の肉??それかドラゴン??)
前半の生物が何かは見当もつかないが、ドラゴンとは神話に出てくるいきものであり、”妖精”や”精霊”以上に希少な存在という事だけはトリシヤでもわかる。これは前途多難だとトリシヤが頭を抱えていると、
『じゃありんぷん?』『うーん』『まいっか』『たのんだのこっちだし』『しかたないなー』
「え??」
“妖精”たちの、蝶々のような羽のはばたきから降り落ちるキラキラした光の粉、鱗粉を煎じて湯に溶き日に3回飲むように、と。妖精たちの言葉をつなぎ合わせるとどうやらそういうことらしく。
(薬湯みたい・・・)
しかして言われた通りクロードに飲ませること2日。
「信じられん・・・まさかこんな方法で魔力が戻るとは」
長年“魔法”を生業とし様々な研究を続けてきたクロードでも知らなかったことのようだが、トリシヤは“妖精”たちからの忠告を口にした。
「あの、これは今回だけ特別に許すことで、二度はないと。他の人間に知られることもあってはならないとのことです」
「そうだな、確かにこれを知られるのはまずい・・・」
「もし、誰かに知られたときは“悪戯”?をすると」
「!!!」
よくわからないまま伝えたトリシヤとは違い、はっきり意味が伝わったのかクロードは見たこともない渋面になった。
「クロード様?」
「わかった・・・断じて、絶対、我が身を賭けてでも他言はしない」
「ま、まあ・・・そんな、“妖精”たちの“悪戯”とは、そんなに恐ろしいものなのですか?」
思わず尋ねたトリシヤに、重々しく頷きを返すクロードだが、
「恐ろしいぞ。この世のどんな拷問より、もしかしたら恐ろしいかもしれない・・・なんせ激臭のパイを顔面に投げられるんだ」
「・・・・・・パイ?」
「とんでもなく臭いパイだ。しかも場所を問わずに。“妖精”どもが飽きるまで繰り返される」
いかにも深刻そうに言うクロードに対して、トリシヤにしてみればあまり恐ろしいものには思えない。
顔面に臭いパイを投げられる・・・その絵面を想像するに、少しおかしな気持ちになった。
(“妖精”たちって、あの喋り方もそうだけど・・・本当に幼子のようなのね。確かに子供が思いつきそうな“悪戯”だわ・・・でも、そうね)
自然と頭に浮かんでくるのは、トリシヤを一度として顧みることのなかった伯爵家の人々の顔。
仕返しや復讐なんてこれまで考えたこともなかったけれど、もしも、彼らの顔面に臭いパイを投げつけてやれたら・・・
(なんてね。はしたない・・・想像するだけなら、良いわよね?)
内心己の思いつきを窘めたトリシヤは気づかなかった。
『いいね』『うんいいよ!』『やっとかー』『ながかった!』『いつにする?』『いちばんおもしろそうなとき!』『じゃあねー』
なんてことを、嬉々として“妖精”たちが話していたなど、全くもって知りもしなかったのだ。
********
わずか3日で慌ただしく戦地に戻っていったクロード。
”妖精”たちの鱗粉のおかげで魔力が回復したものの、たった3日で体調は戻らないだろうとトリシヤは思っていたが、長年鍛え抜かれた軍人の体力は人間離れしているようで、全快とまではいかずとも十分戦地に立てるレベルには回復したらしい。
必ず迎えに来るという言葉をあまり期待せずに、それでも内心待ち望んでいたトリシヤの元に、眩い光を発して空間転移の魔方陣からクロードが現れたのはそれから半年後の事だった。
離れ離れになっている間も、クロードは念話を駆使してトリシヤと定期的に交流を継続していた。
最初はぎこちなかったトリシヤも、やり取りが両の手の指で足りなくなる頃にはクロードに対して心を開くようになり、3日の間では詳しく聞くことの出来なかった彼女の家族のことや、彼女がどういう境遇にいるかも、少しずつではあるが時間をかけて明かしてくれた。
