1.夕陽を見るのに明け暮れて
ポケットからホログラム端末を取り出して、メモアプリに記入されたリストを一つ打ち消した。この星にやってきてから、ずっと続けている作業だ。夕方になると野山に分け入って、崖を登り、夕焼けを見て、それから落胆して、山を降りる。この繰り返しだ。
この二年ほど、ずっとこんなことをしている。ここは地球系の顔立ちをしている人が多いから、他の星で代表連合がどんな横暴な作戦をしでかしたとしても、あんまり視線が冷たくないのが助かる。もっとも、私は血筋が地球系というだけだから、太陽系には馴染が無いのだが。
話が逸れた。こんな途方もない時間、体力、金の無駄遣いをする理由だが、子供のころに見た夕陽をもう一度見たいと思ったからだった。はたちで代表連合軍に入隊してから長い時間を兵隊として過ごしてきたが、天の川銀河の端の前線基地で手ひどい怪我を負い「作戦続行不可」の烙印を押された私は、既に帰る家も無く(文字通り、星ごと無くなってしまった)、どうしたものかと思案していた。
何光年か後ろへ行けば、私のようなドロップアウト達に向けた療養所を軍が用意してくれているとのことで、最初はそこの厄介になるつもりだった。だが、事務的な手続きを済ませ、自分の口座に途方もない額の退職金が入ったのを見て、私の考えは瞬時に変わった。この金を握りしめて、自由に宇宙を駆け巡るわけにはいかないだろうか…そんな衝動が私の中に、ビッグバンのごとく輝いた。
正直、あまりに美化しすぎとは思う。「私も所詮は、よくいる人間の一人に過ぎないのだなぁ」と、苦笑いしたのを覚えている。結局はそのまま、素直に療養所行きのチケットを受け取って、シャトルに乗り込んだ。
それから数年、快適なリゾートめいた星で大人しくしていた私だったが、ある日の健診で「がん」が見つかった。私の生まれ星の人に特有のもので、見つけ辛く、医師が気付いた時にはそこそこ進行してしまっているとのことだった。事実を告げられたとき、私の中には落胆や死の恐怖では無く、あのときの煌びやかな爆発があった。今度こそ、自由に駆け出したいという衝動が。
つまり、先に言ったことは必ずしも正しくない。時間も金も体力も、私には消費期限が存在するので、無駄遣いとは言い切れない。贅沢は既に経験したし、ハードに肉体を使うことにも飽いた。心残りはなんだろうと考えて、自分という肉袋の底をさらったとき、指先には「郷愁」が触れた。実家は既に無数の小石となっているが、それ以前に住んでいた、空気の綺麗な星のことを思い出したのだ。
両親はことあるごとに、その星は地球に似ているのだと言っていた。宙域としては戦略的価値も薄く、貧乏な星だったが、故に人々は入植を済ませたあとは、のんびりとした日々を過ごしていた。代表連合の開拓団が初期に発見した星の一つであったので、ルーツは地球人が圧倒的に多い。だから、両親も過ごしやすかったのだろう。今なら私にもそれがいかに尊いことか分かる。
せっかく大枚を握りしめて来たというのに、この星の物価は安い。私はそこの銀行に自分の全財産を移すと、プライベートVTOLジェットが停められるくらいの広さ土地を借り、家を建て、すっかり余生を過ごす準備を整えた。小さなコンピューターにこの星の地図を読み込ませると、微かな記憶を頼りにコンシェルジュ・AIに候補地の絞り込みをさせた。冒頭の目的のために。
なぜ夕焼けなのか。診断を受けたその日に聞いていたのが「Pointless 5」だったから、みたいなことがあったかも知れないが、恐らく、人生で最後に見た「贅沢でない綺麗なもの」がそれくらいだった、というのが正解なのかも知れない。それくらい、辺境での生活はろくでもなかった。
それが一人で見たのか、親と見たのか、友達や好きだった女の子と見たのかすら、もはや定かではない。だが、それに再会できたあかつきには、全て戻ってくるんじゃないかと思った。いや、あり得ないことだとは分かっているが、今の私には、これくらいしかやることが無い。
翌々日、リストの次を確認すべく、昼過ぎからVTOLに乗り込んだ。だいたい三時間くらいのフライトの末に、適当な空き地を見つけて着陸すると、リュックサックと杖を持って野山に入った。
ホログラム端末の時刻をチラチラ確認しながら、ときに急ぎ、ときに立ち止まる。そうして見晴らしの良いところに付くと、ちょうどお目当ては視線を合わせてくれていた。
でも、今回も違った。
端末を取り出して、リストを消す。ため息を吐いて振り返る。
そこには、大きな生き物がいた。背丈は三メートルくらいあるかも知れない。全身毛むくじゃらで、手が大きくて、後ろ足は短いけれど、どっしりと地面に立っている。可愛らしい小さな湿った鼻はしきりに動き、その下には全く可愛くない大きな牙をむきだしている。どう見ても、私と同じ目的でここへ来たとは思えない。
私は彼と同じように、両手を大きく上げて、大声を出した。しかし、彼は下がらない。
どうしたものか。彼が下がってくれなきゃ、私は麓へ戻れない。片時も目を離さず、じりじりと後ろに下がるしかなかった。ああ、人間にもバックモニターがあったらよかったのに。だから私は、自分の後ろにすっかり地面が無いのにだって気付かなかったのだ。
あっ、と、それまで出していた声とは違う類の音が響いた時には、すでに私の身体は大気によってのみ包まれていた。つまり、落ちたのだ。
間もなく背中への衝撃と土の香りがして、痛がる間もなく斜面を転がった。不思議なことに、手も足も思い通りに動くのに、全く勢いが止まらない。宇宙にいた頃にもあまりピンと来ていなかった「重力の井戸」という言葉が、今ようやくわかった気がする。
ついに動きが止まった時には、何によってそうなったのかすらよく分からなかった。目が回って、耳鳴りが酷い。全身が痛くて、本当に痛いのかも不明瞭だ。空気を沢山吸いたいのに、どんなに頑張っても、喉にはそよ風が通り抜けるばかりだ。辛くて、涙が滲んできた。周囲の景色が歪んで、絵の具を筆でかき混ぜたみたいに、ぐちゃぐちゃになっていく。
絵の具を混ぜるのは、自分の欲しい色を作るためだ。今の私はそうではない。にもかかわらず、私の視界では、ずっと探していた色が広がっていた。ずっと、ずっと見たいと思っていた色が。
もはや、身体の痛みも耳鳴りも、他人事だった。私の魂は感動のあまり肉体を無視していて、私という個体を、心を持ったソーセージくらいのものにしていた。もう、それでよかった。
いつまでもそれを見ていたかった。ちょうど、涙が、目が乾くのを防いでくれているので、そうすることにした。本当にいつまでも、それを見続けていた。
「それでは、次のニュースです。地球代表連合軍は、天の川銀河辺境方面での作戦で使用された一部の薬剤について、作戦に参加した兵士に色覚異常の後遺症があることを正式に認め、関係者に謝罪しました。代表連合は今後、賠償の内容について検討するとしています。」