二人の心の距離もぐっと近づいていき、恋というものがよくわからなかったトリシヤにも、クロードに対する思慕のようなものが芽生えてきていた。
「本当によろしいのですか?・・・私が伯爵令嬢ではなくても」
「言うまでもない。俺が心の底から渇望しているのは君自身なのだから」
当初、トリシヤの境遇を知ったクロードは“伯爵家の人間悉く目にもの見せてくれる!”と恐ろしく激昂していたが、考えてみればトリシヤにとって家族であった人間達にそこまでの価値はなかった。
『私の為に怒って下さるクロード様の、そのお気持ちだけで充分ですわ。クロード様の手を煩わせることの方が私にとっては悲しい・・・私の願いは、もうこれ以上“あの人たち”から搾取されないこと、関わらずに生きていければ、それだけで心穏やかになれると思うのです』
幾度となく話し合いを重ねたがトリシヤの思いは変わらず。心情はどうあれこれからヤーリデン伯爵家の意向に背くであろう自身もまた、伯爵令嬢としてふさわしくはないと、トリシヤは家を捨て出ていくことを決意した。
『貴族令嬢ではない私では、クロード様にふさわしくないやもしれませんが・・・』
『見くびってもらっては困るな。俺は君が何者かもわからぬうちから惹かれたんだ。たとえ貴族でなくても、人外であったとしても、俺の気持ちが微塵も揺らぐことはない』
『じ、人外・・・?』
そうして、トリシヤは人知れず“離れ”から姿を消した。
(あの人たちは何も言わずに消えた私をどう思うかしら・・・)
『よし!』『ちょうどいいね』『ぜっこうのちゃんす!』『たいみんぐばっちり』『せきねんのうらみ』『うっぷんはらそー』
―満を持して発動した“妖精の悪戯”によって、伯爵家の人間達は揃ってそれどころではなかったのだが。
時は戻って、テェヤドダッドェッツエンヌのパイ絨毯爆撃を浴び、逆さに足だけ生やした状態で瀕死のマデリーンがクロードに発見されたのは、トリシヤが伯爵家が現状どのようになっているのか気にしていたためである・・・と言うのはあくまで建前であり。このまま何もせず済ますつもりのなかったクロードが意気揚々と乗り込んできたところなのだが、
「・・・ふん、“妖精の悪戯”か。ま、遅かれ早かれ発動するとは思っていたが、これはまた随分景気良くやったな」
“幽霊”と勘違いしていたとはいえ、クロードが見たこともないくらいトリシヤは“妖精”に気に入られていた。
かの有名な“妖精の悪戯”に何ら規則性はないと言われているが、発動条件に関していえばひとつ確実なことがある。
「あれだけの仕打ちを受けておきながら、つい最近までコイツらへの仕返しを思いつかなかったとは・・・全く」
愛するトリシヤを思い浮かべたクロードはしかし、言葉とは裏腹に溢れんばかりの愛おしさに顔が綻んでいた。
“妖精”が気に入った相手を害する者に対する“悪戯”ではあるが、何も無闇矢鱈に発動するわけではないのだ。
俗に言う“妖精の愛し子”本人が、対象者に報復したいと自ら僅かでも思わない限り、“妖精の悪戯”が発動する事はない。
そもそも、万物の全てに干渉すると言われる“妖精”であっても、無から何かを創造することは不可能である。その次元は上位存在である“精霊”の領分であり、“妖精”ができることといえば、欠損箇所を元の状態に戻したり、既存の物質を別の場所に移動させたり、といったことが大半である。
“妖精の悪戯”に頻用されるテェヤドダッドェッツエンヌのパイに関しても、“妖精”が無尽蔵に創り出せている訳ではない。
本来あのパイは、センネル湖畔に太古の昔から暮らす原住民族が、“妖精の大好物”として年に一度献上する供物であった。
“妖精”からしてみれば、別に好物でも何でもない。テェヤドダッドェッツエンヌの肉は原住民族の何よりものご馳走であり、彼らが人間の10倍は長寿の原因でもある。
しかし、毒性の強いテェヤドダッドェッツエンヌの肝は食べられず、甘いものが好きな“妖精”であれば、砂糖漬けにしてサワークリームと混ぜて発酵して包み焼きしてしまえば食べられるのではないか、そんな支離滅裂な暴論により生まれたのがテェヤドダッドェッツエンヌのパイである。
“妖精の大好物”とは完全なる原住民族達による勝手な創作であることは、“魔法”研究に長らく身を置く者ならば広く知れ渡る常識であったりする。
しかしてそれをいちいち訂正しないのも“妖精”らしい所以というか。どこまでも人間に無頓着で無関心な彼らは、献上されたテェヤドダッドェッツエンヌのパイを食べることなく、“妖精”たちの亜空間に仕舞い込んでいる。通常ならそのまま仕舞い込んでいるテェヤドダッドェッツエンヌのパイだが、時折現れる彼らの気に入った人間を虐げる者がいたとき、嬉々として放出するのがいつからか“妖精”たちの不文律となっていった。
当然のことだが、“妖精”は人間達がいかにテェヤドダッドェッツエンヌのパイを嫌悪しているか承知している。なので、完全なる嫌がらせである。今回の惨状を見るに、“妖精”たちは相当鬱憤が溜まっていたのだと思われる。
「俺が手を下すまでもなく散々な有様だが・・・まあいい。“置き土産”はしてやらんとな」
帝国とは違い、この国ではトリシヤ達の親世代までにしか“妖精の悪戯”に関して伝承は伝わっていないらしい。
王家に近しい者達は省くとしても、今回の“妖精の悪戯”が一体、どのようにして起こったのか、この国の人間はよくよく考えてみなくてはならない。
「“妖精の悪戯“を仕掛けられた者達の末路・・・そして、“妖精の愛し子”という存在がどれほど稀有で貴重であり、彼女を失えばどれほどの損失を生むのか、とくと自らの身で味わうがいい」
―その後。帝国直属魔道騎士団より王家へ極秘裏にもたらされた“妖精の愛し子に関する勘案事項”によって、王家は早急にヤーリデン伯爵家当主夫妻と次女のマデリーンを招集。長女トリシヤへの長年に及ぶ仕打ちが明るみとなり、ヤーリデン伯爵家は取り潰しとなった。伯爵家は一族郎党使用人も含め悉く強制労働施設等へ送られたが、それから丸10年、王国の農作物総収穫量は以前の三分の一以下に落ち込むこととなった。
ところ変わって、少し時を遡った帝国の、とある子爵家屋敷にて。
「つ、つまり・・・私が、ほんのすこおしでも“あの人たちにパイ投げたいなぁ”などと思ったばかりに、本当になった、と?」
恐々と尋ねるトリシヤに、クロードは神妙に頷く。
「そうだ。伯爵家の者達、とりわけ伯爵家当主夫妻と、次女のマデリーン嬢がパイの餌食になったらしい」
「そんな・・・そんなのって」
「―どう思った?トリシヤ」
「・・・・・・・・・ごめんなさい。パイまみれの彼らを想像したら・・・ちょっと、少し、もしかしたらまあまあ?スッキリ晴れやかな気持ちを覚えてしまっていますわ」
「なんて罪深い」項垂れるトリシヤにクロードは朗らかに笑った。
「偽善を装うことなく正直なところにますます惚れ直した!結婚してくれ」
「もうっ・・・間もなくしますでしょう?」
「ああ、そうだった」
未来の夫を嗜めながら、トリシヤは幸せそうに微笑んだのだった。
テェヤドダッドェッツエンヌ・・・人間→発音できない、妖精以上→発音できる、(クロード含)高位魔道士→発音できないのわかっているので絶対言わない
お粗末さまでした。